1枚目
魔界でも様々な職種があるのは想像に易いことだろう。その中でもメイドというのはどこの世界でも同じものだ。ただ、そのメイドの中でも色々ある。家事としての能力が高いだけではなく、性格や兼任する仕事によっても大きく個性が出る。
自分の右手を開いては閉じ、そうやって自分の感覚を日常へと引き戻していく。いつもの裾の長い正装でも、なんとかなるものだと思った。ぐ、と体を伸ばし、汚れも気にせずその場に座った。疲れてしまったのだ。
「アシュガさん!」
自分を呼ぶ声と数人の足音が聞こえ、上半身を仰け反らして後ろを見る。見知った同僚たちが走ってきた。先頭を走っているのは自分より年下のメイド。後ろにいるのは男性の従者たち。
「お怪我は!?」
「ないわ、ただの迷い子よ」
そう言って目線を目の前の物体に移す。自分の5倍ほどの体軀をもつ三つ目の物体が倒れている。その奥には屋敷の裏にある森へと続く道が見えた。奥の森は知能の低い大きな魔物が住む地区であるから、恐らく迷い込んできたのだろう。大人のものだと15mは超えるから、今回のものは子供である。少し罪悪感を感じ、そこから目を逸らしてやってきたメイドを見る。
「旦那様にはお伝えしたの?」
「はい、アシュガさんの魔力の心配をしていらっしゃいました」
「問題ないわ、これは片付けてもいいの?」
動かなくなって物と化したそれを指差すと、彼女は頷いた。やってきた皆を後ろに下がらせ、座ったまま左手をそれにかざす。まもなく光を放ってそれは燃え始めた。地面にはえた草を巻き込まずに静かにそれは炎に包まれていく。その間、左手を開いては握り、感覚を戻していく。
「…見事」
若くも高貴な声が後ろから私を讃える。その慣れ親しんだ声に立ち上がり、頭を垂れる。
「お褒めに預かり光栄でございます」
切れ長でつり目の真紅の瞳に、月のような金を帯びた白い髪の青年、ニゲラ様がそこにはいた。手を組んで様子を伺うかのようにこちらを見下ろしている。
「吸血鬼の血が通うだけある。よくやった」
「…濁った血でございます」
「血統などどうでもよい、お前の出した結果が尺度だ。俺よりよっぽど、戦闘には長けている」
きっと、彼が万全の体調であれば、私は彼に勝つ手段はないだろう。純血でない分、やはり力は劣化するのだ。それにも増して、自分の父よりもこの一家は権力も持つ魔力も素晴らしいものがある。吸血鬼の力を持つこと自体がレアであるのは間違いないのだが。
「若様、どうしてこのような場所に?」
私が声をおかけすると、ニゲラ坊っちゃま…改め若様は少しの間をあけた。少しきょとん、とした顔はいつもと違ってどこか可愛らしい。坊っちゃまの代わりに若様とお呼びすることにしよう、とさっき思いついたばかりである。初めて彼をこう呼んだから、慣れぬことで驚いたのだろう。
「もうすぐ出発になる。準備はできているか?」
「…既に済んでおります」
返答しても、続きの言葉は返ってこなかった。わざわざ、そんなことを言いに来たのだろうか。それとも私は戦闘に出ていて準備が間に合いませんでした、と言いそうな顔をしていたのか。そうであればまるで遠足前に遊びに行っていて、準備に支障が出る子どもじゃないか。本当に、彼の中での私はひどい使用人で、そうであれば苛立たれる理由もよくわかる。ショックが大きいのは言うまでもない。
「…出発まで、体を休めておくように。少し長旅になる」
わかりやすく意気消沈した私を気にかけて下さったのか、若様が少し優しい口調で仰った。礼をすると、彼は屋敷の方へ体を向け、美しい姿勢で歩き出した。1つ1つの動きが洗練されたお方である。
「相変わらず、アシュガさんにはそっけないですね」
「口を慎みなさい」
小声で話しかけてきた年下のメイドを睨むと、彼女は肩を竦めた。
「いいえ、知らないって罪なこともあるんだなって」
「どういうこと?」
「こればっかりは私からは言えません!」
彼女は楽しそうに笑う。全く意味のわからない私は何も楽しくないのだが。訝しむ私をよそに、彼女は急に表情を変える。
「…アシュガさん、もう一緒に働けないんですね」
「そうね」
「坊ちゃんも悪いお方よね、羨ましいなぁ…アシュガさん!私のこと忘れないでくださいね!」
「善処しましょう」
「うー、アシュガさんの意地悪!」
後ろのメイドを気にせず早足で自室に戻る。移動するのに準備するものといっても、自分用なんて数日間の着替えと何冊かの本さえあればいいのだ。荷物はそこまで多くない。忘れ物を確認し、先程の戦闘で少し乱れた髪を直し、汚れを確認する。着た時から全く変わっていない制服に少し優越感を抱きつつ、くるりと姿見の前で一回転すると、扉が開く。荷物預かりの使者である。ノックくらいしてほしいものだと先程の失態に顔を赤らめながら、あまり重くない荷物を渡す。そのまま使者についていくと、既に若様は馬車の前で立っていらっしゃった。屋敷をぼんやりと眺めていらっしゃる様子だ。主人より遅くなってしまったのかと焦りを感じていると、若様と目があう。
「…遅くなってしまい申し訳ございません」
「構わない。疲れていたのだろう、てっきり寝ていると思っていたが?」
若様は片眉を少し上げて冷ややかに私を見下ろす。メイドとしては主人より早く到着しておきたかった。
「来い、アシュガ。お前はこっちだ」
頭を下げて、若様に言われて指さされた方へと早足で進む。前には若様が歩いてらっしゃり、1つの馬車に彼は乗り込む。立ち止まって近くの馬車を探すが、他の馬車は少し遠くにあった。
「何をしている?」
「若様、私の馬車は?」
「お前はここに乗れ」
驚きで返す言葉が見つからなかった。どこに成人近くの異性の主人と一緒の馬車に乗るただのメイドがいるだろうか、よほど信頼されている同性の従者ならまだしも。突っ立っている私に、不機嫌に眉を潜める若様は目を細める。
「従者と同じ馬車に乗る方が馬車を雇う金が少なくていい、そう父上に進言したのは俺だ。気にせず早く乗れ」
「…承知いたしました」
本当は承知してなどいないが、これ以上主人の時間を潰してはいけない。誰にも見つかりませんように、と願いつつ、馬車へと足を踏み入れる。
「馬車は慣れているか?」
「いえ、あまり乗ったことはありません」
「なら寝ておけ。寝ればすぐだ」
「恐れながら、従者の身で若様の前で」
「今は2人だが?」
「…ニゲラ様の前で眠るということがあってはなりません」
ぶるる、と馬の鳴き声の後、ゆっくりと馬車が動き始める。慣れぬ乗り物に揺られるのに体を強張らせていた私を、若様はじ、っと見て口を開いた。
「気にするな、酔って吐かれるよりマシだ。丁度疲れているだろう」
「ですが」
「目を閉じておけ、じきに眠れる」
少し反抗の意で彼を見つめるが、無表情で見つめ返される。このままでは何も進展しないと理解し、ゆっくりと目を閉じる。がたんがたんと馬車が揺れ、耳に障る音がする。しかしじきにそれにも慣れ、だんだんと意識が宙に浮かぶようなふわふわとしたものになっていく。このままでは本当に寝てしまう、そう思って薄く目を開ける。
しかし、目を開けて後悔した。ニゲラ様がまっすぐこちらを見ていらっしゃったのだ。思ったよりもお優しい目元で、口元に微笑を浮かべながら、いつもと違う表情の彼がそこにいた。見てはいけないものを見てしまったかと慌てて目を瞑る。普段から凛々しい顔立ち、表情であるが故に、この柔らかな表情は胸にきた。きゅ、と締め付けられるかと思いきや、ばくばくと心臓がすぐ耳元で鳴っているような感覚がする。それが落ち着いてくると同時に、睡魔が私の意識をさらっていく。
「おやすみ、アシュガ」
波に流されていくように意識が遠のく中で、優しい声が聞こえた。夢か現か、ただその声は、慣れ親しんだ声だったような気がした。