秘密ごと
「ちょっと、昨日のあれはいったいなによ!」
昨日のあれって――どれのことだ――。朝から冷や汗がナイアガラの滝のように流れ落ちる――。ズボンの右後ろポケットからハンカチを出して拭うのだが、両面がすぐにドボドボになるほどだ。
朝、登校した俺は校門のところで葵に呼び止められたのだ。
「あれじゃまるでわたしが悪いみたいじゃないの。腹立つわ、なんとかしなさいよ」
悪い……ってなんだ。悪いのは突然キスしてきた橋本であって、あれも……恐らくは事故だ。どちらかといえば俺は被害者だ。
いやまて、「わたしが悪いみたい」って、なんだ。
ひょっとすると、葵は別のことで怒っているのか。
あー。昨日の部活中のことか。
聞くところによると葵は、帰ってからも「やっぱりおかしい!」と腹わたを煮えくり返していたらしいのだが……。
「いや、あれは葵が悪い。せめてあそこでは、『そうね、矢取りも頑張るわ』が模範解答のはずだ。『ゴメンネテヘペロ』でもよかったんだ。あれじゃ女子部員達は誰も葵の味方してくれないさ」
眉毛を吊り上げないで欲しいぞ。せっかくの美人が台無しだ。
「なんですって――。あー、分かったわ。弘人はあの橋本って女子が好きなのね」
「――ちっちちっちっちちっ違うよ! いきなりなに言い出すんだよ」
今それを言われると、ドキっとしてしまうだろーが! 得意気な顔をするなよ……。周りを見渡すと、登校してくる生徒がこちらをチラ見している。
「ちっが多過ぎ。あーあ、そうなんだ。弘人は橋本が好きなのか」
「違うって言ってるだろ」
「キスしたくせに」
ドキッと胸が苦しくなる。ひょっとすると、どこかから見られていたのか?
キスした……。キスされた……。葵とではない。葵は昨日のことを知らない。昨日のキスに比べれば、葵とのキスは……正真正銘、事故だ。打ちどころの悪い事故だ――。出会い頭に唇と唇が当たるような偶然なんて、天文学的な確率でしか起こらないハプニングだぞ。
「おはよう」
「――!」
口論していると、俺と葵のすぐ横を橋本が友達と歩いて通り過ぎて行った。
「あら、橋本さんじゃない。おはよう」
「おはよう倉野さん。二人共、仲がいいのね」
ニッコリと微笑んで歩いて行く橋本沙里……。昨日、俺にキスをしたことを……どう思っているのだろう。……勝者の余裕にも見えた。
「なによ、あれ」
「……「あれ」は……ないと思うぞ。弓道部副主将の橋本沙里さんだぞ」
俺の話に耳も傾けず、形のいい顎に握った手を当てて考え込む。
「……ひょっとして、何かあったの?」
「あるわけないだろ」
自転車を押し、逃げるように自転車置き場へと向かった。
どうして女子ってこんなに鋭いんだ――。
「よ、モテる男は辛いねえ」
教室に入ると勲にもそうからかわれた。葵と校門で話しているのを見られていたのだろう。
――昨日の橋本とのキスは見られてはいないはずだ。あの時、道場の入り口には俺しかいなかった。勲も他の部員達も、全員が先に帰っていたはずだ。それを確認したからこそ橋本だってあんなことをしてきたはずなんだ。
あの現場を見られていたのなら、やり直しスキルを使わなくてはならない。……どこか勿体ない気がする。
「からかうなよ」
「弘人にもようやく理想の相手が現れたってわけだ」
「……」
理想の相手って……。
岡崎勲には……高一の時から彼女がいる。同い年の弓道部員で、入部して一か月後には付き合っていると噂されていたし、その噂は本当だったし、コソコソもせず堂々たるイチャイチャぶりで、顧問の先生も呆れ果てていたくらいだ。
手が早いというよりは、「人が人を好きになるのは自然の摂理だろ」って感じで、説得力があった。彼女がいても普通に女子部員と喋れるのは、やっぱり育ってきた環境の違いなのだろう。俺には無理だ。
そんなスキルが是非とも欲しいぞ。
「だが、まさか普段は極限まで大人しいキャラを演じている弘人が、学校で今、一番有名な転校生と朝から校門でイチャイチャするとはな」
一番有名? 葵は……学校内でもそれほど有名なのか……。だがしかし――。
「誰もイチャイチャなんかしていない。昨日の部活でのギスギスをなんとかして欲しいと頼まれただけなんだ」
なんとかしろと命令されたってのは内緒にしといてやるぞ。
「なーんだ」
聞いておいて「なーんだ」とはなんだ、と言い返したいぞ。
「勲だって昨日の転校生虐めを見ていたのなら、何か言ってやってくれよ。見て見ぬふりは酷いじゃないか」
「酷いって……あんなの、いつものことじゃないか」
「え、いつものことなのか」
聞き捨てならない。そんなにいつもギスギスしていただろうか……。俺は一切気が付いたことがなかった。
「ああ。どーせ裏で橋本か沢江が女子部員にそうさせているのさ」
「え? 橋本か沢江……さんが?」
橋本はそんなことしないだろう。なんせ副主将なのだから。だとするともう一人の二年女子、沢江由香は……お前の彼女だろーが!
可愛い顔して毒舌なのをよく聞いている……。沢江だけが特進科で、授業数が普通科よりも多く、部活に出られる時間がその分だけ短い。
「だったらそうさせないように言ってくれよ」
「お、いいぜ」
いいのか? 本当にそんな軽~いノリで意地悪をしているというのなら、ちょっと問題だぞ。
「弘人に彼女ができるかもしれないんだからな。連絡しといてやるよ。由香のやつ、転校生が団体のメンバーに選ばれたら自分の座が危ういからってヤキモキしてるんだ」
たしかに一人増えれば誰かは団体戦のメンバーから外れなくてはならない。的中率が低いなら……致し方ないのだが。
「……」
制服の内ポケットからスマホを出して、ニヤニヤしながら文字を打たないでくれと言いたい。俺は女子の連絡先を知らない。スマホだって学校には持って来ないようにしているマジで真面目な男なのだ。不器用ともよく呼ばれる。
「スマホで連絡するだけで……意地悪するのを治められるのか」
「なーに、ちょっとギュウってしてやって、頭撫でてやればチョロいさ」
チョロいって言うなよ……お前達二人の関係が怖いぞ。
文字を打ち終わると返信を確認して内ポケットへと仕舞った。
「オッケーだとさ。ちなみに、俺は弘人を応援してやるぞ」
「……いらん」
「遠慮するなって」
人の気も知らずに――。葵がみんなから虐められることで俺がどれだけやり直してどうすればいいか悩んだことか……。
その日から、女子部員からの葵への虐めがピタリとなくなったのには唖然とした。二年の女子も、後輩達も、まるでやり直しスキルでも使ったかのように治まっている。葵に普通に話し掛けている。
本当に勲の彼女、沢江由香だけがそう指示していたのだろうか。沢江だけではなく橋本沙里も一緒に指示していたのなら……俺にはいったい、何がどこまで見えているのだろうか。。
不意にキスされて浮かれていた。だが、橋本がいったい何を考えていたのかまったく分からない――。本当に俺のことが好きだったから……キスしたのか。
キスしたくせに気持ちが分からないなんて……。
なんだか泣けてくるぞ……。
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