3枚目
暗く染まった空にオレンジが混ざる頃、私の1日の仕事は終わる。片付けている書斎からカーテンから朝日の淡い光が入ってきて、時計を確認することを忘れていたことに気づいた。ポケットに入っている懐中時計を覗くと、もうとっくに仕事を終えて食事をとっている時間帯だ。若様の本を最後まで棚に並べてから、急いで扉を開く。
「うあっ」
勢いよく開けてから、この扉は外側に開くのを思い出した。可愛らしい声が驚きの声を上げるのを聞き、慌ててそちらの様子を覗く。
「ごめんなさい、どこか当ててしまったかしら?」
「いいえ、ビックリしただけです…じゃなかった、アシュガさん!ボク、随分探したんですよ!」
柔らかくウェーブのかかったくせっ毛を後ろで小さくまとめ、それがちょこんと尻尾のようになっている。私より背の低い声の主に謝罪をすると、大きな瞳はじとりとこちらを見据えた。
「アシュガさんもアフェさんも、お仕事に熱中しすぎです!ご飯覚めちゃいますよ、全くもう!」
給仕の格好をした少年はぷりぷりと頬を膨らませて怒っている。それすら可愛らしく、謝らなければいけないのに笑みが溢れてしまうのだ。
「反省してるったら、ね?トレニア。許して?」
「許しませんよ!お二人はいっつもそうなんだから。…とりあえず、アフェさんはもう捕まえましたから、アシュガさんももう食べてください。ボクお腹すきました」
「先に食べてもよかったのに」
「1人で食べるよりも誰かと食べたほうが美味しいですもん」
拗ねたようにスタスタと歩くこの少年は、若様のお選びになった内の1人、食事担当のトレニアである。持つ魔力は低い夢魔の種族せあるが、類い稀なき食のセンスを持ち、若くしてプラナス邸の食事を任されることも何度かあった。特に若様は彼の料理を好んでおり、彼をこの屋敷に引き抜いたのだ。
使用人用の小さな食事場にはアフェさんが座っていた。こちらに気づき、耳をぴん、と動かした。いつもは燕尾服に隠れている尻尾も、食事をするからか上着を脱いでベストになっていると姿が露わになる。柔らかそうな毛が生えたそれを触ってみたい気もするが、先に料理を食べなければトレニアに怒られてしまう。素直にアフェさんの隣に座った。
「アシュガもまだだったのかい?いけないよ、レディがそんな遅くまで」
「気になさらないでください。それより若様は?」
「先ほどお眠りになったよ。夕方に起こしてくれって」
「まぁたあの人の話してる!」
トレニアは3人分の料理を盆に乗っけて、呆れたように私を見下ろす。手慣れた手つきで皿を置き、私たちの向かいに座った。
「ホント好きですよね、お二人とも」
「あら、あなたもでしょう?」
「お二人には負けますよ!さ、早く召し上がれ」
「ああ、いただきます」
「いただきます」
出された食事はシチューだった。恐らくニゲラ様の食事で使った食材の余りを煮込んだのだろう。それにしては美味そうな匂いをしているそれを口へ運ぶ。口いっぱいに柔らかな味が広がって、漸く自分が空腹だったことを思い出す。
「トレニア、遅れたお詫びに面白い話をしようか?」
隣のアフェさんが声を少し弾ませて言った。少し尻尾がゆらついているのが視界に入る。トレニアもそれが見えたようで、少し苦笑しつつ、お願いしますと返した。
「アシュガはマスターに嫌われてるんだそうだ」
マスター、というのは若様のことである。最初から彼は若様に仕えているから、旦那様ではなく若様が彼の主人だ。アフェさんはくつくつと笑いながら、シチューをすくって口に入れた。何が面白いのかわからず隣の狼男の様子を伺うが、その意識は少年の「は?」という疑問の声によってそらされる。
「ありえないでしょ、馬鹿なんですかアシュガさんは」
「だってさアシュガ?」
「馬鹿って…ひどい言い様ね」
「どこを見てそう思ったんです?」
「…いつも、私を見ると眉をひそめてらっしゃるもの」
そう言うと、せーのと合わせたかのようにぴったりとしたタイミングで2人が頭を抱えた。ついていけず、ぱちくりと瞬きをする私を気の毒そうにトレニアが覗く。
「こう言っちゃ怒られるけど、あの人は格好つけなんですよ」
「そうかしら?」
首をかしげる私に隣の狼男は苦笑いを浮かべる。
「まあ、緩んだ顔をしていてはプラナスの名に恥じるとか思ってたらしいから…もう癖になったって仰ってたな」
「そりゃあじれったいわけだ!」
呆れたように少年が吐き棄てると、本日二度目のじとりとした瞳を私に向ける。
「あの人が嫌いな人の好きな食べ物って覚えてると思います?」
「いいえ、そんな労力を割く方ではないでしょう」
首を横に振ると、背もたれにもたれながら投げやりにトレニアが言う。
「じゃあ自分の好きな食べ物聞いてみてくださいよ、絶対当てられますから」
「わかった、明日聞いてみる」
力強く頷くと、トレニアはその大きな瞳をさらに大きくした。隣でアフェさんがくつくつと笑う。どうなっても知らないぞ?と愉快そうに尻尾を揺らす彼が言うと、少年は顔色を青くした。
「は?」
昨日言われたことを実践すると、若様は開口一番にそう言った。叱られるかと思ったが、それよりも驚きが大きかったらしい。
「…誰かからの差し金か?」
「はい、トレニアが」
若様は眉間の皺をより深めた。口元に手を当てて考えるのは彼の癖である。しかし考えても何もわからなかったのか、彼は私への質問をやめた。
「ジャガイモ」
「え?」
「人界の野菜だろう、違うのか?」
ジャガイモ、というのは人界から血を輸入する(血はそこそこ売れるので人界では割のいいお小遣い稼ぎらしい)ついでに仕入れる人界の野菜であり、ほとんどの魔界に住むものは名前すら知らない。見識を広めるためにという理由で若様が適当に人界のものを入荷するようトレニアに命じたと聞いた。そのおこぼれが我々使用人にも回ってくるのだが。
「…いえ、どうしてご存知なのかと思いまして」
「下らない話をする暇があるならこれを下げてアフェランドラを呼んでこい、俺は書庫に行く」
これ、と食器を指差してうんざりとした顔で若様は仰った。承知しました、と頭を下げ彼の机の上を片付け、彼が書斎に向かうのを見送って部屋を後にする。厨房へ行く途中にアフェさんに書斎に向かうようお伝えし、ころころと回転する小さな滑車つき配膳台を早足で押す。
「トレニア、いる?」
「今そっちにいきますー」
少年らしいボーイソプラノの声の持ち主がぱたぱたとこっちへ向かってくる。器用に皿を一回で全部持って、流し台へと運んで行った。相変わらずすごい技術だなぁと感心する。ついでに自分も軽食をとろうと彼にお願いする前に、小さい野菜スティックがディップと一緒に目の前のカウンターに置かれる。
「軽食でしょ?早く食べちゃってください」
「貴方って本当に気が効くわね、素敵な殿方になるわ」
「もうすでに素敵な殿方ですよ、子供扱いしないでください!」
子供扱いしないようにしようと思っても、ころころと変わる表情にその可愛い中性的な見た目では、やはり子供扱いしたくなってしまう。そういう言葉を飲み込んで、スティックを齧る。軽く茹でられているそれは、噛むと口の中で野菜独特の甘みが広がる。
「よく見たらこれ、人参じゃない」
「前から思ってましたけど、アシュガさんって人界のものに詳しいですよね、好きなんですか?」
「そうでもないわ、ああでも、そうだ。ジャガイモは好きよ」
「ジャガイモ?…ああ、あの丸っこいのか、最近入荷してないですね、今度しておきましょう」
選択権はボクにありますからね、と悪戯っ子のように笑ってウインクをするトレニアにありがとう、と伝える。
「そういえば、若様もジャガイモをご存知だったわ」
「そうなんですか?」
「ええ、私の好きな食べ物を聞いたらジャガイモだろう、って」
がしゃん、と皿と皿がぶつかる音がする。さっき流し台にいって洗い物をし始めたトレニアを覗く。
「大丈夫?お皿は割れてない?」
「大丈夫ですよ、ええ。ビックリしましたけどね」
恨みのこもったような彼にしては低い声が返される。何か気に障ることを言ってしまったかと思考を巡らせながら、スティックの最後の一本を齧った。