会中
弓道場内で練習を始める前に葵を部員達の前で紹介した。
「今日から弓道部に仮入部することになった二年普通科一組の倉野葵さんだ」
男子から「おー」っと歓声があがった。女子からは……冷ややかな視線が注がれている。特に一年の女子からの視線が冷たい。
「初めまして。昨日から苔鶏東高校に転校してきました倉野です。前の高校でも少し弓道をやっていたので、こちらでも続けたいと思っています。最初は仮入部からですがよろしくお願いします」
パチパチと拍手が巻き起こった。
「倉野先輩って、どこから引っ越してきたんですか?」
早速群がる後輩達の群れから逃げるように少し離れ、自分の弓の弦を張っていると、副主将の橋本沙里がそっと近づいてきた。
「本当に入部することになったね。やっぱ一敷君の予想ってよく当たるわ」
橋本がうんうん頷いて俺を焦らせる。まずかったかなあ……予想が当たってしまった。
「……いや、予想っていうか、あれ、俺そんなこと言ったっけ」
「言ったよ。『転校生は絶対に弓道部に入る。いや、入れてみせる!』って」
入るかもしれないとは言ったが……。
「入れてみせる! なんて一言も言ってないぞ――」
橋本もクスクスと笑う。
どうして俺はこうもからかわれるのだろう。ひょっとして、からかうと面白いスキルでも身に付いているのだろうか……。悪く言えば、いじられキャラ……。酷く言えば、虐められっ子……。もっと酷く言えば、……ゴミボ?
葵が制服のブレザーだけを脱ぐと、シャツの襟からリボンを外して胸当てを着けた。道着袴はまだ持っていないそうなのだが、弓を引く手に付ける「かけ」と黒い「胸当て」だけは持参していた。
「弓と矢を誰か貸してくれるかしら」
「はい」
橋本が自分の弓と矢を手渡すのだが……矢はどう見ても短い。長さ的には男子が使う矢尺が必要だろう。
俺が自分の矢を使わせようと矢立てから取り出そうとしたとき、
「俺の矢を使ったらいいよ」
さり気なく勲が一本矢を差し出した。
「いえ、先輩のよりも、僕のをどうぞ」
「僕のこそどうぞ」
「僕のを使って下さい」
……一年の男子は、一年の女子達が恐くないのだろうか……疑問視してしまうぞ。
「ありがとう、じゃあ……これを貸してもらうね」
葵が選んだのは、同じクラスの勲の矢だった……。
普通科二組の岡崎勲とは、中学からの友達だ。中学の時も同じ部活に入り、共に汗を流してきた。「同じ高校を受けよう」と言われた時、少し胸がキュンとしてしまったのを……今ではすっかり忘れてしまったわい!
道場内の本座から射位へとすり足で進み、弓に矢をつがえる。その所作を見るだけで矢を放たなくても上手なのが分かった。流れるような所作には要所要所に切れがある。
ゆっくり目を閉じてフーと息を吐き、ゆっくり弓を引きしぼっていく。いつしか道場は静まり返り、皆の視線は葵一人に向けられていた。
ヒャウ! パス!
「「おお!」」
「「シャー!」」
葵の長身からは女子とは思えない力強い矢が放てられ、白黒の的の真ん中に突き刺さった。的の真ん中は、狙ってもそうそう当てられるものではない。
「すごーい! 即戦力だわ」
橋本沙里は素直に驚きと喜びを声にするのだが……。いやいや橋本さん。二年の女子が四人になれば、確実に一人は団体戦に出られなくなるんだぞと忠告したい……。
「久しぶりだと緊張するわ。どうだった?」
「うん、上手ね。倉野さんが入部してくれたら県大会で入賞も夢じゃないわ」
橋本は心底喜んでいる。
「そうね、期待の転校生よ」
「そうね、期待の転校生ね」
目が笑っていない女子が数人いるのだが……。もし本当に入部してくれれば、来年のインターハイ予選で優勝するのも夢じゃないかもしれない。……個人戦で。とは言わない。口が裂けても言えない。
苔鶏東高校の弓道部は、自慢じゃないが最弱なんだ。流星のように現れた期待の超新星とは……葵のようなキャラなんだろうなあ。
ヒャウ! バス!
また当たった。四本連続で的中するとは。久しぶりだなんて……嘘だろ。
部活が終ると道場の掃除と片付けをし、早く着替えを終えた部員から順に帰っていく。
部員の殆どは電車通学だが、徒歩通学と自転車通学もいる。俺と勲は自転車通学だが、勲とは帰る方向が違い、道場を出ると一人寂しく毎日十キロもの距離を帰らなくてはならない。
「じゃあな」
「バイバーイ」
勲は俺よりもさらに遠いところから通学している。部活が終わってすぐに帰っても、家に着くのは九時を過ぎるそうだ。
最後に道場の戸締りをもう一度確認して自転車置き場へと向かおうとしたときだ。
「わっ! ねえ弘人、帰り送ってよ」
葵が道場の並木の陰から急に姿を現したのだ。ビックリして心臓がドキドキしているのは、胸の高鳴りと呼んでいいのだろうか。
「脅かすなよ。お前……さっき電車通学の皆と一緒に帰ったんじゃなかったのかよ」
道場を出てみんなと仲良さそうに話しながら帰ったと思っていたのだが。
「うん。でも、わたしの家、駅と方向が違うから戻ってきちゃった」
戻って来ずにさっさと帰れ……。
得意の脅し言葉で缶ジュースでも奢らされるかもしれない。そう考えるとゾッとする。自動販売機のそばを通らないルートを頭の中で検索する。
「引っ越して間もないから心細いのよ。近くまで送って」
心細いって……どの口が言っているのかっと探したくなるぞ。
「……まだ七時だぞ」
「うん」
「最近では夜の十時に平気で女子小学生がランドセル背負って塾から家まで歩いて帰る時代なんだぞ」
「うん。それはどうかと思うけど」
「……」
「後ろに乗せてくれればいいじゃない」
「誰かに見られたらどうするんだよ」
自転車の二人乗りは警察だって許してくれない。
「平気平気。わたしは」
「俺は平気じゃないんだ」
同じ方向には自転車や徒歩で帰っている後輩がいる。もし見つかったら……副主将に絶対に告げ口されてしまう。なんか、そういう上下左右の繋がりだけは長けている。
「どうしても駄目なの」
「駄目だ」
……くるぞ、あの一言が。
「キスしたくせに」
ほらきた! 期待を裏切らない性格の持ち主だと褒めてやりたい。
「だーかーら。あれは事故だろ。まだそれを言うか」
自転車の鍵を外しながら面倒臭そうに反論する。
俺の自転車のカゴに、葵は自分の鞄をよいしょっと突っ込んだ……。ひょっとして、俺の言ったこと、まったく聞こえてないのだろうか……。
聞く耳持たぬ?
「二人乗りが駄目なら、一緒に歩いて帰ろ。わたしの家、近くだから」
……二人乗りじゃないなら……いいのか。法的には。
「仕方ないなあ……」
帰るのが遅くなる。
「フフ。素直じゃないのね」
いやいやいやいや、なにがどう素直じゃないのかと聞きたいぞ――!
「あ、喉乾いたからジュース買っていい」
「ああ」
自転車を押す俺の横を歩いていた葵が自動販売機の前で立ち止まった。
「なにが飲みたい」
「え、奢ってくれるのか。じゃあ、俺はヨー□ピアンブレンド」
さすがお金持ちだ。小さな缶コーヒーを御馳走になろうじゃないか。
「え、それ本気で言ってるの?」
「……じゃあ仕方ない。五〇〇ミリリットルのコーラでいいぞ」
「そうじゃなくて! 普通は男子が女子に奢るものでしょ」
「普通はな。だがこれはまったく普通じゃない。俺の家とはまったく反対方向じゃないか。さらに、家は近くだとか言いながら、かれこれ数十分も歩き続けている」
缶コーヒーの一本でも安いと断言できるぞ。腹も減ってペコペコだ。自分の家の方向も覚えていないんじゃないのかと不安がよぎるぞ。
「こんな可愛い女子と一緒に歩いて帰って、それでジュースまで奢ってもらおうだなんて、罰が当たるわよ」
「もうとっくに当たってる」
自分で自分の事を「可愛い女子」とか言うな。偉く自信過剰なお嬢さんだ……。
「……キスしたくせに?」
「あれは事故だろ」
「あーあ、ファーストキスが事故扱いだなんて、やんなっちゃうわ。返せっていいたいくらい」
――返せるもんなら「のし袋」付けて叩き返してやりたいくらいだっ――。いやまて。
……ファーストキス……だと。いやいやまてまて。
「ファーストキスだなんて、どうせ嘘だろ」
「ギク」
「ギクって言うなよ」
思わず笑ってしまうじゃないか。どうやら図星のようだ。その相手が羨ましいぜと逆に冷やかしてやりたい。
「ひょっとして、弘人は一度キスしただけで相手が何度キスしたか分かるスキルの持ち主なの」
「おぞましいわっ! そんなスキルの持ち主は」
まったく、なにを言い出すんだ。それじゃまるで俺がキス魔みたいじゃないか。
「じゃあ、どうしてバレたのよ~」
靴をトントン鳴らしてあからさまに悔しがるなよ。その仕草は可愛いが……。
「そ~んなに大事なファーストキスだったら、事故だのなんだのと騒いだりせず、もっと……こう、しおらしく、シクシクハンカチの端っこを噛んで泣くとか」
クスクス笑いをこらえている。
「直ぐに水道の蛇口で口をゴシゴシ洗うとかあるだろ。ほら、水溜まりの汚れた水で唇を洗うマンガとかも昔読んだことがあるぞ」
「あーそっか! なるほど、そこまでしなきゃいけなかったのか」
「別にしなくてもいいけど、俺はお前のファーストキスなんか奪っていない」
ちょっと肩の荷が下りた。これでキスしたくせにと言われても、それほど焦らなくてよさそうだ。
仕方なく缶ジュースは奢ることにした。一口だけ貰った紅茶花伝□イヤルミルクティー。たとえようのない甘さが、お口一杯に広がった。
葵の家は、最近建てられたばかりの高級マンションだった。この辺りの建物の中では一番高く、エントランス入口はセキュリティーロックが掛けられた自動ドアが閉まっている。
「ありがとう。じゃあね」
「ああ」
お金持ちっていうのは、本当だったんだ……。
帰り道は、いつも以上に月が明るく感じた。
ファーストキスか……。
実はファーストキスには苦い思い出がある。保育園の時、何も知らずにテレビの真似事で、女の子とチューをしてしまい……他の男子達から小学校高学年になるまで冷やかされ続けた。実際にはチューしたことすら覚えていないのに、その悪友のせいで、「弘人はファーストキスをもう済ませた女たらしだ」と言われ続けた。女たらしって言葉……よく知っていたなと感心してしまう。
時間を戻すやり直しスキルを使い、何度やり直しても悪口を言い続けられた嫌な思い出は、なぜか消えず、言い続けられた……。
今考えてみると、キスする前からやり直さなくてはならなかったのだ。
そんな幼少期のせいだろう。「キスしたくせに」とか「ファーストキス」だとか言われると、少し動揺してしまう。トラウマってやつだ。
保育園の時にチューをしたことなんて、もうなにも覚えていないのに……。
そもそも、チューをした相手の名前すら憶えていない。学校区が別々になったから……。
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読んだくせに……!?