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間章 『水羊亭美術読本(9)ふたりの菊之丞、ふたりの野塩』柏木友紀〈1〉

 私の知るかぎり、世にあまたいる「写楽研究家」がだれひとり語ることのなかったなぞがある。


 そして、そのことを指摘するために写楽にかんする美術史(歴史)的知識はまったく必要ない。虚心坦懐(きょしんたんかい)に絵をながめていれば素人にでも気がつくことである。


 しかし、私がそのコトに気づくまで3年を要した。さまざまな知識と先入観がこれほどまでに作品を「観る」目をくもらせるものかと、自戒の念をおぼえた発見でもあった。


 東洲斎写楽は寛政6~7[1794~95]年のおよそ10ヶ月と云う短期間で忽然(こつぜん)と姿を消したナゾの浮世絵師である。


 写楽は歌川豊国らとともにはじめて歌舞伎役者の顔を描き分けた浮世絵師と云われている。基準となる作品が1枚あれば、大方の役者の見分けはつく。


 しかし「三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)」と云われている作品にだけは、それが当てはまらない。


 一般的に写楽作品は〈第1期〉から〈第4期〉に分類されている。その〈第2期〉以降、写楽作品にはまったく異なる顔で描かれたふたりの「三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)」がいる。


 写楽がはじめて「三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)」を描いた〈第1期〉『三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)田辺文蔵(たなべぶんぞう)妻おしづ』は、うりざね顔に小さく赤い唇が印象的な美人である(これを「ベニ菊之丞(きくのじょう)」とよぶ)。


 一方〈第2期〉『三代目沢村宗十郎の名護屋山三(なごやさんざ)と三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の傾城かつらぎ』とされる作品を見ると、菊之丞(きくのじょう)は、(べに)もない真一文字にむすばれた大きな口で、頬には大きなシワまで描かれている(こちらを「シワ菊之丞(きくのじょう)」とよぶ)。


 写楽の描いた歌舞伎役者で、これほど顔の描きかたが異なる人物はいない。


挿絵(By みてみん)


 おそらくは写楽が贔屓(ひいき)にしていたであろう三代目沢村宗十郎も〈第1期〉と〈第2期〉の大判以降では若干描きかたがかわっている。


「一重まぶた」が「二重まぶた」に描きあらためられているのだ。描きかたが異なると云っても、その程度のちがいしかない。


〈第2期〉『三代目沢村宗十郎の名護屋山三(なごやさんざ)と三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の傾城かつらぎ』(大判)とされる作品は「シワ菊之丞(きくのじょう)」だが、おなじ〈第2期〉に描かれた『三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の傾城かつらぎ』(細判)では〈第1期〉の「ベニ菊之丞(きくのじょう)」顔が踏襲されている。


 着物に描かれた「丸に結び綿」紋や菊や蝶の紋様が十重二十重(とえはたえ)瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)を象徴しているにもかかわらず、肝心の顔が異なる。どう云うことだろうか?


 すなわち〈第2期〉『三代目沢村宗十郎の名護屋山三(なごやさんざ)と三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の傾城かつらぎ』とされる作品に描かれている女形「シワ菊之丞(きくのじょう)」は瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)でない可能性がたかい。


 現在、知られている写楽作品の題名は、写楽自身や版元(出版者)蔦屋重三郎がつけたものではない。


 浮世絵や歌舞伎史の研究家が諸資料を元に役者や役柄を精査した上で便宜(べんぎ)的につけたものだ。


 たしかに、狂言の内容をかんがみれば〈第2期〉大判に描かれた傾城(=遊女)を菊之丞(きくのじょう)と考えたくなるのも当然だ。


 しかし、有名無名だれかれかまわず好きなように描くのが写楽であることを忘れてはならない。写楽には梨園にたいする配慮などない。


 とは云え、そんな写楽が「江戸京大阪三都一の美女」とうたわれた菊之丞(きくのじょう)の頬に、あれほど大きくふかいシワを描き入れたかどうか?


 そもそも、そんなに印象的なシワであれば〈第1期〉の大首絵に描き入れないわけがない。


「シワ菊之丞(きくのじょう)」は女形であるにもかかわらず、あまりにもオッサンめいた表情の別人に写楽が「造形的興味」をおぼえて描いたとかんがえるほうが妥当である。


 とどのつまり「シワ菊之丞(きくのじょう)」は瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)ではない。


『三代目沢村宗十郎の名護屋山三(なごやさんざ)と三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の傾城かつらぎ』とされる作品は、寛政7[1794]年7月に都座で興行された『傾城三本傘(けいせいさんぼんがさ)』の舞台を描いている。


 この狂言に遊女役として出演し「丸にむすび綿」紋をもち、なおかつ写楽作品に描かれていない女形はふたり。


 瀬川福吉(せがわふくきち)瀬川三代蔵(せがわみよぞう)である。


 調査したところ、瀬川福吉(せがわふくきち)にかんする史料は見いだせなかったが、瀬川三代蔵(せがわみよぞう)にかんしては多少のことがわかった。


『歌舞伎年表』によると「姉川(あねかわ)みなと」と云う女形が、寛政元[1789]年に江戸で瀬川三代蔵(せがわみよぞう)へ改名している。もとは上方の役者だったらしい。


 この瀬川三代蔵(せがわみよぞう)の先代「姉川(あねかわ)みなと」も上方の女形だった。天明4[1784]年に姉川新四郎(あねかわしんしろう)へと改名し、立役(男役)へ転じた。


 つまり、瀬川三代蔵(せがわみよぞう)は、天明4[1784]年以降に上方で「姉川(あねかわ)みなと」と云う名をついだと考えられる。


 姉川(あねかわ)新四郎(しんしろう)(先代の姉川(あねかわ)みなと)は、一説によると、寛延元[1748]年生まれと云う。寛政6[1794]年には46歳。必然的に瀬川三代蔵(せがわみよぞう)はそれより若いこととなる。


 よしんば、瀬川三代蔵(せがわみよぞう)が30代であったとすれば、老け顔でもおかしくはない。


 瀬川三代蔵(せがわみよぞう)の名前は、寛政6[1794]年の辻番付や顔見世番付で中村万世(なかむらまんよ)のとなりに記されている。


 ふたりともかなり下位の役者である。とは云え、中村万世(なかむらまんよ)は〈第1期〉の写楽大首絵に堂々と描かれているし、写楽は上方からきた役者を多く描いたことでも知られている。瀬川三代蔵(せがわみよぞう)を描いた可能性は決してひくくない。


 瀬川福吉(せがわふくきち)にかんする史料が見いだせなかったため「シワ菊之丞(きくのじょう)」を瀬川三代蔵(せがわみよぞう)と断定することはできないが、瀬川福吉(せがわふくきち)瀬川三代蔵(せがわみよぞう)のどちらかが「シワ菊之丞(きくのじょう)」であることはまちがいない。


挿絵(By みてみん)

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