第二章 写楽の夜の悪夢〈1〉
1
「……あら、女性アイドルさんみたいなお名前ですのね」
画廊の入口でかるく挨拶をすませ、私の名刺をうけとった本物のグラビアアイドル・高梨伽耶が婉然とほほ笑んだ。
「ええ。まったく困ったもんです」
私はいつもながらの反応に小さく肩をすくめてこたえた。
名刺にプリントされた私の名前は柏木友紀。ザンネンながら本名である。字面だけだと女性名とかんちがいされるが〈トモキ〉と音読する。
しかし、これが男性名だとわかると、今度は「トモノリさん?」などとよびまちがえられるのでめんどうくさい。
子ども時分から私のことを〈ユキちゃん〉と小バカにするのは華響院だけだ。
華響院はその美貌と名前から、どこへ行っても女のコとかんちがいされていたので、せめて名前の字面だけでも女のコっぽい私をからかって溜飲を下げているのだ。
宝塚歌劇団員の芸名みたいな本名を棚のてっぺんへほうり投げての所業である。まったく迷惑はなはだしい。
……そんなことより、先日まどかクンが来廊してから6日後の夜である。午后8時をすこしすぎたところだ。
今日、まどかクンと高梨伽耶はべつの仕事だったと云う。高梨伽耶は新発見かもしれない写楽絵を仕事現場へもち歩くのは心配だったので、一旦帰宅してから銀座まででてきたそうだ。
私はグラビアアイドルなる人種にはついぞお目にかかったためしがない。
そのため、自慢の胸を誇示するチャラくて高価な私服にばっちりメイクで威嚇してくるものと踏んでいたが(偏見である)、高梨伽耶は眉すら描かないほぼすっぴん、ワンピースにカーディガンと云う清楚な姿であらわれた。
おそらくは写楽絵の入っているであろう肩にかけた大きめのバッグこそ有名ブランド品だったがクタクタのボロボロである。
ふだん撮影でいろんなコスプレ(?)をしている反動か、自身のファッションには無頓着であるらしい。
なんと云うか、その辺をふつうに歩いていても違和感のない女のコである。
世に名だたるドデカップさえなければ、道ですれちがっても飛ぶ鳥を落とすいきおいのグラビアアイドル(ただしおそ咲き)とは気づかれまい。
「『泰西軒』の入っているビルでしたのね。まどかちゃんのエスコートがなければ、ちょっと迷っていたかもしれません。……すてきな画廊ですね」
高梨伽耶は『水羊亭画廊』へ足を踏み入れると、さりげなくお世辞を口にした。まどかクンにはない大人の気づかいである。
「云うほど迷うトコでもないけど、カタギの人はこの辺あんまし歩かないかも」
「クスッ、そうなの?」
「なんだいそりゃ? 失礼な」
まどかクンのよくわからない説明に高梨伽耶がほほ笑んだ。この界隈に悪印象をもたれても困るので、一応たしなめておく。
もう一本先の通りには有名なチョコレート店やミシュランふたつ星のお店や高級ブティックもあるが、この通りはくすんだ色の小さなビルが軒をつらねるオフィスの密集地である。人通りこそすくないものの、歩いているのはカタギの人だ。たぶん。
「とりあえずこちらへ」
私が画廊奥の事務所へ案内すると、応接セットでくつろいでいた華響院の姿に高梨伽耶が頬を上気させた。
「ええっ!? 華響院響華先生ですよね!? はじめまして。私、TVやグラビアのお仕事をさせていただいております高梨伽耶ともうします。以前から先生のファンで、お会いできて光栄です」
高梨伽耶が私の時よりも格段に興奮して挨拶した。……いつものことなのでべつに気にはしていないけど。
「はじめまして、華響院響華です。こちらこそお目にかかれて光栄です」
華響院が優美な仕草でさしだした手をにぎりかえすと、彼女は緊張の面もちで言葉をついだ。
「私、先生の作品集ももっているんです。先生がいらっしゃると知っていれば、作品集にサインしていただきたかったのに」
華響院の作品集と云うことは、洋書のドデカいハードカバーで3万円くらいする高価なヤツだ。これは本物のファンにちがいない。
「……ちょっと、まどかちゃん。どうして華響院先生もいらっしゃることを教えてくれなかったの?」
小声で詰問する高梨伽耶へまどかクンがしどろもどろにこたえた。
「いや、だって伽耶さんが響華さんのこと知ってるとか知らなかったし、だまってたほうがいろいろおもしろそうだったし……」
華響院のことを女性とかんちがいするところを見たかったのだろう。女子大生とは云え、まだまだ子どもだ。
「高梨さん、もうしわけないんだけど、私のこと先生ってよぶのやめてくださる?」
華響院がいろいろと苦笑しながらやさしい口調で高梨伽耶へ云った。彼の本音は、
『日本でセンセイなんてよばれて悦に入っている連中にロクなヤツいないわ!』
である。同類あつかいされたくないのだ。
「私、響華さんってよんでるよ!」
「あ……では華響院さま?」
まどかクンの言葉をやんわりうけながした高梨伽耶に華響院も小さくうなづいた。いやいや「さま」もおかしいだろ? 私も華響院も高梨伽耶も実はタメだぞ、おない歳だぞ。
「……華響院のサインなんてしょ~もないからやめといたほうがいいよ」
私は事務所の本棚から華響院の作品集をひきだした。
「あ、それです! 私もそれもってます」
華響院からタダでもらった作品集の扉をめくると、黒々とした毛筆でページいっぱいに『謹呈 ユキちゃんへ』と書かれ、左端に小筆で『華響院響華』と銘記してあった。
けだし達筆ではあるが、まるで小学校のお習字のお手本である。
「ああ、華響院さまは字もお美しいのですね……!」
華響院も私も笑いをとりにいったつもりだったが、高梨伽耶は本気で感激していた。こりゃまちがいなく本物のファンだ。