第二章 写楽の夜の悪夢〈8〉
昨夜『KKビルヂング』の2階へとつづく階段のおどり場で気をうしなった私は搬送中の救急車の中で目をさました。救急車へかつぎこまれる前に一度目をさましたそうなのだがよくおぼえていない。
とどのつまりは、右前腕橈骨骨折全治3ヶ月。そのほかおちこち打撲。メガネもまんなかからポッキリ折れた。頭を打ったためCTスキャンをとるが、コブ以外とくべつ問題はなかった。
そうは云っても、頭のケガは油断できない。医師からは入院して数日経過を見るようすすめられたが、画廊の仕事もあるし、自宅静養と云うカタチで医師を説きふせた。
その後、病院のロビーで警察官による事情聴取をうけた。不審者の男の特徴を執拗にきかれたが、おぼえているのは若そうだったこと、細身だったこと、ハゲではなかったらしいことくらいだ。初老のオッサンが私の頭上をとびこえようとはするまい。
警察が現場検証をおえるまでそのまま病院のロビーで待機させられた私は、空が白みはじめたころに『KKビルヂング』までおくりとどけてもらい、現場検証の結果をつたえられた。
私にケガをおわせた不審者の男は『水羊亭画廊』のドアをピッキングしていたそうだ。ドアノブにはこまかなキズがついていたが、さすがにイマドキの銀座でシリンダーキーのオフィスは皆無であろう。
うちも画廊もディンプルキーだし、3階の華響院の事務所と4階の『御子柴法律事務所』にいたってはもっと厳重なカギがかかっている。
不審者のねらいが『KKビルヂング』すべてのオフィスだったのか『水羊亭画廊』だけだったのか判然としないが、すべてのオフィスをあたるつもりだったと考えるのが妥当であろう。
手はじめに2階の『水羊亭画廊』をピッキングしていたところへ私とはちあわせたらしく、不審者らしき足跡はそれより上の階にはなかったそうだ。5階にある私の住居もふくめてカギを壊そうとこころみた形跡はなかったと云う。
気絶していた数十分以外、一睡もしていない私はほうほうの体で帰宅した。
利き腕を骨折しギブスでかためられているものだから、和室にふとんをしくのも服を着がえるのも重労働だった。ペットボトルのお茶すらラクにはのめない。
今日1日、画廊のほうは、私が画廊をひきつぐまえから週に数回バイトへきてもらっている岸谷のおばさんに電話でおねがいした。今日は個展中の作家さんが来廊されないため、だれかに常駐してもらわねばならない。
あとのことはひと眠りしてから考えようと床についたのだが、腕の疼痛でふかい眠りにつくことができなかった。
身体は鉛のように重いし、脳みそも泥のように溶けかかっていたが、何時間もまんじりとせぬまま夢うつつをさまよっていた。そして、ようやく眠れそうだと船をこいだところへ、
「開けろ! 警察だ!」
と大声でドアをガンガンたたきやがったのが愚妹である。百歩ゆずって云ってることにウソはないにしろ、やりかたがまちがっている。まずはドアホンをおせ。文明人ならそうしろ。
「……画廊に顔だしたら岸谷のおばさん心配してたよ。かえりにようす見にくるって。はい、これおばさんからのさし入れ。肉じゃがだって」
ギプスに包帯姿の私を一瞥するなりバカよばわりした佳純が部屋にづかづかあがりこむと、肉じゃがのタッパーを冷蔵庫へ入れた。岸谷のおばさんがつくってもってきてくれたらしい。
岸谷のおばさんは私がまだ寝ているかもしれないと思んばかって、それを届けにこなかったはずなのだが、佳純にそう云った人情の機微はわかるまい。
「もうお昼だし、私もおなかすいちゃった。コンビニでおべんと買ってきてあげたから一緒に食べよっ」
電気ケトルでお湯をわかしながら、佳純が座卓の上へコンビニのポリエチレン袋をひろげた。
弁当がふたつにインスタント味噌汁のカップがふたつ。おにぎりが3つ。
「おにぎり。小腹がすいたら食べてね」
どう? こう見えても私、気がきくでしょ? てな具合でデキるオンナ面してみせる佳純だが、利き腕を骨折した私に海苔パリパリ仕様のおにぎりの包装を片手であけることは不可能にちかい。やさしさの踏みこみがいまひとつあさい。
「ああ。ありがとう」
それでも私は佳純の善意に礼を云った。将来、佳純の旦那になる人はよほど心がひろいか、佳純以上にガサツかのどちらかであろう。私としては前者を期待したい。
「……ちょっとまて。おまえ、おれのケガをどこでききつけてきた?」
私が連絡したのは岸谷のおばさんだけだ。華響院やまどかクンだって知らないはずだし、岸谷のおばさんから佳純へ連絡すると云うのもかんがえにくい。
「蛇の目ミシンはヘビーって云うでしょ? 8丁目で交番勤務している築地署のオジサンから連絡あったの。で、なに? 窃盗犯ととっくみあいでもしたの?」
お湯をそそいだインスタント味噌汁のカップを座卓へはこびながら佳純がたずねた。「蛇の道は蛇」風なことを云いながら詳細はつたわっていないらしい。私は佳純と弁当を食べながらここでの出来事を説明した。
「……てことは、逃げようとした犯人と接触して、湖池屋でもないのに「階段落ち」決めちゃったんだ? おかしいと思ったんだよ。お兄ちゃん、ケンカとかできるはずないのに「なんかボコボコにされたらしいぞ」とか云ってたから」
「階段落ちは池田屋だろうが。湖池屋はポテチだ」
『のりしお味』の元祖と云う栄誉で新選組に成敗されるいわれはなかろう。