津谷景子の四日目 その5
「そう言えば明さん、今日妹さんと会ってました?」
気を取り直して私は聞いた。
「え? 何で知ってるの?」
明さんの驚いた顔を見て、やっぱり薫子が見たのは五十鈴さんと輝君だったんだと私は安心した。
更衣室から明さんがヨガウェアに着替えて出てきた。
ダークグレーの短パンに黒のシャツと言う格好で、厳密に言うとヨガウェアではなく、ヨガをしやすい服装だね。
こちらはまだ黒い服装のままなので、ヨガウェアも選んであげたらよかったなと思った。
今度、また一緒に買い物に行こうかな。
サクラのレッスンの予約人数を確認する。
今日は私と明さんも含めて、生徒さんは十二人だね。
私はヨガマットを人数分引いていると、サクラは部屋を薄暗くして、アロマキャンドルを灯していた。
何の匂いって言うのかな?
少し甘くて、何だか気分が落ち着く。
私は部屋の隅でサクラのレッスンを受けた。
受付がいなくなるけど、今日の最後のレッスンだし、午後の七時以降に説明を聞きに来るお客様はほとんどいないので気にしない。
電話も本部のほうに繋がるようにしているので、大丈夫。
ゆっくりとヨガに打ち込めるね。
隣で明さんがちょっと痛そうに体をほぐしている。
変わらず筋肉痛で動きづらいみたい。
薄暗いまま、サクラの陰ヨガのレッスンが始まった。
陰ヨガは同じポーズを長くする。
一つのポーズを五分くらい続けたりするので、左右あるポーズだとそれだけで十分かかる。
それに説明とかも入るので、七十五分のレッスンで六つくらいポーズをする感じかな。
アシュタンガヨガだと五十ポーズくらいするからえらい違いだよね。
陰ヨガは同じポーズを続けることによって、筋肉ではなく腱や筋などに働きかけ、そしてリラックスすることに重きを置いているんだ。
内蔵にも刺激がいって、さまざまな感情が湧き出てきたりするんだよね。
腎臓にたまるのは悲しみ、心臓は喜び、肝臓は怒りなんて言われている。
だから人によっては、陰ヨガをするとボロボロと泣き出す人もいるくらい。
私も少し泣いたことあるよ。
サクラの少女のように高い声を聞きながら、陰ヨガに集中していく。
瞑想をするなら思考をやめて何も考えないべきなのだけど、それはとても難しい。
陰ヨガをしながらさまざまな思考が流れていくのをただ眺める。
清流の上を流れる色取り取りの落ち葉を眺めるように、私は私に起こった出来事や感情が流れるのをただ見つめるのだ。
落ち葉を止めもせず、拾いもせず、笑顔で見送っていく。
反省や考えるべきこともあるけれど、陰ヨガの間はそれを忘れる。
世の中のすべてのことは流れていく。
自分が流れから外れていても、流されていても、そんなことは考えない。
今はリラックス。
この瞬間はリラックス。
そうやって、リラックスをしながらヨガを楽しんでいると、あっという間にサクラの陰ヨガのレッスンが終わってしまった。
「陰ヨガはどうでした?」
隣で少し眠そうにしている明さんに聞いてみた。
「気持ち良いけど。ポーズによっては動かないことが逆に辛かったな。俺はまだ体が硬いから」
「陰ヨガは無理をしない、頑張らないことが大事ですよ。けっこう体の奥まで刺激がいきますから、無理をすると筋を痛めたりしますからね」
「なるほど。でもヨガもいろいろあるやなー。刺激がまるで違ったよ」
「そうですね。人によって合う合わないがあると思うから、好きなヨガでリラックスして、ストレスを解消したり健康になってくれたら私は嬉しいです」
我ながらヨガのインストラクターらしいことを言えたなと満足した。
「なるほどね」と明さんも言ってくれたしね。
それから私はサクラさんとお客様を見送った。
土曜日の夜のレッスンと言うのもあって若い子も多い。
やっぱり夜のレッスンにつれて主婦は減ってくる。
男性のお客様もやっぱり土日のほうが多いよね。
今日最後のレッスンなので明さん以外のお客様が帰ってから、私とサクラは掃除を始めた。
サクラはスタジオの掃除に入り、私は受付の後片付けを始める。
明さんは受付の前にあるソファーでヨガの本を読んでいた。
私がレシート整理から、ふと目を上げると、なぜかプライベートレッスンに使う個室のドアがゆっくりと開いていた。
もう私たち以外は誰もいないはずなのに。
サクラがもうスタジオの掃除を終えたのかな?
見ているとそこから青い目出し帽かぶった男が出てきた。
間違いなく、私を刺そうと襲ってきた男だった。
私は悲鳴を上げるのも忘れて、ただ驚いていた。
声を出さなきゃと思っていると、男の行動は予想外に速く、明さんの前に立つと何か明さんの顔にスプレーを吹き付けていた。
明さんがうめき声を上げる。
男の持つナイフがはっきりと見えた。
大きなナイフを、明さんに深々と突き刺していた。
私はやっと悲鳴を上げた。
男はナイフを引き抜いて、こちらを見た。
血があたりに飛び散る。
世界が急にゆがんだように感じた。
世界が変わってしまった。
青い毛糸から覗く目の光は狂気に染まって、とても同じ人間の目とは思えなかった。
私はもう一度悲鳴を上げた。
サクラの声が聞こえる。
男が私に一歩近づく。
殺人鬼が近づいてくる。
手元にあった書類を投げつけると、空中で男の払うナイフですっぱりと切られた。
男がナイフをもう一度払うと、ビリっとした傷みとともに私の右手から血が吹き出た。
私はもう一度、悲鳴を上げた。
男がナイフを振り上げていた。




