8枚目
泊まりから帰ってきた若様が、帰って一番初めにしたことは、使用人全員を執務室に集めることだった。何事かと3人で目線を交わすも、誰も理由を知らないようだ。ただ、若様の実家であるプラナス邸からなぜかやってきた悪魔族の老執事だけは内容を知っているようで、穏やかな笑みを浮かべていた。
「各々の仕事もあるだろうが、重要な内容なので集まってもらった」
いつもより真剣な顔をしている若様の表情に、隣のトレニアがごくりと唾を飲んだ。反対側のアフェさんも緊張からか耳がぴんとして動きがない。
「ベロニカ、必要箇所だけ読み上げてくれ」
「承知いたしました」
使用人なら誰しも憧れるであろう老執事の所作を見守りつつ、その開かれた書を穏やかに老執事は読み上げる。
「『本日、その意志・思考・判断において、第二段階を通過すべき者を発表する』」
どくり、と自分の心臓が脈打った。誰かの息を飲む声が聞こえる。もはやそれが自分のものなのかどうかもわからない。
「『該当者は4名、以下発表する
エニシダ=レディプラム
コチョウカ=シャガ
ホーリー=スカエボラ』」
ぐ、と自分の胸の前で手を組み、目を閉じる。
「そして、『ニゲラ=プラナス
新たなる正しき歴史が刻む者の誕生に、魔界はより一層の繁栄が約束されるだろう。彼らを讃える為、歴史書作成開始記念日に式典を行う。詳細は追って説明する 魔王 クレマチス』…以上にございます」
ぺたん、と腰が抜けて床に座り込む。誰もそれを咎めなかった。老執事は私達を見て柔和な笑みを浮かべるに過ぎない。若様も珍しくその御顔に笑みを浮かべていらっしゃる。それに見惚れる余裕もなく、視界が滲んでいく。
「そうか、そういや…第二試験の期限ってこのあたりだっけか」
アフェさんは年長者らしく少し余裕があるようで、小さく呟いた。
「正確な日程は決められていないが、そうだな。ここに引っ越して一ヶ月くらいだろうという見込みだったが」
「一ヶ月てまあ、短い間ですね?」
「当たり前だ、受かる前提でここに来た。受かってからでは移動も時間がかかると思ってな、父上もそう思っていてくださってよかった」
淡々と言ってのける若様を視界に入れるも、こぼれる涙でよく見えない。自分のことではないが、ただただよかった、という感情のみが私を占める。幼い頃から努力してらっしゃった若様を見ていただけに、本当に嬉しい。
「開始記念日っていったら…あと1ヶ月後ですか?」
「本当はもう少し早めるらしかったのだがな。俺が成人になるのを待って頂いた」
史上最低年齢で試験に合格した若様は、あと2週間程で成人になる。式典に出るのは成人になってからがセオリーなので、主役とも言える若様のためにそういう対応をとったのだろう。
「アシュガ、そろそろ泣き止め」
未だぽろぽろと涙を流す私に呆れ声で若様が仰った。泣きじゃくるのを押さえながら、指で涙を拭う。止まることをしらぬというように溢れ出る涙を止めようとしても、中々止まってはくれない。そんな私を見かねてなのか、黙って微笑んでいた老執事が悪戯っ子のように表情を変えた。
「ニゲラ様はアシュガさんを式典にお連れするとのことですよ?」
「っ、ベロニカ!」
慌てて静止するかのように若様が叫ぶ。私はというと、理解できない単語にぽかんとしていた。涙は引っこみ、壊れかけの機械のような音を立てながら、言葉の意味を噛み砕いていく。
「ほう、それはアシュガの見識が広がるでしょうね?」
「そーですね!アシュガさん、ドレス似合うだろうし!そこらへんの令嬢になんか負けませんよきっと」
「アフェランドラ、トレニア。後で覚えておけよ」
若様らしくもない余裕のない声で2人を叱責するも効果は薄いようで、彼らは笑みを浮かべたままである。若様は1つ咳払いをし、座り込んだままの私に目をやった。
「成人になるとその、婚約者とかなんだかそう言って寄ってくるのが多いからな、お前を連れて行けば牽制できるかと思ってな」
「いけません!」
思ったよりも大きな声が出た。悲鳴にも近いそれに、男性陣はぎょっとしたようだ。穏やかな老執事も目を少し見開いている。
「私のような侍女が、そのようなこと」
「…侍女ということを隠していればいい。見た目は遠い親類とでもいえば十分通せる。マナーは一ヶ月で覚えればいい」
「そういう問題ではないのです!」
勢いよく立ち上がって若様を射抜く。普段ならこんなこと恐れ多くてできやしないが、今は別である。
「いいですか!若様には貴方に見合った相応の令嬢がいらっしゃるはずです!遠い親類で妙齢の女性などいくらでもいるでしょう!婚約したくないのならその旨を伝えれば同じような事情の令嬢を見つけられます!」
一息で言い終わって肩で息をする。手負いの獣のようだな、と自分をどこか客観視しつつ若様の反応を待つ。表情を見せず静かに聞いていた若様は、私がもうそれ以上言わないとわかるとーーー笑った。そこで漸く、自分の背に冷たいものが走るのがわかった。彼のこういう笑みは、皆知っていることだが、恐ろしい。
「お前は俺を純血同士で結ばせたいと、そう思っているのか?」
「…いえ、ただ、そうでなくとも相応しい令嬢が」
「ほう、相応しい令嬢か?なんだ、仮とは言え俺に体裁を整えておけ、そう言いたいのか?」
「付け焼き刃で私を出すよりは、よっぽど」
「主人の為に令嬢のマナーくらい頭に叩き込めないのか?お前の頭に詰まってるのはなんだ、ジャガイモか?」
反論しようと言葉を浮かべても喉につっかえて声が出ない。ぱくぱくと口を動かす私をにっこりと笑いながら射抜く若様。そのオーラは絶対零度である。寒い、今はそんな季節じゃないはずなのに。
「主人の行動に反論するほど偉くなったとは知らなかったな、アシュガ?」
前後関係がなかったらときめいてしまうような笑顔であるのに、何故か今は悪寒を増長させるばかりである。老執事が苦笑して止めに入ってくれなかったら絶対に凍死していただろう。
「お前の言うことを整理するならば、だ。付け焼き刃と思えぬほど完璧にマナーを叩き込めばいいのだろう?そうだ、ミルトニアに頼もう。あいつはあの嫌がる妹もきっちり教育してみせたと聞くしな。ああ、メイド業は休んで構わん。お前は当分プラナス邸に戻ってもらおう。きっちり、相応しい令嬢らしく、仕込んでもらうまで」
そう言うと、ばっと立ち上がり、私の腕をひっつかんで、老執事の名前を呼んだ。私たちに報告した後、本当は私達を残して一度実家に戻る予定だったらしい。なす術もなく、馬車に乗せられ扉を閉められる。抜け出すこともできず項垂れていると、ノックの後老執事が入ってきた。
「老ぼれとレディが一緒の馬車とは不快かもしれませんが、許してくださらないか?」
「そんな!ベロニカさんと同じ馬車なんて光栄です」
そういうと、彼は柔和な笑みをみせ私に礼を言った。年下の小娘にもこの丁寧な品のある対応をとる彼は、本当に執事や紳士の鑑である。
「アシュガさんはニゲラ様がお嫌いですかな?」
馬車が動き出して、彼は言った。その言葉に首を振ると、彼は少し首を傾ける。
「ではどうして、頑なに拒否をしてらっしゃるのです?」
「…私は、身分も中身も、何1つ若様にふさわしくありません」
「では、恋しているのですか?」
重大なことを簡単に言ってのける彼の発言に目を見開くと、彼は眦の皺を刻んで笑った。
「使用人が主人にそのような感情を持つなど許されないことです、そんなの幸せになれるはずがありません」
ここは、物語ではないのだから。そんな上手く事が進むはずがない。
「…貴方自身の感情は、どうなのです?」
目の前の彼が、優しい声で私に問いを投げかけた。自分自身の、感情。考えたことはなかった。私はただ、混血の吸血鬼からアシュガへと変わるきっかけを下さった彼に、彼の愛する御家族のために忠義を尽くせるよう生きてきたのだから。
「貴方もニゲラ様もお若い。だからこそ、挑む事ができるのだと、そう思っています」
老執事は笑って目を窓の外に向ける。
「月が出ておりますな」
つられて見た夜空には、誰かを思い出させる月が浮いていた。