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『よろず屋』
大半の人間は、煙草屋の角を曲がると、まずそんな言葉が書かれた看板が目に入ることだろう。それから一拍おいて、その下の朱色の文字を読むことになる。
『ただし現実的な範囲で』
いやはや、いつ見ても、ふざけた看板である。看板に否定的な言葉を書く店が、いったいどこにあるというのだろうか。僕は以前から、この看板を書き換えるように提言しているのだが、一向に変わる気配がない。家主曰く、いらぬ誤解を避けるため、なのだそうだ。
その大きな看板とは対照的に、店自体は非常に小ぢんまりとしていた。周囲に溶け込むような二階建ての木造の家屋で、いつごろ建てられたものなのか、僕には分からない。曰く、元々は反物屋だったそうである。ただし、造りそのものは頑丈そうで、一週間ほど前にあった地震にも無事に耐えることができたようだ。この件に関して、僕が少しでも心配していたことを彼女が知ったら、きっと鼻で笑うことだろう。
無愛想な紺色無地の暖簾をくぐり、小さな土間に足を踏み入れる。中はうす暗く、しかしほんのりと暖かい。家具や生活用品、商売道具といったものは皆無で、一見空き家と勘違いしてしまいそうになる。部屋の片隅には帳場があり、彼女は稀に、この場所に座って往来を眺めているのだった。ちなみに、この帳場も、反物屋の名残である。
僕は足元に靴が一足並べられているのを確認して、黒光りする床へと足を乗せた。いつものごとく、この場所で来訪は知らせない。縦に長い構造を持つこの建物では、玄関先からどんなに叫んだところで、結局のところ奥までは届かないのだ。そのため、この店を訪れた人間は、僕のように黙って上り込むか、もしくは彼女に気づいてもらえるまで辛抱強く待たなければならない。思うにこの店は、新規の顧客の開拓を放棄しているのだろう。否、拒絶していると言っても過言ではない。
土間にある階段を上るかどうか少しだけ迷った後、帳場の脇をすり抜け、長い廊下へと足を踏み入れた。ここから先は、客室、風呂、トイレ、書庫が並んでいる。突き当りには小さいキッチンと居間があり、彼女は最近、この場所でよくDVDを観ているようだった。
キッチンのドアを開け、中の様子を窺う。案の定、そこには彼女がいた。二人掛けのソファにだらしなく座り、何やら辛気臭そうなアニメを観ている。いや、実際には観ていないのかもしれない。彼女の両手は何かを持っているようだったし、首の角度から察するに、視線は膝の上に注がれていたからだ。きっと、本でも読んでいるのだろう。しかしそれが僕の書いた本でないのは、言うまでもない。
「サンタクロースですけど、こちらは天神赤坂さんのお宅ですか?」
僕はオープンキッチンのカウンタに腰掛け、椅子を百六十度くらい回転させながら、声をかけた。その馬鹿げた問いに、彼女は微動だにしないまま答える。
「偽物だろう。世界を飛び回るサンタクロースが、日本における礼儀を知らぬはずがない」
「礼儀?」
「そう。日本において欠かしてはいけないもの。それは挨拶だ」
「……こんにちは」
何と答えて良いのかわからず、僕は馬鹿のようにそう言った。
「よろしい。こんにちは。それで君の問いに対する答えだが、ここはよろず屋だ。天神赤坂なる者の家ではない。どちらにせよ、外国人の来るような場所ではないだろう」
どうやら、今度はこちらが試されているようだった。僕は少し逡巡した後、諦めて両手を上げる。
「降参。返答が思いつかないよ」
「ふん。あまり下らないことに私を付き合わせるなよ、うみんちゅ君」
彼女は昔から、僕のことを『うみんちゅ』と呼んでいた。僕が海人という名前だからだ。ちなみに僕の友人は『カイト』と呼ぶし、両親には『うみくん』と呼ばれる。実のところ、そのどれもが本名ではない。
「とりあえず、少し黙っていてくれないか。今、良いところだから」
相変わらず振り向きもせずに、赤坂はやや不機嫌な声でそう言った。彼女のこういった態度は、珍しくない。
「映画が? それとも、本?」
「両方」
「ふうん」
僕は肩をすくめて、コートのポケットから煙草を取り出す。もちろん、僕自身の煙草だ。それから安物のライタで火をつけた。
浸み込むように、紫煙が室内へと広がってゆく。
どれくらい時間が経過しただろうか。しかし煙草の燃焼具合から言って、さほど時間は経っていないはずだ。少なくとも、二分か三分ほど。ようやく、彼女が動きを見せた。
視線を下に向けたまま、右腕を横に伸ばす。指の先には、フローリングの上に置かれたスプライトの缶があった。
「飲んでも良いの?」
「飲めるものなら」
「ああ、灰皿か」
僕は気が付いて立ち上がった。煙草の灰は、今にも落ちてしまいそうだった。
「まったく。吸い殻はどうするつもりだったんだ?」
彼女は呆れたように振り返る。短い髪には寝癖がついており、眉根には皺が寄っていた。尖った顎に薄い唇、それに猫のような眼。普通にしていれば充分に美人と呼べる類なのだが、それが今は形無しである。
「何も考えてなかった」
僕は缶に灰を落としながら、彼女の顔色を窺う。
「もう、話しかけてもいい?」
「どうして?」
僕は口をつぐむ。
『どうして?』この問いに、どんな意図が含まれているのか分からなかったからだ。
どうして、そんなことを聞くのか?
どうして、そう思ったのか?
どうして、この場所に来たのか?
あるいは、それ以外か。
「ほら、さっき、黙っているように言われたから」
彼女の質問に大方の見当をつけ、答える。
「見れば分かるだろう。映画も、本も、既に終わったよ」
確かに、テレビ画面にはエンディングらしきものが流れていた。
「ああ、良かった。それで、どうだった?」
「どっちが?」
「えっと、両方」
「どちらも素敵だったよ。本はもちろんのこと、映画化されてもその素晴らしさは変わらなかった。君の書いた本とは、大違いだ」
彼女が読んでいた物が、映画の原作だったということに、僕は一拍おいてから気が付いた。映画と書物を同時に処理できる、ということにも驚きだが、原作と映画を同時に見ようと思い立った思考にも驚きだ。まさにネタバレに次ぐネタバレである。
「それで?」
赤坂は首を傾げ、僕に先を促した。今度は僕にも分かる。なぜ、このよろず屋に来たのか、と問いたいのだ。
「まあ、大したことじゃないよ。それよりもほら、煙草でもどうだい?」
「へえ、珍しい。きっと、ロクなことじゃあないんだろうね」
言いながらも、彼女は僕が放った煙草を素直に受け取った。目には、何かを責めるような光が宿っている。
僕はその光に気づかなかったことにして、明後日の方向を見ながら、出来るだけそっけない言い方で答えた。
「まあ、そんな感じかな。その……殺人事件絡みなんだ」
「殺人だって? 驚いた。君はもしかして、警察にでも転職したのかい?」
「いや、そういうわけではないんだ。実は、何て言えばいいのか、うーん、つまり、依頼なんだよ」
「依頼? 君に?」
「ああ。何を勘違いしたんだか、世間では僕のことを探偵だと認識している人間が多いみたいなんだ。それで、今回の話が持ち上がった」
「なるほど。世の中に馬鹿が多くなければ、君は詐欺罪で捕まるところだからな」
「まあ、そう言うなよ。僕にだって分かってるんだ。僕は謎解きなんて柄じゃあない。だからこそ、赤坂に頼みたいんだよ」
「嫌だね。面倒事はごめんだ」
「その事件が、密室での出来事だったとしても?」
「――ほう――」
赤坂が目を細め、両指を絡ませたことを確認して、僕は唇を舐めた。この一連の動作は、彼女が興味を持った証である。




