6枚目
「それに触れないで頂きたい」
凛とした声と共に、何人かの足音が聞こえる。目の前の青年は振り返り、招いていない客人を見据えた。
「それはプラナス邸の使用人であり、処罰はこちらで行う」
「貴殿は?」
「ニゲラ=プラナス」
若様だ。どうしてここにいらっしゃるのだろう。研究があるというのに、私が邪魔をしてしまったのだろうか。私の失態で、第二試験に影響が出てしまっただろうか。そうなれば、生きてはいられない。
「プラナス様のご子息か?…ああ、かの有望な歴史学者ですね」
「貴殿に知って頂けるというのは身にあまる光栄だ、カルミア=ラティフォリア」
ラティフォリア、という言葉は聞いたことがあった。確か人界の王と呼ばれる者も同じものが名にあったはずだ。王である分、あちらの方がもっと長い名前であるが。
「それがそちらの姫君にどんな無礼をしたのかは分からないが、その仕打ちは主人である私に向けられるべきだと進言しよう、カルミア閣下?」
「自分の姓を汚すようなマネを?」
「生憎私には、それがたいそれた謀反ができるようには思えないのでね」
数秒のち、私への拘束が外される。体を自分で起こすと、ぱたぱたとこちらに来て、私の体を支えるのはトレニアだった。彼に連れられて、若様の後ろに立つ。
「良いのですか、愚者を切り捨てなくても」
「歴史学者は公平でなくては。こちら側の話も聞いていないのに切り捨てることなどできましょうか」
背後からは若様の表情は見えない。相変わらず、その気高さはお美しい。嗚呼、いっそ切り捨てられてしまいたかった。
「カルミア、その殿方の言う通りになさい」
未だ逃げないように掴まれているリリアムが口を開く。私と話していた時よりもずっと、凛々しい声をしていた。
「これはお願いではない。リリアム=グロリオサ=スターチス=ラティフォリアからの、命令です」
長い名前をすらすらと口にする彼女は、全く知らないリリアムのようで、そうじゃなかった。少しの沈黙の後、青年ーーカルミアは彼女に向けて頭を垂れた。
連れて行かれたのは、豪勢な屋敷だった。その一室で、私はワームの血で汚れた体を洗い、適当に渡された服を着て、ベッドに腰掛けて何か伝えられるのを待っている。
別に、間違ったことをしているわけではなかった、と思う。私はリリアムを傷つけるつもりもなかったし、彼女が男達を振り切って1人で逃げるのが一番危なかっただろう。彼女が本当に商人の娘であれば丸く収まった話だ。しかし、恐らくというか、彼女は人界の姫であろう。人界はいくつもの国に分かれていて、それをまとめる力を持つ人界の王、今は元勇者の息子がいる。人界の王の娘、つまり勇者の孫がリリアムなのだ。それほどまでの地位の人間を勝手に連れ回すこと自体、罪になりうる。魔界も人界も和平を結んでいる以上この件は表沙汰にはならない。ただ、姫を連れ去った私はどうなるかわからない。責任がプラナス邸に降りかかってしまったらどうしたらよいのだろう。
「アシュガ」
呼ばれて体が強張った。扉の向こうから呼びかける声だけで誰が来たか分かってしまう。動けずにいると、まもなく扉が開いた。
「…起きているなら返事をしろ」
「申し訳ございません」
呆れるように言った若様に、立ち上がって謝罪をする。こんな状態で寝れるほど図太い精神は持ち合わせていないと訴えたくもなったが、そのような気力も残っていなかった。
「顔色が悪い、治療は済んだのか?」
「特に怪我はありません」
「…まあいい、座っていろ」
この部屋に机も椅子もないから、座るのはベッドに腰掛ける、という意味なのだろう。主人より先に座るのはどうかと思うが、恐らく彼は早くしないと機嫌を損ねるので、言われた通りに座った。若様は一通りぐるりと部屋を見回して扉を閉めた後、こちらに歩いてくる。俯いていた視界に彼の靴が入ると同時に彼は立ち止まった。
「失礼する」
「え?」
隣でぼふ、とベッドが揺れる。右隣に若様が座ったのだ。慌てて立ち上がろうとすると、腕を掴まれ戻される。
「お前は俺がそこまで嫌いなのか?」
「いえ、ですが」
「今は何も考えず座っておけ。倒れられては困る」
若様が眉間にしわを寄せてこちらを見据えるので、仕方なくその隣でおとなしくしておく。別に体が触れ合う距離でもないが、間に置けるのは小さめの本くらいで、先ほどまでとは別の意味で不安になる。
「…お前は、間違ったことをしていない」
若様は膝に肘を置き、自分の前で手を組んで、少し前のめりの体制で仰った。彼が言葉を考えるときにする体制である。手紙を書くとき、よくこの体制をなさっているから知っているのだが。
「あの姫が大概な破天荒娘で、下っ端の兵士達は頭が悪かっただけだ」
「ですが、私は姫に比べ身分が低く」
「知るか。あの状況で姫にとっての最善策をとったお前を魔法石を使って組み伏せる輩の考えなど切り捨ててしまえ」
魔法石、というのは、魔法を吸収する作用のある石のことである。あの時力が入らなかったのは、自分の魔力が魔法石に吸われていたからなのかと納得した。
「…若、ニゲラ様。差し支えなければ、事の流れと私の処罰についてお教え下さい」
私ではなく、どうやら青年…カルミアに対して苛立っている彼に問いかけると、若様はその表情のまま私を覗く。明らさまにため息をつくと、そのまま今回の経緯を話し始めた。
事の始まりは、護衛をつけた姫が市場を少し1人で見たいと言ったことから始まる。それを受け入れられる筈もなく兵士が否定すると、姫は仕方なくそれを受け入れた。しかし、姫が隣の売店で気になるものがあり、人混みをすり抜けていくと、兵士達は1人でどこかに行ったと思い、彼女を見つけると無理やり返そうとしたらしい。兵士達の目の届く範囲を見て回っただけなのに!と姫は怒り、口論になっていたところに私がやってきた、という訳であった。聞いていると、なんだか子供の喧嘩のようだと笑みが零れる。
「王族の話だから魔王と王も聞いていたんだがな。お前と同じ反応をしていた」
「魔王様が!?」
「ああ。あの方は本当に心臓に悪い…」
遠い目をして前を向いてらっしゃる若様は、やがて真剣な表情に切り替わり、背を伸ばして私を見下ろした。
「市場の者や街の者が証言してくれたからな、仕方無かろうと今回の件はお互い不問にすることになった」
「では、私はまだニゲラ様にお仕えできるのですか…?」
彼を覗くと、静止魔法をかけたように微動だにせず私を見ていた。首をかしげると、彼ははっとしたようで、すぐさま私から顔をそらしてしまう。
「この件で、ニゲラ様の泊りがけの研究の邪魔をしてしまいましたし…何より、不問になったとはいえ騒ぎを起こしたのは私がいらぬ事に首を突っ込んだからです。ですから…もうニゲラ様にはお仕えできないかと、思っていました」
「…馬鹿が、それくらいでお前を手放すと思ったのか?今から屋敷に戻らず研究に取り掛かるし、もうほぼ方向性は決まっている。十分間に合う範囲だから気にせずともよい。いらぬ仮定で気を落とすくらいならここを出るぞ」
いつの間にかいつものように眉間に皺を寄せている若様は、言い終わると立ち上がり、かつかつと進む。彼を追って扉を開け玄関口に出ると、リリアムとカルミアがいた。
「アシュガ!」
「リリアム」
名を呼んで、姫様とお呼びするべきだったかと後悔する。しかし、涙を浮かべて私に突進する彼女にはさしたる問題ではなかったらしい。
「ごめんね…!私のせいで馬鹿にひどいことされて…」
馬鹿、とはカルミアのことだろうか。少し気の毒になる。
「別に、お気になさらず…」
「ごめんね…私、浮かれちゃったの。リリアムって呼んでくれるのが、嬉しくて」
肩でぽろぽろと涙を流す彼女の頭を撫でる。姫様である前に、彼女は1人の少女なのだ。少しお転婆がすぎるけれど。
「リリアム、泣かないで。きっとまた会えるわ」
「また会ってくれるの…?」
「ええ、もう私たち友達でしょう?」
微笑みかけると、リリアムはぐ、と歯を食いしばり、乱暴に涙を拭いた。
「うん!また会おう!魔界に来たら連絡するから!」
「行くぞ、アシュガ」
やりとりを見届けた若様が前を歩く。それを追いかけようとすると、リリアムが私の耳に口元を寄せる。
「貴方のご主人様は、貴方が大好きなのね」
「え?」
小声で言われたその意味を問おうとすると、彼女は私の背中を押した。仕方がないから、若様を追う。彼の背中が、少しだけ大きく見えたのは、錯覚なのか否か。