第1話『一から始めよう』
珍しく風は吹かない。天候もそれほど悪くない。太陽のおかげで身体は暖まっている。長時間の待機は可能。
距離にしておよそ五メートル、そこから深さ約五十センチ。海流は右から左へ、緩やかで流される心配はなし。氷海部は存在しないから障害物なし。
空気抵抗を考え、右に曲がる比率が高いことから標的より約四十センチ左へずらす。角度は現時点を水平と考え、マイナス十度。
標的は動く気配なし。
やるなら今しかない!
一人の人物が氷床の上で寝そべり、弓を構えていた。その人物は唐突に矢を放った。風を切って飛んでいった矢は、空気抵抗でやや右へと反りながら角度十度で下がりつつ、距離にして四メートル地点で着水し、海を裂きながら海流で少し左へと曲がり、深さ五十センチの辺りでのんびりしていた一匹の魚の体を貫いた!
「良し! ベストショット!」
矢を射った人物が嬉しさのあまり飛び上がった。灰色短髪で、くせっ毛が飛び出ていて、空のように蒼い瞳を持つ男の子だ。防寒対策で毛皮の外套を羽織っていた。その手には小さな弓が握られていた。
その男の子は弓から海面へと伸びている紐をたぐり寄せる。その先には射った魚が。それを回収すると、男の子は置いていたカゴの中に魚を入れる。すでにカゴの中には数十匹の魚が入っていて、どれも鮮度が良い事から今日取った魚だと分かる。
男の子はそのカゴを背負い、帰っていった。
辺りは一面白世界。雪丘がいくつもできていて、普通の靴で歩くとすぐに足が雪に埋もれてしまう。男の子の履いている靴は底が広く出来ている。雪に足を踏み入れても沈まないような構造になっているので、今は普通に走っている。
高い雪丘を越えると、少し遠くに氷の洞窟のようなものが見えてきた。そこが彼の本拠地だった。今日は快晴なので見通しが良い。
その氷の洞窟へと着くと、すぐさま自宅へと走っていった。
「今日は大収穫! 見てこれ!」
男の子が女の子の前でカゴを見せる。女の子は驚いたように目を丸くした。
「カイト、腕は健在だね」
カイトと呼ばれる男の子が嬉しそうに頭をかいた。
「ルマはどう調子?」
カイトがルマと呼ぶ女の子は首を横に振った。
「やっぱりダメみたい。私は狩猟より採取が好きかな」
ルマは長いストレートの茶髪をしていて、瞳は翡翠のように美しい色をしていた。カイト同様、フカフカの毛皮で作られた外套を羽織っていた。
彼らはこの氷の洞窟内で生活している。氷の洞窟は広く複数に分裂しているから、たくさんの人間がそこを住処にし、生活をしている。氷は純度ほぼ百パーセント。異物が存在しないため、太陽の光は氷を透過して洞窟内を照らしているので、肉眼でも洞窟は見て取れた。そのうちの一つの空間で、カイトとルマは二人、暮らしていた。お世辞でも広いとは言えない空間だけれど、二人は十分満足していた。二人で精一杯生きるために尽力を尽くしているだけで良かった。平和がずっと続いていればそれで良いと思っていた。
今から五年前、当時十二歳だった彼らは南極から北極という地へと逃げ付いた。南極では大量惨殺が行われ、その惨殺から運良く抜け出してきたのだ。今は北極で平和に暮らしているが、また以前のようなことが起これば、次はない。だから、平和だけでも十分だった。
「あ、そう言えば、レドーさんがカイトを呼んでたよ」
ルマはボーッとしているカイトへとそう伝えました。
「レドーさんが?」
カイトはルマの言う通り、レドーさんの家へと向かいました。
レドーの家はカイトたちの住処からおよそ百メートルの場所にあります。同じように氷でできた隙間に作られていますが、生活できないほどではありません。カイトはレドーの家へと訪れました。レドーはカイトが来たのを確認すると、笑顔で出迎えてくれました。
「おぉ、カイトか。待っていたよ」
「話ですか?」
レドーはカイトに布でできた座に座らせます。それから向き直って真剣な表情で言いました。
「カイト……実はな、南西の方角に一つの孤島があるのじゃが……そこに君の血族がいるのじゃ。昔々、若い頃に行ってな。ここから少し遠いけど、せっかくの機会だからと言っておきたかったのじゃ。どうじゃ、成長した今のカイトならば一人でもたどり着けるじゃろう」
カイトはにわかには信じ難かった。でも、もし血族がそこにいるとしたなら、カイトはそんな希望にかけてみたかった。昔、カイトがまだ小さく未熟だった頃、父と母は敵襲を受けて亡くなってしまった。今、カイトの血族はルマだけ。でも、もし他に血族がいるなら会ってみたい。
「それってホント? だったら行くしかないよね。ありがと、レドーさん」
「礼には及ばぬのじゃよ」
カイトはその情報を得て、早速旅に出る準備を始めるためにレドーの家を飛び出ていきました。カイトはルマのいる住処へ戻り、早速旅荷物を揃え、そして腰に二つの小さな弓を引っ掛けます。背部には弓に必要な矢が数十本詰まった矢筒を背負います。ルマがその様子を不思議そうに見つめていました。
「カイト? また狩りにでも行くの? そんなわけないか」
「今から旅に出るんだよ、ルマ。レドーさんが言ってたんだ、南西の方角に僕らの血族がいるんだってさ!」
「それ本当?! 私たちと同じ血族の人が?」
「そうなんだよ!」
カイトとルマは笑顔で大はしゃぎ。扉のない氷の洞窟、反響して二人のはしゃぎ声が他の人間へと聞こえてきますので、気になって数人が覗き込みます。二人は両手を輪のように握って踊るように回っていました。その光景はまるでイブとアダムのようです。呆然と、でも羨ましそうに数人の人間は見ていました。それに気づいた二人は赤面になって押し黙りました。そんな二人も可愛いらしいと、数人の人間たちはほんわかとして立っていました。氷の洞窟に住んでいる人間の中で子供は彼らを含めほとんどいないので、このように他の大人から可愛がられているのでした。
カイトの伝えた血族の話に期待を持ったルマは、カイトと一緒に行くと言い出しました。当然、ルマの安全を第一に考えるカイトは大否定をしますが、ルマはそれでも行きたいと頬を膨らませて怒っていましたので仕方なく連れて行くことにしました。ルマも自分と同じで血族には会いたいだろうし、それに断ったらルマは一人でも行くに違いない。そう考えたカイトはルマと一緒に旅をする決心をしました。命が危険に晒された時は自分が守ってあげようと。
そして彼らは今、北極の海沿いにいるのでした。カイトは革で作られたリュックと矢筒を背負い、ルマは同様のリュックだけを背負っています。
海沿いは基本的に風が強くて、雪の日になると猛吹雪に見舞われるために、釣りや終了時は普通、近寄る人はいないのです。そのため、海沿いは静かで人の気配はありません。しかし、今日はいつもとは違って風が弱く、波もそこまで高くない、舟を出すには最高のコンディションです。太陽の光が二人の旅を見守るように煌々と照りつけていました。
「絶好の旅日和だね! 出航するなら今しかない」
そして即座に問題点を見つけたカイト。出航するのに肝心な舟がない。
「そうだった、舟がない!」
「カイトのドジ!」
「ごめん、ルマ。旅は一からのスタートだね」