第一章 ふたつ名の写楽絵〈4〉
「おいおい。それなら権威ある美術館かなんかへもちこむべきだろう?」
「伽耶さんは浮世絵の素人なんです。春信と歌麿の区別もつかないくらい」
「ああ。それはドのつく素人だな」
私は肩をすくめた。たとえば、浮世絵好きの人なら鈴木春信と喜多川歌麿の画風のちがいなぞ一目瞭然だが、興味のない人には全部おなじに見えてしまうものらしい。
手塚治虫と藤子・F・不二雄、あるいは、いとうのいぢとブリキの区別がつかないようなものだ。
「素人目にはニセモノだと思えないそうなんですけど、玄人目に見てどうなんだろう? って。一目でニセモノだとわかるものを権威あるところへ鑑定にだすのは恥ずかしいじゃないですか?」
「そう云うことか」
「ユキちゃんに看破できるほどの駄作ならどうでもよいけど、それ以上の作品なら真作でも贋作でもおもしろいことになりそうね。……とりあえず見てあげなさいよ。私もその写楽絵見てみたいし」
華響院が後半のセリフを私へむけた。
「おまえも同席するのか?」
私はイヤな予感をおぼえた。華響院は好奇心旺盛と云えばきこえはよいが、その実、なんにでも首をつっこんで騒ぎを大きくする天性のトラブルメーカーである。
どう云うわけか、地球の裏側からでもそのとばっちりを喰うのが私だ。
「よいでしょ?」
私の不安もよそに華響院がまどかクンへ視線をうつすと、まどかクンが同意した。
「ええ。私もその方が安心です」
ちょっと待て。私はどれだけ信用がないのだ?
「それじゃ、いつがいい?」
返事も待たずに華響院が話をすすめていく。私は嘆息しつつ気のないふりをしてこたえた。
「今週の画廊は常設展示だからいつでもOKだけど、来週以降は作家の個展が入ってるから閉廊後の午后7時以降がいい。あ、それと月曜日はオープニング・パーティーがあるからムリ」
来週は創旭美会所属の油彩画家の個展である。作家やその知人、創旭美会関係者が入れかわり立ちかわりして接客にバタバタするはずなので開廊時間中は困る。
「私も今月は国内で煮つめる仕事だけだからいつでもいいわ。……神戸への出張はいつだったかな?」
華響院が小首をかしげて視線を宙にさまよわせた。
「たぶん、はやいほうがいいと思います。このあと撮影で一緒になるから、伽耶さんの予定をうかがって連絡します。夜おそい分にはかまいませんよね?」
「ああ。問題ない」
メガネを鼻梁へおしあげながら、とある特務機関最高司令長官のハスキーボイスでこたえてみせたが、まどかクンはそんな私の小ネタをまるっとスルーしてつづけた。
「……で、私もさっそく写楽の勉強をはじめたんですけど、写楽の画集を何冊か見ていたら本によってまったく異なる作品名のついている役者絵があったんです。どう云うことなんだろ? って」
「まったく異なる作品名?」
小首をかしげてききかえす華響院とは裏腹に、
(ああ。あの絵のことか)
と私はすでにその作品の見当をつけていた。
5
「正確にはふたつの作品名があるんです」
私は席を立つと、事務所の本棚から古い『大写楽展』の図録をとりだした。
「ちょっと待ってくださいね。今、資料をだしますから」
ゴソゴソと自分のカバンをあさるまどかクンの前へ『大写楽展』の図録をひらいて見せた。
「これのことだろう?」
まどかクンは顔をあげると瞠目した。
「そうです。これです、これ! ……友紀さん、知ってたんですか?」
「写楽にはくわしいほうだと云ったろ?」
勝ちほこった顔でまどかクンを睥睨すると、
「なんかムカつく」
と、まどかクン。おいおい、自分からたずねておいて、その態度はなに?
「どおれ?」
華響院も牛丼を食べる手を休めて図録をのぞきこんだ。
その役者絵は参考図版として図録に掲載されていた。
たいていの図録や画集にはどちらかひとつしか掲載されていない作品名がふたつならんで銘記されている。
くだんの作品の題名は『二代目小佐川常世の三郎妻・児島(二代目岩井喜代太郎の勾当内侍)』とある。
写楽〈第3期〉にあたる細判・全身像の役者絵で、寛政6[1794]年11月に河原崎座で公演された常磐津『神楽月祝紅葉衣』を描いた作品である。
「ほんとだ。歌舞伎役者の名前も役名もぜんぜんちがうね。ユキちゃん、どう云うこと?」
「ようするに、絵から見るか、歌舞伎史から見るかのちがいなんだ」