第二章 写楽の夜の悪夢〈3〉
「それじゃ、そろそろ本題の写楽絵を拝見させていただこうかしら?」
華響院の言葉にまどかクンがテーブルにおかれた4人分のティーセットをトレイにうつし、シンクの上へ一旦避難させた。
「はい。これ」
私は事務机のひきだしから綿の白手袋を人数分だしてまどかクンへ手わたした。
「やっぱり、こう云うのをはめてあつかったほうがよいんでしょうか?」
まどかクンから白手袋をうけとった高梨伽耶がめずらしげにつぶやいた。
「じかにさわると手の脂が奉書紙へつきますからね。真作未発見の写楽絵ならとてつもないお宝ですし、一応、念には念を入れてってことで」
私は冗談めいた口調でこたえた。
もともと浮世絵版画は高尚な芸術作品としてつくられたものではない。日々われわれが読み捨てるマンガ雑誌や写真週刊誌みたいなもので、庶民の娯楽を目的とした安価な大量生産品だ。ひらたく云うと粗雑な素材でできている。
錦絵ともよばれるカラフルな多色摺りも、そのほとんどが染料でかんたんに色褪せてしまう。
今でこそ浮世絵版画は額にかざって美術館などで観たり部屋へかざるのがふつうだが、かつては手にとって見るのがふつうだったし、古新聞よろしく輸出用陶磁器の梱包用紙としてリサイクルされたほどだ。
もっとも、それがきっかけで浮世絵版画は海をわたり、印象派以降の西洋美術に多大な影響をあたえ、世界における日本美術の代名詞ともなったわけだから、浮世絵師たちも草葉の陰でさぞおどろいていることと思う。
そんなわけで、美術品としての浮世絵版画のあつかいは慎重を要する。
白手袋をはめた高梨伽耶がバッグの中からプラスチックでできたB4サイズのうすい書類ケースをとりだした。百均ショップにもおいてあるやつだ。
高梨伽耶が浮世絵版画を包む薄葉をていねいにひらくと、黄ばんだ浮世絵版画があらわれた。
「なるほど。これはこれは……」
華響院が口元を手の甲でおさえながらのぞきこみ、
「東洲斎写楽画って書いてありますね」
落款を確認したまどかクンがつぶやいた。
高梨伽耶の写楽絵に描かれていたのは冠に袍、いわゆる束帯姿の人物だった。
笏を手にいまいましげな表情で流し目をくれている。そでに描きこまれているのは丸に三つ大の字紋である。
「たしかに見おぼえがない。黄つぶしの細版……ってことは〈第2期〉か」
写楽の作品は〈第1期〉から〈第4期〉までに分類されている。
〈第1期〉が寛政6[1794]年5月の演目を描いたもので、背景を黒雲母で塗りつぶした黒雲母摺・大判(39.4cm×26.5cm)の大首絵とよばれる役者半身像。
〈第2期〉が寛政6[1794]年7月の演目を描いたもので、背景を雲母摺や黄色で塗りつぶした(黄つぶし)大判・細判(33cm×17cm)の役者絵で全身像を描いている。
〈第3期〉が寛政6[1794]年11月と閏11月の歌舞伎や相撲を描いたもので、5点の相撲絵が大判である以外は、間判(33.3cm×23.5cm)と細判である。
間判の大首絵には役者の屋号と俳名が書きしるされ、細判の多くに背景が描きこまれる。また「二代目市川門之助追悼絵」や武者絵も数点ある。
〈第4期〉が寛政7[1795]年1月の演目を描いたもので、〈第3期〉とおなじく間判と細判である。
一般的に浮世絵師は読本や黄表紙の挿絵を描くことからはじめ、ついで細判や小判、さいごに大判を制作することができるのだが、写楽はいきなり28枚の大判錦絵でデビューし〈第3~4期〉で間判へとスケールダウンしている。これもふつうではない。
ちなみに作品の大きさだが、大判がおよそB4、間判がおよそA4、細判がA4のすこし細長いものだと思ってくれればよい。
「……描かれている役者は二代目坂東三津五郎のようです」
高梨伽耶も素人なりにしらべてみたらしい。まどかクンが写楽全作品の網羅されたA5判のムック本をパラパラとめくった。
「ありました!『二代目坂東三津五郎の百姓・深草治郎作』。……たしかに顔も紋もおなじですね」
「寛政6[1794]年7月に都座で興行された『傾城三本傘』か」
私もまどかクンのムック本で演目を確認した。『傾城三本傘』は安土桃山時代から江戸時代初期に美男として名をはせた名護屋山三と不破伴左衛門のふたりをメインキャラにすえた狂言である。
設定が室町時代なのでバリバリのフィクションだが、ざっくり云うと不破伴左衛門に父を殺された名護屋山三の仇討ち物語である。
そこへ傾城(遊女)かつらぎをめぐる恋の三角関係とか郎党同士の抗争とかいろんな要素を盛りこんだエンターテインメント作品となっている。
私も狂言の大筋は把握しているが、登場人物すべてを丸暗記しているわけではない。
現在上演される江戸歌舞伎の多くは「ダイジェスト版」なので「束帯姿の二代目坂東三津五郎」が、どんな場面のどんな役かはくわしくしらべてみないとわからない。