侍女日記(仮)
それはとても穏やかな昼下がりのことでした。
まさに盛りである花が我こそはと競うように咲きほころぶ庭園に面した、回廊で一組の男女が笑顔で向き合っていました。
端から見れば仲睦まじいカップルだなぁと微笑ましく思ってすませたかもしれません。
ですが、幸か不幸か彼女は2人の声が聞き取れる位置にいました。
彼女が見守る中、この屋敷の旦那様の愛娘であられるお嬢様が、婚約者であられるとある貴族の若旦那様に口を開きました。
にっこりと、思わず見とれてしまうような笑顔で。
「そこをどきやがっていただけないでしょうか?」
鈴を転がすような可愛らしいお声に、若旦那様は苦笑なされました。
「それはできない相談ですよ。また遠乗りにでも出かけるおつもりでしょう?」
「まぁ!わたくしが今からそのようなことをするように見えまして?」
「えぇ、見えますよ。逆立ちしようがいまのあなたの格好は、少なくともパーティー会場よりは猟師たちの聖地である森のほうが似合うでしょうね」
「まぁ、酷いですわッ。せっかくあなたと“ぱーてぃー”にいけると張り切りましたのに」
お嬢様は深紅の乗馬服をつまんで、くるりと回転して見せた。
ご丁寧に脇には、侍女長が半日がかりで着せたのであろう豪奢なドレスを抱えている。
若旦那様は眉を八の字にして困った顔を作り、己より6歳年下のお嬢様の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「それは光栄ですね、レディ?そんなにわたしに恥をかいて欲しいですか」
「窒息するくらいに恥を上塗りなさっては如何でしょう?喜んでお手伝いしますわ」
「えぇ、そうでしょうね。あなたは嬉々として恥を塗ってくださる。あまりの嬉しさに涙が出てきますよ」
「喜んでくださって嬉しいわ!わたくし、あなたの喜ぶ顔を見るのが大好きなんですの」
語尾にハートマークがついていても全く違和感のない、うっとりとした表情でお嬢様。ああ、なんてあくど、いえ、可愛らしい。
お嬢様の言う若旦那様の喜ぶ顔=一般的に言う困った顔であることは、この屋敷の人間ならば誰でも頭の中に叩き込んでいる方程式である。
でないと必ず、若旦那様に対する悪戯の手伝いをさせられてしまう。
それでなくても、お嬢様は強引かつ人の弱みに付け込むようなお方であられるから手伝わされるというのに。
何回侍女長にお叱りを喰らったことかと、私は2人にはわからない程度にそっとため息をついた。
この2人が婚約したのはつい1月ほど前。
幼い頃から懇意な仲ではあったのだが、何せ6つも年齢差があるのだ。
お互いに兄弟といったくらいの認識しかなかったのだ。
それが急に婚約者という仲になれば、戸惑うのも当然の帰結であった。
年の功というのもあり、若旦那のほうは早々に状況を受け入れたようだが、まだ確かな恋をひとつもしたことのないようなお嬢様のほうはそう簡単には行かない。
婚約の祝言から一週間ほどは屋敷を壊滅させるような勢いで暴れまわったものだ。
被害総額のことは考えたくもない。きっと数字を見たら庶民派である私は失神してしまう。
「って、うゎれ!?お嬢様ッ!?若旦那様もいらっしゃらないしッ!ってぇっ、侍女長!どうなされたんでぃすか」
「何を言っているのかしらこの子はまったく!あれだけお嬢様を見ておきなさいといっておいたのにまったくもうっ。お嬢様ならわたくしを見るや否や若旦那様を押しのけて駆けていきましたよ。ほら、あなたも早く追いかけてっ」
「押しのけって……え、あの、“も”って、もしかしてもしかしなくても若旦那様も追いかけられたんですか!?」
「そうですよ。本当に、迷惑ばかりかけなさって……。せっかく仕立ててくださったドレスもこんなところに放り出してるし」
巨大な牡丹の花が開いたかのように捨て置いてあるドレスを拾い上げ、メイド長はぐちぐちと文句を垂れる。
私はそれ以上クドクドといわれる前に、さっさとお嬢様を追いかけるべくその場を退散した。
実に賢明な判断であると自分を褒め称えたい。
――――――――
「やっと捕まえましたよ。まったく、相変わらずのお転婆ですね、貴女は」
「はーなーせーッ。んにゃろうっ」
「どこでそんな言葉を覚えたんですか……」
溜め息。
「こーのー人攫いーッ」
若旦那に軽々と担ぎ上げられ、荷物のように肩に背負われてしまった。
じたばたと脚をばたつかせるも、一向に効果がない。若旦那様は涼しい顔だ。
「まぁ、侍女たちの前でその言葉を使わないだけでもマシなのでしょうがね」
「ふんだ。……どうして敬語なんか使うのよ」
「仕方ないですよ、まだわたしはこの家のものじゃないですし」
「嫌いよ」
吐き捨てるように、幼い心を吐露する。
「大っ嫌い!お父様もお母様もみんなみんな大嫌いよ!嘘ばっかり!私知ってるんだからッ。この婚約だって結婚だって全部全部嘘っぱちだって!ただの紙の上でのものなんだって!姉さまだって私と同じで、それで可哀想だったって兄様言ってたんだから……ッ!」
「…………」
「嫌いよ嫌いよ……ッ!あなたのその喋り方も大嫌いッ」
「………泣くほどに?」
見えもしないのにそう言われて、お嬢様は慌てて涙を乱暴にぬぐった。
ぐずっと鼻がなった。
若旦那がくすっと笑った気がした。
「あぁ、僕のことを好きだといってくれた君はどこにいったんだろうね」
臆面なくこんなくさい台詞を吐く若旦那に、思わず角から覗き見するようにしていた私は赤面してしまう。
というか、こんなことしてるところを見つかったらかなりめちゃめちゃ鬼のようにヤバイのだが、どう考えてもこんないい雰囲気っぽいところを邪魔することなんてできない。
好奇心もあるし。
一応後方を確認して、侍女長やらがいないことを確かめてから、再び二人に目を戻す。
「…………」
何もいわずにぐずぐずと鼻をすするお嬢様。
若旦那様はひょいと肩に荷物のように背負っていたお嬢様の脇を抱えて、自分の顔の前に彼女の顔を持って来た。
カッとお嬢様の顔が紅潮する。泣き顔を見られるのはそりゃまぁ、恥ずかしいだろう。
あぁ、こんなに泣き腫らして、と若旦那様は苦笑なさいながらお嬢様をおろし袖口で涙を拭う。
ぅ〜と唸るお嬢様はまるで犬のようだ。
「君がそこまで嫌いなら、2人でいるときは喋り方を戻そうか」
お嬢様の唸り声は止まらない。
何を言っていいのかわからないというのが本音なのだろうが。
「うーん、レディを泣かせるのは紳士として恥ずべきことなんだけどな。1つ何か願い事を聞くから許してくれないかい?」
片膝をつき、地に下ろしたお嬢様の手をとり優しくたずねる。
お嬢様はしばし思案するように視線を泳がせた後、キッと睨むように若旦那様の顔を見つめながら呟くように言った。
「…………ホントのこと、教えて」
「うん?」
「兄様が言ってたの。あなたは聡明だから、紙の上での婚約ってのも承知の上だって。なんで承諾したの?お家のため?」
ぱちくり。
若旦那様は穏やかな緑色の目を見開いて固まった。
それからとても困ったように、哀しそうに、寂しそうに笑い頷いた。
お嬢様の顔が絶望に染まり、反射的に振り上げられた手が若旦那様の頬を見事に叩きのめした。
乾いた音が回廊に響く。
思わず「まぁ!」と、頬を押さえてしまう角で見てる私。我ながら神経が図太いと思う。
若旦那様はゆっくりと強制的に向かされた顔を、お嬢様のほうに戻しとても哀しそうに笑った。
「紙の上での婚約というのは、知ってたよ。政略的なものだってことは、ね……。そのために僕は貴女に近づいたんだから――」
「それ以上言ったら殺すわッ!」
再び手を振り上げた拍子に、絶望に染まったお嬢様の目じりから数滴の涙が宙を舞った。
パシン!
再び乾いた音。
口を開こうとしていたらしい若旦那の顔が再び強制的に横向けになる。
「嫌い嫌い嫌い嫌い!!!大嫌いッッッ」
「うん、それでいいよ。僕のことは嫌いなほうがいい。……そう思ってたんだけどね」
不意に若旦那様が天上を仰いだ。
止まらない涙を拭うお嬢様は気づいてない。
きっと、すでに彼の言葉すらも耳に入ってはいないだろう。
壊れた人形のように首を振りながら「嫌い嫌い」と幼子のように連呼している。
「そう、思ったんだけどね……。こんなにも辛いだなんて、思わなかったよ。君に嫌われてしまうことが」
小さな囁きのような独白。
若旦那様は壊れ物を扱うかのように、涙を拭うお嬢様の手をとった。
絶望のうちに沸いた怒気を孕んだお嬢様の瞳が若旦那様を睨みつける。
あんな目で睨まれるくらいなら、先ほどの平手打ちを喰らうほうが数倍マシかもしれない。
「だから、今から言うことは、忘れて欲しい。きっと、言ってはいけない言葉だから。でも、それでも、僕は僕のために言うよ。この婚約は、僕が望んだことなんだ」
一息。
「――僕は君を、愛してる」
時が、止まった気がした。
そっと、泡にでもふれるような柔らかい口付け。
時間から置いてきぼりを食らったかのように、呆然と立ち尽くすお嬢様の頭を若旦那様はくしゃくしゃっと撫でた。
ぽふっ。
熟れた林檎のように真っ赤になった顔を隠すように、お嬢様は若旦那様の胸に顔をうずめた。
遠くのほうで侍女長がお嬢様を探している声が聞こえてくる。
角で耳を赤くしながら一部始終を見ていた私は、慌ててその場から立ち去った。
馬鹿っ!と叫ぶお嬢様の甲高い声を最後に、私はあの2人がそのあとどうやってパーティーの出席を断ったのかは知らない。