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そういって赤坂は、乱暴に冷蔵庫の扉を閉めた。それから居間のドアを開け、すぐ左手にある階段を上ってゆく。
この先には、赤坂のプライベートルームしかない。つまり客室と名のつく場所に通されるのは、そこそこ彼女と親しい仲の人物だけなのだ。親しい人間でなければ客ではない、それが彼女の口癖である。
「わひゃひゃひゃひゃひゃ」
彼女の後を追うと、どこからか下品な笑い声が聞こえてきた。女性の声ではあるが、女性のものとは思えないほどの笑い方である。聞く者によっては、赤ん坊の笑い声にも感じるかもしれない。無垢と下品、この二つは紙一重なのだ。
思わず、足を止める。
これは確実に、奴が何か、やらかしているときの笑い声だ。赤坂も、それに感づいたらしい。足早に、いくつか連なった部屋を通り抜け、問題の客室の前に立つ。
「うけけけけ。うひゃあ、雪崩だあ!!!」
相変わらず、意味の分からない言葉だけが聞こえてくる。僕と赤坂は一瞬だけ顔を見合わせると、素早くドアノブに手をかけた。
「何をして――」
最後まで言葉を発することができなかった。
――唖然。
室内は白い紙で溢れ、それが全てを埋め尽くしていた。さらに、埋め尽くすだけにとどまらず、細かく千切られた紙切れが、ふわふわと宙を舞っている。部屋の中央に設えてあるソファは完全に埋もれてしまい、背もたれだけがわずかに顔を覗かせていた。
当のヘーヤは、部屋の中央で降り積もった紙に埋まり、ごろごろとのた打ち回っている様子だ。思わず足を踏み入れると、ずぶりと足が呑みこまれた。さながら、三島由紀夫の小説に登場したような気分である。
「何をやってるんだ」
僕は強い口調で問いただした。別にこの家の主でも何でもないけれど、そう言わずにはいられなかったのだ。
「あっ、はろーはろーカイジンちゃん! 君も来てたのか。いやあ、あんまり怒らないでよ。 暇だったからねえ」
ヘーヤは虚ろな目をしながら片手を挙げ、その腕を左右に振ってみせた。そうして、おもむろに立ち上がり、掴んでいた紙の束を勢いよく放り投げる。
百七十センチの身長とほぼ同等の高さから解き放たれた紙が、空気の抵抗を受けながら、ゆっくりと落ちて行く。
僕はその様子を眺めながら、静かに鼻から息を漏らした。
「――暇だったから?」
「むふふふ。そこに分厚い週刊誌があってね。そんで私は、半分に破れないかなあと思ったわけさ」
「そう。それで? 半分に破れたの?」
「いやあ、簡単だったね。コツさえ分かれば、女にだってできるんだよ。黒人のプロレスラーも形無しぐらいにさ。ただ少し、骨が折れる。いや、筋肉を消耗するわけさ」
「それで?」
僕には少し、続きが読めた。
「それで、雑誌を半分に破ったわけだよ。四百ページと四百一ページの間をね。そりゃあもう、簡単に破けちゃったね。むふふ。このやり方なら、タウンページだって半分にできる。世紀の発見だよ、これは。これを応用すれば、半分にだって、十分の一にだって出来ちゃうんだから」
「それで面白くなって、雑誌の一ページ一ページを……」
「そう、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」
そう笑いながら、ヘーヤは手元にあった書籍を、言葉通り一ページ一ページちぎって見せた。
「馬鹿なんだろうなあ」
その様子を眺めながら、僕は諦めて呟く。ずれているだとか、おかしいだとか、そういったレベルではない。初めから何かが欠落しているのだ。
同意を求めるつもりで赤坂の方に目をやったが、彼女は僕の意に反して、驚いたように両目を見開きながらこの光景を見ていた。
「ヘーヤ君、それ、もしかして……」
赤坂の視線は、ヘーヤの持つ書籍に注がれている。とは言っても、ヘーヤの手が邪魔をして、彼女が何の本を持っているのかは僕には分からなかった。
「んへへ? ああ、これ。紙が足りなくなったからさ、別の部屋から調達してきたんだよ。なかなか、ちぎりがいのある本だったねえ」
「ち、調達? 別の部屋から? もしかして、そこ、鍵が掛かってなかったかい?」
感情が複雑に入り混じったような口調で、赤坂が問いただす。眉間には、綺麗な縦皺が寄っていた。
「あー、うん。そういえば、掛かってたねえ」
赤坂の表情には全く気付かず、ヘーヤがケロッと答えた。
「どうやって開けた?」
「どうやって? 何を言ってるのか、ヘーヤには分からないなあ」
「鍵を開けた、その方法を聞いているんだ」
「方法も何も、あれって南京錠でしょう? しかも、ホームセンタで普通に売ってるやつ」
「まあ……そうだが」
赤坂が、少し表情を曇らせながら頷く。
「不用心だなあ。南京錠の中にはね、共通キーが採用されているものがあるんだよ。つまり、全く同じ鍵穴の錠が、大量に売られているってわけ。鍵と錠のシリアルナンバーさえ揃えば、一本の鍵でいくつもの錠を開けられちゃうし、一つの錠の鍵を何人もの人間が共有することもできる。知らないで買って行っちゃう人が多いんだよねえ」
「例え、私が気づかずにその鍵を買ったとしても、だ。シリアルナンバーを知らなければ、簡単に開けられるものではないだろう。いや、いやいやいや。違う。そんなことは、今となっては些末なこと。鍵など、どうでもいい」
赤坂は、泳ぎ終えた猫のように首を左右に振る。そうして、恐る恐るヘーヤを指差した。
「重要なのは――重要なのは、だ。君持っているその本。その本はもしかして……」
「んあ、ああ、これ? 虫の本だよ。名前からして、きっと虫太郎って虫が主人公なんだろうね」
ページを全てちぎり終えたヘーヤが、本の表紙を僕に投げてよこした。見ると、題名には『黒死館殺人事件』と書いてある。
「それは……それは初版本……。それも御本人から直接頂いたという……」
赤坂が、この世の終わりのような顔をして膝をついた。
「あれ? あれあれあれえ? もしかしてもしかして、大切な本だったりする? 駄目だよ。そーゆーのはさあ、きっちりきちんと大切に保管しておかないと」
ヘーヤはケラケラと笑い、何を思ったか自ら紙の海の中へと沈んでいった。それから僕たちの前まで這うように進んできて、ばっと顔を覗かせる。
「んで? んでんでんで? 細かいことは置いといて。これはどういうことかな? カイジンちゃんがいて、天神ちゃんもいる。二人は下で、こそこそと内緒の話をしてたみたいだし。ヘーヤちゃんの嗅覚が反応しちゃった。なにか、面白いことがあるんでしょう?」
「え? 別に何も。友人の家を、用事もなしに訪問しちゃ不味かったかな?」
僕はとぼけてみせた。
「そんなものは、このヘーヤちゃんには通じないよん。正直に吐くまで、てってー的に攻めてやるんだから」
ヘーヤの眼が、怪しく光る。さらに彼女は、何故か両手を顔の前に持っていき、開いたり閉じたりし始めた。
まいったな。
これは降参するしかない。長年の経験上、僕にはそれが分かった。これ以上とぼけてしまうと、僕は彼女に何をされるか、分かったものではないのだ。
「話す。話すよ。でもその前に、することがあるだろ?」
僕は、いまだに膝をつき、頭を抱えながら震えている赤坂を一瞥して言った。
「ああ、そうかそうか。うん。分かってるよ。お片づけだね?」
三時間後。掃除と赤坂に対する謝罪をきっちりと終わらせた後、僕はヘーヤに事の経緯を話した。もちろん、赤坂に話したのと同じ内容である。
「なるほど。話は分かったわ」
酔いが醒めてきたのか、ヘーヤはいつも通りの口調でのたまわってから、面倒くさそうに手を振った。
「つまり、詳しいところは聞いていないんだろう?」
「まあ、そういうことかな」




