第二章 写楽の夜の悪夢〈9〉
「そんなことより、その腕じゃしばらく生活大変だね。お風呂とかどうすんの?」
「あ~、風呂か」
かんがえもしていなかった佳純の指摘に私はげんなりした。いきなりそう云うところへ気がつくあたり、さすがに女子と云うべきか。
「銀座に住んでます」と云えば、よほどの金もちでさぞや豪邸に住んでいるものとかんちがいされるが、こちとらおよそ築80年、レトロのむこうがわへ到達したオンボロ物件である。
もともとオフィス用のフロアを改装した作品収蔵庫兼住居にフロはついていない。フロなし1Kの和室である。
室内奥半分が作品収蔵庫。その手前にフローリングのむだにひろいキッチンが6畳、通りへ面した窓がわに8畳の和室と云ういびつな構成となっている。
本来、階段側から不特定多数が出入りできたトイレは内向きに改装されているが、ムダにあまったスペースは洗濯機置き場と納戸になっている。冬場はすこぶる寒い。
平成の御世に「銀座でフロなし」なんて告白すると、あらためておどろかれるわけだが、銀座には古参の銭湯が2軒もある。銀座1丁目の『銀座湯』と銀座8丁目の『金春湯』だ。
むかしは仕事前の芸者さんがひとっプロ浴びてから夜の街へくりだすなんて粋な情景もあったらしいが、いまやそのよすがもない。
夏場にちょっと汗をかいた時「シャワーを浴びたい」と不便さをおぼえることもあるが、かたしぼりのタオルで身体をふけばすむだけの話だ。さして問題はない。しかし、片手でなんとか頭は洗えても身体をふくのは大変そうだ。
「私は仕事いそがしいから、お兄ちゃんの身体ふくのとかパス。いいかげん、そう云う世話とかしてもらえる彼女つくんな……」
佳純が誤った先読みで私の介護を拒否すると(佳純に身体をふいてもらうつもりなぞない)ドアホンが鳴った。
「はーい!」
私のかわりに佳純が玄関へでると顔を見せたのは華響院だった。
「あら、めずらしい。佳純ちゃん元気?」
「こんにちは、華響院さん。て云うか、あいかわらず美人すぎ」
華響院は佳純に微苦笑すると、部屋へあがってきた。
「ユキちゃん、階段落ちして骨折したってきいたけどなにやってんの? バカなの? マヌケなの?」
「もうそのくだりはおわっとる」
華響院も画廊で岸谷のおばさんからきいてきたらしい。
「そうだ! お兄ちゃん、華響院さんに身体ふいてもらえばいいじゃん。いや、でも、それはそれでなんだかエロいって云うか、腐女子萌えって云うか……」
「なんの話?」
「アホの妄言だ。気にしないでくれ」
私は佳純のつぶやきに小首をかしげる華響院へ手をふった。
「あ、そうだ。佳純ちゃん、岸谷さんが銀行へ行きたいんで、時間あったらちょっと画廊につめててくれないか? って云ってたけど」
「うん、わかった。それじゃ、お弁当ののこり、むこうで食べるわ。お兄ちゃんお大事に!」
カップ味噌汁ののこりをのみほすと、食べかけの弁当を片手に佳純が画廊へおりていった。ショートカットのハツラツとしたうしろ姿は妹と云うより少年のようだ。あいつの婚期もまだまだ遠いにちがいない。
華響院がまじめな口調でつぶやいた。
「さっき、まどかちゃんからメールがあった。夕べのご遺体、やっぱり伽耶さんのお母さまだったって」
おそらく、TVのワイドショーかネットニュースでとりあげられていたのだろう。私もそんなものを確認する余裕はなかったが、華響院がそのたぐいに目をとおさないことを知っていて連絡したのだと思う。
TVをつけると「悲痛! ドデカップ高梨伽耶さんの実家全焼!」と云うテロップがうつしだされた。ちょうどワイドショーでその件がおわるところだ。
『……警察は消防と出火原因をしらべるとともに、事件事故の両面から慎重に捜査をすすめていく方針です』
『いやあ、高梨さんもお母さんを亡くされてさぞショックでしょう……』
私はコメンテーターの発言を待たずにTVを消した。華響院も愁眉する。
「あんた、泥棒におそわれたんですって?」
「いや、おそわれたって云うか……」
佳純から岸谷のおばさんへつたわったであろう誤報を否定すると、私は華響院へことの顛末を説明した。私が話おえても華響院はどう云うわけか沈思していた。
「これって偶然かな?」
「なにが?」
「伽耶さんちの火事と画廊のピッキング」
「はい?」
私は華響院のつぶやきに耳をうたがった。私と高梨伽耶へふりかかった災厄にどんな接点があると云うのだろう?
「ひょっとして、ピッキング犯は伽耶さんのストーカーだったとか?」
「そうそう。あんたと伽耶さんがつきあってると邪推したストーカーがあんたにイヤがらせしようと……ってバカ。よく恥ずかしげもなくそんなこと云えるわね。うぬぼれもそこまでいくと滑稽をとおりこしてむしろ哀れだわ。ストーカーだったら伽耶さんとあんたが初対面だってことくらいバレてるわよ。それに伽耶さんちの火事とは無関係じゃない」
「たしかに」
華響院の意外性あふれるノリツッコミで私の浅慮は一蹴された。いや、べつに私だって本気で高梨伽耶の恋人にかんちがいされるとは思っていない。
「今、下の画廊で個展やってるナントカ会の作家のツマンナイ油絵なんてぬすむほどの価値ないじゃん。でも昨夜、ひょっとしたらとんでもないお宝に化けるかもしれないブツがひそかにもちこまれた」
「……伽耶さんの写楽絵!?」
私の言葉に華響院がうなづいた。
「伽耶さんの写楽絵の存在を知っているだれかが彼女をつけねらい、昨夜、下の画廊へもちこまれたところを確認した。画廊へ写楽絵をあずけたかどうかたしかめるためにしのびこもうとした。あわよくば、ぬすむために」