分からなければ変えられない
今日は気分よく部活動ができるなあと思っていたのだが、道場内には少しずつ不穏な空気が満ちてきている。顧問の先生がいるときだって、こんな空気にはならない。
雑談や口数が少しずつなくなり、静まり返る。弓を引くのには理想の空間なのかもしれないが、そうではない現実。
倉野葵が……やはり弓道部に打ち解けられずにいた。
身長も高いがプライドも高い転校生。謝らないし誰にも媚びない。
新入部員は矢取りからやるのが普通なのだが、的中率がずば抜けて高いから、自分が二年のレギュラーになると高をくくっている。
「倉野さんも矢取りに行きなさいよ」
「え? わたしも二年生よ。矢取りは一年生の仕事でしょ」
「だって、ここでは新入部員でしょ。それにまだ仮入部だし」
「わたしだって一年の時は矢取りばっかりしてきたわ。それに、二年でもわたしが一番的中率が高いでしょ。だったら、矢取りは誰がするのが正しくて?」
あー言えばこう。こー言えばああ。
転校生で男子に人気があり、部活動の成績も優秀で強気……。女子からは嫌われるタイプなのだろう。しかも、金持ち……。
「一敷君、なにか言ってよ。主将でしょ」
頼りない主将でも、嫌な役だけはしっかり回ってくる。こんなとき他の男子は決まって端っこの方でコソコソし始める。すみっコぐらしを決め込みよる――!
「うん。えーっと。先輩後輩関係なく、弓を引くなら矢取りをしなくてはいけないと思う」
「ちょっと! 弘人はどっちの味方なのよ」
――どさくさに紛れて弘人と呼び捨てにしないでくれっと目で訴える!
「……どっちって、同じ弓道部の同じチームじゃないか。敵も味方もないよ、アハハ」
作り笑いの練習ってのがあれば、真剣にやっておきたかったぞ。当たり障りのない答えってやつは、逆に相手を刺激してしまうことがある。
「みんなで頑張って強い弓道部になることが真の目標なのさ」
「一敷君、転校生にだけ妙に優しいわね。今日も一緒に部活に来たみたいだし」
「そうよ、なにか弱みでも握られているの?」
――ギク!
握られている……。ごっそり握られている……。目が左右に泳ぐ。だが、弱みなのだろうか、「キスしたくせに」って。
そもそも、キスしたくせにってなんだ。キスしたくせにの後には何が当てはまるんだ。
キスしたくせに、引き起こしてくれないの? ――引き起こしたじゃないか。
キスしたくせに、付き合ってないの? ――照れるわい。
キスしたくせに、他の女子が好きなの? ――キスと好きは別問題……にはならないか。
キスしたくせに……分岐点に戻ってやり直すつもりなの……?
――ドキッとしてしまう。目を開けると、橋本と葵が俺の顔を覗き込んでいた。
これって……三角関係。三角関数? 頭を使わなければ解けるはずがない問題なのか。
ええっと……。
「倉野さんは弓道がうまい。でも、弓道は『道』なんだ。だから、よく当たるから偉いって訳じゃない。本当に偉いのはどういうことかを考えて日々練習していくことこそが『道』なんだと思う」
うわ、すっごい不満げな顔で俺を見つめている……。
口が「キ」の形で止まっているのが……冗談抜きで怖い。確実に「キスしたくせに」と動いていやがる。
「橋本さんの的中率は低いかもしれないけれど、副主将として部活動のために一生懸命頑張ってくれている。二年なのに率先して矢取りもしている。後輩の話を聞いてコミュニケーションもとっている。だから後輩からも信頼されているし、顧問の先生も頼りにしているんだと思う」
目をキラキラさせて俺を見ないで欲しい……。
「難しい話はお仕舞。さあ、練習をしようじゃないか」
すうっと矢を矢立てへと取りに行き、練習を再開した。
ピヨ~ン、スカ。
今日は……ぜんぜん的に矢が当たらなかった――。
渋々矢取りに行く葵は、そんなに矢取りが嫌いなのだろうか……。前にいた高校ではどんなルールだったのだろうか。
葵が矢取りに行くと……女子の後輩は誰も手伝おうとしなかった。沢山の矢を安土から抜いて矢拭きと呼ばれるウエスで矢の先に着いた土を一本一本綺麗に拭く。一人だと矢取りの作業が大変な事くらい分かっている筈なのに。
もう一人、誰か手伝いに行ってくれ……と言いかけて止めた。女子部員の目が、三日月をひっくり返したような「ざまあ目」になっている……。
「転校してきたくせに生意気なのよね」
「そうそう。ちょっと当たるからって偉そうなのよ」
……わざと聞こえるように言っているのだろうか。二年の女子からもコソコソとそんな声が聞こえる。
「拭き終わったわ」
両手で持ちきれないほどの矢を矢立てに葵が入れると、女子の後輩が笑顔で近付いていく。
「今まで一回も矢取りをしなかったんだから、今日はずっとお願いしますね倉野先輩」
「それと今日からは、練習後の掃除もお願いしますね、倉野先輩」
「……分かったわ」
下唇をギュっと噛み締めている葵は、怒るのを必死に我慢しているようにみえた。
以前にも女子の間でいざこざがあったのだが、あの時は橋本が皆の話を聞いて丸く治めてくれ助かった。だが、今回はその橋本にも頼れそうにない。
やれやれ……。どうしてこうも思い通りにいかないのだろうか……。思い通りにいかないことは、やり直しをしてもほぼ上手くいかないのは分かっている。たった一言で分岐先を大きく変えられることなんかは稀にしかない。
練習が終り、葵が一年生に混じって道場の掃除を手伝う。
手伝うと言うよりも、言われたことをやらされているだけだ。道場内のモップ掛けが終ると、的を外して土を拭き、土俵のような硬い安土を竹ぼうきで掃き上げる。数人でやれば直ぐに終わる仕事だが、一人でやると時間が掛かる。
仕方なく手伝おうとすれば、後輩の女子達が妨害をする。
「主将はいいんです! うちの弓道部での後片付けのやり方を覚えてもらうために、今日は一人で全部やってもらっているだけですから」
「副主将の命令ですから」
「え、橋本さんがそう言ったの」
「「はい」」
二人の後輩が大きく頷く。
橋本は……そんなに葵のことが嫌いなのだろうか……。同じクラスに転校してきた弓道部員が……。
掃除を終えた倉野が最後に道場を出るのを確認すると、鍵を掛けた。弓道場に最後に鍵を掛けるのは俺の仕事だ。
「お疲れ……様」
「……」
怒っている……。黒い鞄を持つと、何も言わずにツカツカと速足で帰っていった。追い掛けて話をするべきなのだろうが……気の利いた言葉が思い当たらない。散々愚痴を聞かされるだけだろう。
はあー。
目を閉じて、今日一日をやり直そうか……。
葵のために時間を戻すことになるのか……。だが、いったいどこからやり直せばいいのかが分からない。やり直しても女子部員からの嫉妬や妬み、虐めの類を無くすことなんてできないだろう。
葵の高飛車な性格や負けず嫌いの行動を直すなんて、一度や二度やり直ししたくらいでは治らない。入部する前に懇切丁寧に弓道部のしきたりや女子の性格までもを教えておけばよかったのだろうか。
うーん。このままではいけないのは分かっているのに、どうしていいのか、どうしらたら良かったのかが分からない――。分からないのにやり直しするなんて、それこそ時間の無駄なのか……。
不意に……目を閉じていた俺の唇に温かさを感じて――目を開けた。
――キスされていた――。
甘い香りが……遅れてふわりと包んでくる。
突然のことに驚き、思わず一歩下がってしまった。
「……キス……しちゃった」
――!
「は、橋本……さん」
誰かに見られていたら、一体どうする気だ――。辺りは暗くてよく見えないが、俺の顔だけは真っ赤なんだと思う。
「今日はありがと。じゃあね」
それだけを言って走って帰っていった。
ドキドキと心臓の音だけが聞こえた。お月様だけが見ていた……。
女の子が考えていることが俺には……少しも理解できていない。
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読んだくせに……!?