第二章 写楽の夜の悪夢〈7〉
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消火作業を見守るあいだ、華響院の機転で高梨伽耶のマネージャーへ連絡を入れた。高梨伽耶のマネージャーがおっとり刀でかけつけるも、古い木造家屋だった高梨伽耶の家は見るかげもなく焼けおちた。
周囲への延焼こそなんとかまぬがれたものの、焼け跡から遺体が発見された。高梨伽耶の母親であるらしい。高梨伽耶は遺体の身元確認のためマネージャーにつきそわれて病院へ行き、私たちはこれ以上、高梨伽耶につきあうこともできず、華響院の車で帰路についた。
私は銀座中央通りの松坂屋前で車をおろしてもらうと家まで歩いた。『KKビルヂング』の5階が作品庫兼私の住居だからだ。
ほんの数時間前までたのしいひと刻をすごしていたのがウソのようだ。当事者の高梨伽耶はなおさら天国から地獄へつきおとされたような気分にちがいない。
華響院(そのほか2名)とのミシュランひとつ星ディナーをことわって帰宅していれば、火事をふせげたかもしれないし、母の命をすくえたかもしれないと、自責の念にさいなまれているかもしれない。
明日と云うか、もう午前1時をまわっているので今朝になるが、高梨伽耶の実家全焼と肉親の死はテイゾクなネットニュースやTVのワイドショーでとりざたされるだろう。
着のみ着のまますべてをうしなった傷心の人気グラビアアイドルをそっとしておくほどマスコミ連中はやさしくない。
これから高梨伽耶が心ない人々によってこうむるであろう精神的苦痛を思うと腹が立った。
私の勝手な想像で腹を立ててもしかたないが、悲惨な状況をまえになすすべもなく立ちすくむしかなかったやるせなさが行き場のないいらだたしさや怒りへ転化していた。
それを具体性にとぼしい仮想敵たるマスコミ連中へぶつけることで発散し、正当化しているのだと思う。はやい話がやつあたりである。
そこはかとなくささくれだった気分で暗い『KKビルヂング』の階段をのぼった。1フロア1オフィスの小さなレンガビルは正面から見て右、すなわち下手に階段スペースがある。エレベーターはない。
各階を照らす補助灯は午前0時で消灯する設定になっている。おどり場からさしこむあえかな外光をたよりにのぼるしかない。
よその人なら困惑する暗さでも私には慣れたものだ。手すりに手をかけながらのぼると、2階へつづくおどり場で頭上に人の気配を感じた。
やせた男の黒い影が画廊のドアノブに手をかけてのぞきこんでいた。
いつもの私ならぬき足さし足でその場をとってかえし、近所の派出所へ駆けこむところだが、火事の一件でいささかおかしな気分だった私は暗がりの不審者へ大声で誰何した。
「だれだ!? そこでなにしてる!?」
暗がりの不審者が私の怒声にビクッ! とはねあがった。
『KKビルヂング』の階段は幅がせまく、人がふたりならんで通れるほどのスペースはない。不審者は上へ逃げるしかなく、2階と3階のおどり場から外の道路へジャンプしたとしても無事ですむたかさではない。とどのつまりは、袋のネズミである。
追いつめてしめあげちゃる。ドーパミンのわきたつ凶悪な気分で歩をつめると、暗がりの不審者は意外な行動にでた。
不審者は上へ逃げたわけでも私の横をすりぬけて階下への逃走をこころみたわけでもなかった。
腐海一の剣士ユパ・ミラルダがトルメキア軍に占領されたペジテの輸送船へとびうつらんばかりに、段差を利用して私の頭上をとびこえた。
袋の窮鼠、猫を噛むの所業である。この場合、袋の窮鼠とはカンガルーではないはずなのだが。
「うわっ!」
身をかがめ頭をかかえて私の頭上をとびこえた不審者の足が私の額をかすめ、私はうしろざまにおどり場へころがりおちた。全身どこをどうぶつけたかさだかではないが、ボキッ! と云う不穏な音が体内に鳴りひびく。
不審者もおどり場の腰壁へ身体を打ちつけたが、両腕のガードが功を奏したらしく、よろめきながらもその場を走りさった。
私は暗くつめたい階段のおどり場に身を横たえたまま、なんとかうごいた左手で尻ポケットからスマートフォンをひっぱりだすと119番通報し、いつのまにか気をうしなっていた。
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「バカなの? それともマヌケなの?」
「……そりゃこっちのセリフだ。「お兄さま、大丈夫?」くらい云えんのか?」
「オニイタマ、ダイジョウブ? バカなの? マヌケなの?」
「用がないならかえれ」
痛みやら寝不足やらで不機嫌MAXの私にようやく気づいた愚妹・柏木佳純が肩をすくめて云った。
「冗談よ。心配して、ようす見にきたんじゃない」
「おまえの冗談は殺伐としすぎだ。警官になってからガサツさに拍車がかかったんじゃないか?」
わが愚妹・柏木佳純は麻布署勤務のいわゆるミニスカポリスである。
一時期「美人すぎるミニスカポリス」としてネット世界のかたすみで地味に脚光を浴び、警察官募集のポスターにモデルとして起用されるなど、本来の業務以外のところで微妙に活躍中である。
しかし、この会話でも自明のとおり、彼女の辞書に「気づかい」とか「デリカシー」とか云う文字はない。
一応、仮にも警察官なら、昨夜から今朝にかけて私がどれほど大変だったか、名前の語尾に「e」をつける赤毛のカナダ人少女アン・シャーリーなみに想像できそうなものだが、まったく想像も理解もしていなかった。