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魔界。
それは人間が恐れるような怪物たちが住む世界。人界や天界とは違ったところにある世界。
人に勇者と言われて襲来してきた者と魔王が和解し、人界ともある程度、友好になりつつあったこの時代。賢王であった魔王は歴史に学べるよう、自らの失態も含めた大きな歴史書を作成していた。その作成にあたり、数々の立場の者が色々な証言をした。それをまとめるべき人員を国は求めた。その手段として、国家試験を二段階に分けて行った。第一段階は単純な知識の問い…といっても、その問いでほとんどの受験者は落とされるのだが。二段階目は一定の期間を人格育成に設け、その期間で公平に真実を見極める力を得たと認められることである。
アシュガ、というのが私の名である。そこそこの身分の吸血鬼とその愛人の子、妾の子であるのが私である。妾の子であるから公の場で跡取りなどにはなれないが、行くあてがないということにならないようにが父が手配してくれたようだ。覚えていないが母親は早くに死んでしまったらしいから、早々に父の親族の家にメイドとして雇われた。妾の子ではあるが、当時幼子だった私に罪はないと公平に雇わせて頂いたことに感謝している。
さて、私アシュガは、この家の当主である旦那様の子どもの世話を全般的に担当している。2人の息子と1人の娘、皆順調に育っていらっしゃる。特に、真ん中の子であるニゲラ坊ちゃまは、私の年よりも2つ上の方で、その若さで歴史書作成の第一関門である国家試験に受かった秀才である。今は第二関門の時期にさしかかり、この家にいらっしゃることは減っている。
「アシュガ、よく聞け」
そのニゲラ坊っちゃまに呼び出され、私は彼の自室で彼の前に立っている。腕を組み軽く椅子にもたれていらっしゃるご様子から、彼は少し苛立っているのかもしれない。昔から、彼は私が気に入らないらしい。尤も、暴力を振られたことも、理不尽に責め立てられることも、一度もなかったのだが。
「なんでしょう、坊っちゃま」
「…まず坊っちゃまはやめろ。俺はあともう少しで成人なんだから」
少し目を細めて、イライラしたように仰る彼の眉間には深いシワが刻まれている。私は申し訳ありません、と謝罪をした。彼はそれには何も触れず話を進める。
「父上から仕事場に近い所に住むように勧められた。ここは通うには遠く、近い方が自分のすべきことに集中できるだろう、と」
確かに、彼の通う所からはこの家は遠い。移動だけで体力を使ってしまう。ニゲラ坊っちゃまは精神こそ強くあられるが、身体はそれほど強くない。吸血鬼であるがあまり血を吸うのは好きではなく、満足な栄養を取れていないのが原因である。次男であり跡取りなどを気にせずともよいニゲラ坊っちゃまの道を旦那様は応援したいと仰っていた。
「そこに、お前を連れて行く。古くから俺に仕え、それなりに仕事もできてきた。ここよりも小さな家になるが、問題はないな?」
急な話、かつ決定事項に驚き、少し呼吸が乱れてしまった。まず、このお方は私のことが嫌いだったのではなかったか?面と向かって言われたことはないが、今までの態度から察するにそうであろう。しかし、彼は技術を見るお方だ。私のなにかの技術が新しい彼の屋敷で必要となるのかもしれない。
「アシュガ!」
思考を巡らせていたせいで返事をしていなかった私の名前を彼が呼ぶ。虚をつかれて背筋をのばす。驚きで体が少しこわばっているのが自分でもわかる。
「…申し訳ございません。坊っちゃま」
「…これからはお前の主人は俺だ、坊っちゃまじゃない」
「旦那様、とお呼びすればよいのですか?」
「……ニゲラ」
「ニゲラ様、とお呼びするのですか?」
「…来客のときには他で呼べ。この件に関して質問はないな?」
疑問が残るが、とりあえず頷く。彼は眉間にしわを寄せたまま、私に持ち場に戻るように促した。