第一章 ふたつ名の写楽絵〈3〉
「まどかちゃん、お昼は? まだならユキちゃんに『泰西軒』のオムライスおごらせてあげるけど」
階下の老舗洋食店自慢の一品である。
「どうしておれがおごらなくちゃならんのだ? 億万長者のくせにセコイことを。……冷蔵庫に魚肉ソーセージがあるよ」
華響院の言葉に反駁しながら、私もまどかクンへ精一杯のやさしさを提示する。
まどかクンは私の右どなりの席へ腰かけると、台所に立ってまどかクンのためにあたたかい紅茶を用意する華響院へ頭をふった。
「いいえ、いいんです。このあと撮影なんで。あ、そう云えば、友紀さん、神原さんは?」
「神原芳幸? あいつならポンピドゥー・センターだよ」
「フランスですか」
神原芳幸は博覧強記の若き美術評論家である。美術史関係で彼にきけばわからないことはない。華響院ともども中学の同窓生でつきあいは長い。
「『日本の前衛芸術 ~読売アンデパンダンの軌跡~ 展』のキュレーターとして招聘されてるんでしょ。はい、まどかちゃん。これニルギリ」
華響院がまどかクンへ紅茶を給しながらこたえた。まどかクンが礼を云ってジノリ社製イタリアンフルーツのティーカップをうけとる。
ちなみに冷茶の入っている私のグラスは、白いビーグル犬のカトゥーンがプリントされた百均ショップ製品だ。……ま、どうでもいいけど。
「神原さんがいないんじゃしかたないですね。……友紀さん、写楽って知ってます?」
「よっしゃ、そのケンカ買った。……って、まどかクン、本気でおれのことバカにしてるだろ?」
東洲斎写楽。
江戸時代中期にあたる寛政6~7[1794~95]年のおよそ10ヶ月の間に、約150枚のインパクトに富む浮世絵版画(おもに歌舞伎の役者絵)をのこして忽然と姿を消したナゾの浮世絵師だ。
美術の門外漢だってその名前を知らない人はいまい。一応、仮にも某美術系大学院中退の私であれば、さらなりコロスケなり。
「ユキちゃん、ブログに写楽の記事書いてたよね?」
華響院の言葉に私はうなづいた。
「ああ。これまでだれも気づいてないとっておきのネタだよ」
『水羊亭画廊』のウェブサイトに併設しているブログに、画廊の展示情報とともに時おり美術関係のエッセイを掲載している。
画廊の宣伝をかねた道楽、あるいは知的鍛錬である。
「神原さんほどじゃないかもしれないけど、写楽にはくわしいほうだと思う」
「……写楽の役者絵を鑑定してほしいんです」
いきなり提示された想定外の申し出に私はとまどった。
「鑑定? 骨董屋じゃないから、重文級の古美術に値はつけられないよ?」
祖父の代からつづく画廊なので、大正年間以降のマニアックな日本画や洋画はとりあつかっているが、江戸絵画や浮世絵となると趣味や専攻はともかく商売の範疇外である。
私の言葉にまどかクンが云いたした。
「えっと、値段をつけるとかじゃなくて、真贋を判断してほしいんです。大雑把でいいんで」
「……まどかちゃん。さいしょから順を追って説明してみようか?」
華響院が柔和な笑みでうながした。まどかクンには話を核心から切りだす無自覚な悪癖がある。
「あ、すいません。実は今、スマホ用のショートムービーで高梨伽耶さんとご一緒させていただいてるんです」
「高梨伽耶って、たしかおれらとおない歳のグラビアアイドルだよな?〈おそ咲きのドデカップ〉とかなんとか」
私の視線に華響院が小首をかしげた。彼が芸能ネタなぞ知るはずもない。
高梨伽耶は10代後半から20代前半が華と云われるグラビア界に、陰のある美貌とあきれるほどの巨乳でまたたく間にブレイクした27歳の新人グラビアアイドルである。
「……さすが友紀さん、よくごぞんじですね」
そう云うまどかクンの視線がどことなく冷たい。胸部の高低差において高梨伽耶に圧倒的敗北を喫するまどかクンの怨嗟がこもっているようでコワイ。
「そのグラビアアイドルさんが依頼主ってことね」
おそらく高梨伽耶のことなぞ微塵も知らない華響院が水をむけた。
「ええ。こまかい事情はあれなんでざっくり云うと、伽耶さんのおうちから写楽絵がでてきたんだそうです」
「それはスゴイ。真作なら一気に億万長者だね」
私は驚嘆した。きちんとしたオークションにかければ、それほど有名な作品でなくても数千万円、名作で保存状態がよければ数億円の値がつく。
「それがそう単純な話ではないんです」
まどかクンが私の浅慮をたしなめるように云った。……わるかったな、単純で。
「どうして?」
私はききかえした。
「東洲斎写楽の落款がある浮世絵版画の役者絵にはちがいないんですけど、カタログに掲載されてないって云うんです」
落款とは、ひたらく云うと画家のサインである。
「……新発見の写楽絵ってこと?」
「真作なら」
華響院の言葉にまどかクンがうなづいた。