第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈12〉
無粋な現実はさておき、江戸時代の子どもたちも幼少期の小栗虫太郎みたいに浮世絵で凧をつくってあそんでいたのかもしれない。
そう云えば、かつては写楽別人説にその名をつらねた十返舎一九も『初登山手習方帖』(寛政8[1796]年)と云う黄表紙のイラストで写楽の凧絵を描いている。
十返舎一九(明和2~天保2[1765~1831]年)は写楽活動期(寛政6[1794]年)に耕書堂へ寄宿し、翌年、その耕書堂から3冊の草双紙で戯作者デビューしている。
当時の草双紙類は年1回1月一斉発売だったので、十返舎一九が『初登山手習方帖』を執筆したのは、写楽が姿を消した寛政7[1795]年と云うことになる(蛇足だが版元も耕書堂ではない)。
十返舎一九が写楽の凧絵を描いたのは、勉強ぎらいの長松と云う少年が天神さまにいざなわれ、芝居見物している舞台上の場面だ。
『華厳経』の善財童子があらゆる世界を見て悟りをひらいたように、長松も天神さまにおちこちへみちびかれ、勉強好きになると云う物語である。
この舞台には烏帽子直垂に太刀を佩いた人物やダルマやおひなさまのほかに凧がふたつ描かれている。
ひとつが奴凧で「おいらも凧ならきさまも凧」のセリフがあり、もうひとつが写楽凧だ。
写楽凧に描かれているのは市川蝦蔵の暫で、実在する写楽絵をマネたものではないが、東洲斎写楽の落款まである。
ここに「なんのことはねえ。金比羅さまへ入ったどろぼうが金縛りと云うもんだ」と云う不可思議なセリフが書きこまれており、写楽の消えた理由がほのめかされているのではないか? と研究者に注目された。
「金比羅さま」が「阿波藩」の比喩であることは想像にかたくない。ざっくりしているが、香川の「金比羅さま」こと金刀比羅宮も、徳島の阿波藩もおなじ四国だ。
すなわち「金比羅さまへはいったどろぼう」と云うのは、写楽(斎藤十郎兵衛)が阿波藩おかかえの能役者(しかも、ギャラどろぼう的な意味か?)だったことを示唆しているともとれる。
藩のお金を内緒でくすねていたとか、莫大な借金をかかえていたとか云う隠喩だったのかもしれないが、今のところ、斎藤十郎兵衛の前科をしめす史料はない。
ウラのとれない憶測はさておき、斎藤十郎兵衛が阿波藩の能役者だったと云うことは「士分」である。
当時、武士の副業は禁じられていたので、彼が浮世絵師・東洲斎写楽として活動していることがバレたら阿波藩から解雇・処罰される可能性もあったはずだ。
そして、前述したとおり、内田千鶴子氏の研究がただしければ、寛政7[1795]年は能役者としての勤務期にあたる。阿波藩(金比羅さま)に束縛されていると云いかえることもできよう。これすなわち「金縛り」。
つまり、写楽凧にそえられた不可思議なセリフは「阿波藩の能役者である自分(写楽凧=写楽)は、本業に束縛されて浮世絵師として自由気ままに筆をふるうことができなくなった」となげく自虐的なセリフだったのかもしれない。
だとすれば、となりに描かれた奴凧は一九自身だった可能性がある。出自は武家でありながら大坂の材木屋へ入り婿し、浄瑠璃の世界へどっぷりハマってドロップアウトした男だ。
材木屋から離縁され、浄瑠璃作者になろうと大坂で7年ほどくすぶったあげく、江戸へくだって耕書堂・蔦屋重三郎にひろわれた。
「ケ・セラ・セラ」と風のむくまま気のむくままにながされてきた十返舎一九こそ凧のような半生をすごしてきた男と云えよう。
そんな自由人の一九が「金縛り」された写楽を哀れんで(同情して?)書いた〈写楽暗号〉だったとすればどうだろう?
「どろぼう」と云う不自然な言葉に自虐・卑下以上の意味があったとすれば、また解釈はかわってくるが、今のところ斎藤十郎兵衛がなんらかの犯罪にかかわったとされる史料がないため、真相はやぶのなかである。
……などと云う、どうでもよいトリビアをまどかクンへ披瀝すべきかどうかかんがえあぐねていると、台所で口をすすいだ佳純が息をふきかえした。
「げふ~っ! 今夜はとことんのむぞ~っ! 泊まってくから、よろしこ、お兄ちゃん」
「泊まってくって、佳純、おまえ明日仕事は?」
「ないからのんでるに決まってんじゃん。サタデーナイトフィーバーっす!」
……きくだけヤボだった。酔った佳純がうちへ泊まっていくことはままあるので、客用の布団はおし入れにある。
いつのまにかカットしたライムを手に座卓へもどった佳純がまどかクンの肩をなれなれしくだいた。
「せっかくおちかづきになれたんだし、今日は朝までのみあかそう! ……私のことはお姉さんってよんでいいのよ」
「えええっ!?」
佳純のセリフに狼狽し、耳まで真っ赤にそめたまどかクンがTVの上の時計へ目をそらすと、しどろもどろに云った。
「あ、もうこんな時間! 私、明日も朝から仕事あるんで今日はおいとましますっ!」
「え~? まどちんノリわるい~」
「ノリとかそう云う問題じゃないだろ? ごめん、まどかクン。おそい時間までひきとめて」
私はうわばみにとらわれたお姫さまをたすける騎士のような気概で佳純のセリフを断ち切った。
「下へタクシーよぼうか?」
「えっと、まだ電車あるんで大丈夫です」
時計の針は午后11時13分をさしていた。終電にはまだ間がある。
まどかクンの実家は湯島である。銀座からだと東京メトロ丸ノ内線で大手町乗りかえの東京メトロ千代田線、もしくは二重橋前まで歩いて東京メトロ千代田線1本でつく。
「それじゃ佳純さん、今夜は失礼いたします。お休みなさい」
しずかな口調で一気にまくしたてたまどかクンが玄関わきにおいたカバンを手にとった。
「下までおくるよ」
「大丈夫です」
私の言葉にまどかクンは首をふったが、ピッキング犯から実害をうけた私は腕のギプスを指さして云った。
「念のため」
「わかりました」
「ほんじゃ、おじゃま虫はここで待ってま~っす!」
よけいな気をまわした佳純のセリフを背中にうけて、私とまどかクンは部屋をでた。