第一章 ふたつ名の写楽絵〈2〉
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私が輪島塗の丼にふたり分の牛丼をテイクアウトして画廊へもどってくると、画廊奥の事務所についている小さなシンクで華響院がサラダを用意していた。
火をつかう料理だけはからっきしダメな全方位型の万能クリエイターだが、手先は器用なので野菜を切るなぞ雑作もない。
ただし、その野菜は5階にある私の部屋の冷蔵庫からあさってきたものだ。勝手知ったる幼なじみなので、部屋のカギのありかも先刻承知の介である。
「おかえりなさい。しっかし、あんたんところの冷蔵庫、ロクな野菜入ってないわね。ちゃんと食べてるの?」
やっぱり私の冷蔵庫からもってきたゆずコショウドレッシングの小ビンをふりながら、あきれ声で云った。
「おまえはおれの母さんか? て云うか、人んちの冷蔵庫を勝手にあさってなに云ってやがる」
冷蔵庫に野菜がすくないのは、ひとりぐらしなので野菜を買いだめしていないだけの話だ。
華響院はそんな野菜をあますところなく切りきざみ、自分の事務所から持参したガラスのフルーツボウルへ盛った。
花や植物の彫り紋様に金彩のほどこされたイギリス製アンティークだ。1鉢20~30万円はくだるまい。あとで洗えと云われても、割ったらイヤなのでゼッタイにことわる。
サラダのとり皿としてならべられた2枚のガラスの小皿にもおなじ紋様がほどこされていた。
輪島塗の牛丼とイギリス製アンティークのフルーツボウルに盛られたサラダを応接セットのテーブルへおいた華響院がいただきますと手をあわせた。
「……あ、ユキちゃん。お茶ちょうだい」
これまた自前のアンバーにかがやくボヘミアングラスのゴブレットを軽くふって、私をあごでこきつかう。
私は小型冷蔵庫から抹茶入り緑茶のペットボトルをとりだした。これも彼のお気に入りのひとつだ。
日常のすべてが独特の美意識でいろどられる華響院だが、なんでも高級志向ではないところがおもしろい。
ミシュランの三つ星シェフも舌をまくほど鋭敏な味覚をもちながら、チェーン店の牛丼をテイクアウトさせるように、時としてチープなものにもハマる。
昨夏は国民的知名度をほこるソーダ味の安価なアイスバーにハマっていた。
イガグリ頭でやんちゃそうな少年も描かれた包装がどうにも美しくないと文句を云いながら、ここへ顔をだしては私にストックさせておいたアイスバーに舌鼓をうっていた。
これまでその存在すら知らなかったと云うから、つくづく浮世ばなれしている。
どうして自分の事務所で食べないかと云えば、自分の美意識にそぐわないものを身のまわりにおいておきたくないと云う理由と、安価なアイスバーにハマっていることを自分のスタッフたちに気づかれたくないと云う、しょ~もない自尊心からであった。
ついにはそのアイスバーを製産する会社へ「自分が無償で包装のデザインをしてもよい」と云いだしたのだが、丁重におことわりされた。
華響院に邸宅のデザインを依頼して0.2秒でことわられた某国の元大統領がきいたら嫉妬し激昂しそうだが、適材適所と云うものはある。
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私と華響院が牛丼にサラダと云う庶民的な昼食を味わっていると、画廊のドアベルがカロンと鳴った。来客であるらしい。
席を立ち、画廊へ顔をだすと、顔見知りが赤地に大きな黒ドットと云うテントウムシ模様の傘を傘立てへさし入れながら楽しそうに云った。
「すっごい雨ですね。カエルが小躍りしそう」
肩にかかるポニーテールを背中へはらいながら、勝ち気な瞳の美少女がよくわからない比喩で笑った。
「なんだ、まどかクンか」
「なんだってなんですか。せっかく遊びにきてあげたのに」
まどかクンがハンドタオルでぬれたカバンのおもてをかるくふきながら小さな口をとがらせた。
彼女の名前は松本まどか。現役女子大生にして新進気鋭の女優さんでもある。
高校生の時分から銀座の画廊めぐりをするほどの美術好きで『水羊亭画廊』の数すくない常連客(ただし売りあげには貢献しない)のひとりだ。画廊認定の絶滅危惧種である。
最近は女優業も軌道にのりはじめ、知名度こそまだまだだが、画廊で顔をあわせるよりもTVのCMなどで顔を見ることの方が多くなった。それでも月に一度は顔をだすのだから勉強熱心と云えよう。
「あら、いらっしゃい。まどかちゃん」
まどかクンの声をききつけた華響院も奥から顔をのぞかせた。
「あ、響華さん。こんにちわ。こんなトコロでなにしてらしたんですか?」
「こんなトコロとはどう云う意味だ?」
まどかクンは私の言葉をまるっと無視して、華響院のいる事務所へ足をむけた。私も肩をすくめて彼女のあとへつづく。
「お食事中だったんですか? て云うか、なにコレ? 牛丼?」
豪奢な輪島塗の丼に入ったペラッペラのうすい牛肉にまどかクンが目を白黒させた。
「たまにはユキちゃんみたいな下々の食事につきあってみようと思って」
「へえ……、友紀さんがつきあわせたんですか」
華響院の白々しいウソにまどかクンが微苦笑した。