次の日
「ねえねえ、弘人君。倉野さん知らない?」
二組の教室に橋本が入って来て、第一声がそれだった。俺は机に突っ伏したまま狸寝入りを決め込んでいた。
「急に退学届けが先生の机に置いてあって、学校辞めちゃったんだって」
「……知らない。あんな奴」
辞めたんじゃない……。やり直して消えたんだ。この分岐から。
じゃあいったい……この分岐に残された俺達はどうしたらいいんだ――。
――俺はどうしたらいいんだ――。
「引っ越しとかも済ませていたそうよ。いったいどうやったんだろ」
引っ越し? 重たい体を起こすと橋本が不思議そうな顔をして覗き込む。
「橋本さんは……倉野さんの住んでいるところ、知ってたのか」
「……沙里って呼んでくれたらいいよ……弘人」
ちょっと頬を赤くしてそう言う。クラスの周りの目が……さっきから少しだが気に障る。でもごめん。ちょっと今はそんな気になれないんだ。
「最近完成したばかりのマンションに引っ越してきたのよね。クラスでいつも自慢していたもの」
「……」
あの住んでいたマンション……嘘だった。あれから昨日、マンションの郵便受けで名札を確認したが、倉野なんて苗字はなかった。必要最小限の書類と学校へ行くための制服だけを準備して、数週間だけと決めて転校してきたんだ。マンションに住んでいると見せかけて、どこか近くのホテルに泊まっていたのかもしれない。
下調べをしてやり直しを繰り返せば、保護者の同意や住民票のすり替えなど、簡単に転校を受理させられたのだろう。校長の印鑑さえ押してあれば、担任の先生は従わなくてはならない。
最初から全部、葵が考えていたシナリオだったんだ……。そのシナリオが思い通りに終わったから……この分岐から姿を消した。追い掛けても見つけられない……か。
「弘人君はどう思う」
「分からない」
分からない……なにも。なぜ葵はわざわざそんな面倒な準備までして俺に近付いてきたんだ。
俺に会いたかったんじゃなかったのか。一緒に苦労を共感し合いながら生きていこうとしていたんじゃないのか。ひょっとして、俺があまりにも想像以上に情けない奴だから、見限った? いやいや、だったら別れの時にキスなんかしないだろう。退学届けを出して、人にバレないように目を閉じ分岐点へ戻ればいい筈だ。
「……探そうと思わないの」
橋本の意外な一言に驚かされる。引っ越ししたのなら、たしかに探せるのかもしれないが。
「探すって言ったって……」
時間と空間が……次元が違うんだ。
「キスしたくせに」
――ハッとして橋本の顔を見た。少し頬が赤い。クラスの何人かにも聞かれただろうが、気にしない。
「どうして……それを」
「聞いたもの。倉野さんに」
聞いたって……自分から喋ったのか。――あの葵が。
「それが悔しくて、わたしも負けたくなかったの。でも、葵が言ってたわ。どうせまたすぐに転校していくのよって……。嘘だと思っていたんだけどなあ」
「嘘じゃなくて、本当にどこかへ行ってしまった……」
キスしたくせに……。
「弘人君。本当に葵のことが好きだったなら……、やっぱり追い掛けた方がいいと思うよ」
「追い掛けるだって」
始業のチャイムが鳴ると、橋本はニッコリ微笑んで自分のクラスへと戻って行った。
……追い掛けた方がいい……ここにはいない葵を。
見つかれば分岐点からやり直しするから、もう一生見つけられないと言った葵を……追い掛けるだって?
どうやって――無理じゃないか。
目を閉じると、葵の声で「キスしたくせに」と今でも鮮明に聞こえてくる。でも、年月が経ち記憶が薄れていけば……次第にこの声も忘れてしまう。保育園での出来事……あれが俺にとって始まりだった。ファーストキスだった。
それなのに、最後もキスで別れただなんて……。
……ん。
分岐する一番前の……スタート地点は変えられるのだろうか。俺にとっての分岐の始まり。保育園でのできごと――出発点。葵が最後に教えてくれた。
――あの日に戻れば、どれだけたくさんの分岐をしたとしても、葵は絶対にそこにいるはずだ。
――目の前にいるはずだ。あの日は分岐点ではなく、俺と葵との出発点になるからだ。
追い掛けるって……そういうことだったのか。探せなくても俺には、追い掛けることだけはできる――。
……だが、冷や汗が流れる。人生のやり直しに近い。今まで過ごしてきた時間を全て無駄にしてしまう。それだけじゃない。葵のように、この現在から急に俺がいなくなれば……家族、友達、地域の住民みんなが急にいなくなった俺を探し回るだろう……。どんな書き置きをしたって、人が急に消えてしまっていい道理がない。
だがそれは今までも同じだった……。一度も気にした事などなかったが、葵が消えて初めて気付かせられた。そして……これからも無いとは言えない……。なぜなら、こう見えても俺は最強スキルのせいで極度の逃げたがり屋なんだ……。
俺だけじゃなかった。葵も……俺と同じだった。
必死にそうは見えないように振舞っていたが、いつも責任ばかりを感じてしまい、逃げたくて逃げたくてたまらない弱虫なんだ。俺に謝りたいだなんて……。
――でも、葵を助けてあげるには、この方法しかない。もう逃げてはいけない。
孤独でいつも無理ばかりして笑っていた葵。泣き止むために酷使してきたやり直しスキル。そんなのおかしい――。最強のスキルどころか、まるで呪われたスキルだ――。そのことを、俺しか分かってあげられない。
幸せの定義は人それぞれ違う。葵は裕福に暮らしているように見えたが、決して幸せだと感じていなかった。俺はたくさんの友達から学んだ。本当に必要なスキルは、持って生まれた力なんかじゃなく、成長する過程で築き上げていくものなんだ。
逃げてばかりで育てあげられるものなんかじゃない。泣いているばかりで育て上げられるものなんかじゃない。
それを教えられた。今度は俺がそれを教える番なんだ――。
そっと……目を閉じた。
これ以上考えちゃ……駄目だ。躊躇していたら泣いている葵を……大好きな葵を、
――一生救えない――。
目を開けると、どことなく面影が残る保育園児の女の子が目の前にいた。目に入る光が急に眩しく感じる。
小さい頃はこんなにも世界は明るかったのか……。
「葵!」
「……もしかして……弘人なの」
甲高い声。でも、葵なのが分かる。目を見張って俺を見つめている。俺の手は……さっきまでの半分の長さにも満たない――。葵の指も短くて可愛い。
「ああ、追い掛けてきた。もうこの手は離さない。もしそれでも葵が分岐点へ逃げると言うのなら、俺はいつだってこの出発点まで迎えにくる。もう迷わない。二人でやり直しのない生き方を貫き通し生きていこう。もう決して、葵だけに悲しい思いなんてさせない――!」
クリっとした瞳に涙が浮かぶ。
「お馬鹿さんね……。それか、弘人って、よっぽどの暇人なのね」
「葵こそな。もう強がる必要なんてないんだ。俺がいつも、いつでもそばにいてやるから――」
俺にとって葵が、葵にとって俺が、運命の人だったんだ――。
「……弘人」
激しく抱き合い、もう一度熱い口づけを交わした。
「あーチューしてる!」
「見―ちゃった、見ーちゃった!」
「せんせー、あーちゃんとひろ君がチューしてるー」
「やーい、ヒロ君のスケベ!」
「こら、二人共やめなさい、赤ちゃんができるわよ! キー!」
キスくらいで赤ちゃんはできないぞと言い返してやりたい。
葵はまた目に涙をためていた。本当に泣き虫なんだから……。
「一生……俺と一緒にいよう。だから、もう、キスしたくせになんか言わせない」
「……うん」
二人でこれから、逃げずに人生に立ち向かっていこう――。
――人生は稲妻だ。空から地上へと一気に突き抜け落ちる一本の稲妻だ。
時として、長く感じられるかもしれないが、力強く光り輝く、一瞬の煌きなのだ。
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読んだくせに……分岐点からやり直せる最強スキルを使いますか~?
また次の作品でお会いしましょう!!




