08☆街の夜に交響楽
☆
真昼の時間が少しだけ傾き始めた頃。
日向・美紗紀は靴を脱いできた正面玄関へ向って歩いていた。
その背中に若い男性の叫び声を聞くが、敢えて振り向かない。
窓の外は春に揺れている。
傾き始めた陽の光が、中庭の木々に溶けて、木漏れ日を作っていた。
だと言うのに美紗紀の頬には冷たい汗が流れている。
「学園長の居場所、言わん方がよかったんかな」
と、後ろの声を意識するが、すぐに首を振り、気持ちを切り替えて、全て無かった事にした。
白い廊下は長い。
左右に窓を設けた通路だけの廊下だ。
窓の向こうは庭になっていて、気持ちを和らげてくれる。
この学園には緑や花が多い。
どこを見ても、その清々しさが目に入る程だ。
左右の窓を見比べて、美紗紀は正面玄関を目指した。
と、そこでだ。
窓の向こうに一つの音を聴いた。
低音と高音が美しく交ざったような音。
その音色が連なり、木漏れ日に軽快な楽曲が流れていた。
「ふぅん。休みな筈やのに」
美紗紀は窓の向こうで一人の少年を見つけた。
ここにいるという事は、つまり、美紗紀と同級生かそれ以上という事だろう。
しかし、その少年の外見はあまりに幼かった。
おかっぱに切られた髪に、少し大きそうな黒いジャケットとブラウス。
身長は美紗紀よりも低い。
そんな少年が学園の庭で音を奏でている。
右手には弓を、首に挟んで左手で支えているのはヴァイオリンだ。
細い指が弦を押え、右手で弓を滑らせて音が生まれている。
窓という額縁の中で、それはそれは絵になっていただろう。
思わず美紗紀も見とれてしまった程だ。
しかし、その音色は決して良いモノでは無い。
改めて耳を澄ませてみれば、あちらこちらでぎこちなさが生まれては、軽快な筈の楽曲の邪魔をしていた。
美紗紀は、なるほど。
と、思う。
聴いた感じ、これはそう簡単に弾ける曲じゃない筈だ。
それを少年は完成させようと、手探りでもがいているのだろう。
休みの日も落ち着ける場所に出て練習を重ねているのだ。
しかし美紗紀はそれを下手だとは思わない。
むしろ、心地よく思う程だ。
立ち止まった廊下に少年の風が吹き、美紗紀はふと瞳を閉じてみた。
その中に生まれるビジョンは、少年の音だけが作り出すモノだ。
美紗紀だけの空間に一羽の小鳥が舞い込み、うまく飛べずに風に揺られている。
未だ飛ぶ事の楽しみを知らず、必死になってもがいているのだろう。
それを勿体ないと思い、それから微笑ましい限りだと感じた。
羨ましくも思う。
美紗紀はまだ先を知らない。
ここに来れば何かが変わると思った。
だからこれからなのだ。
と、瞳を開けた。
白い廊下の向こうに正面玄関が見える。
うん。
と、頷けば、美紗紀の足は動いていた。
少年の内面を含まぬ音色の中を歩いていた。
☆
東京の海を埋め立てて造られた都市、第二東京区の上に夜が広がる。
陽が沈み数時間たった今、街は明るく生きていた。
降り注ぐ夜を僅かに遮り、星を隠してしまっている。
都会の夜に星が無いのはその為だ。
その中で風は吹き、人々は歩いている。
朝には見れなかった数多くの人々が、交差点を行き交っている。
第二東京区の夜。
そこに生きる一つとして、美紗紀は目を覚ました。
照明のついていない部屋は暗く、しかし街の明りに照らされている。
正面に見える天井に美紗紀は僅かに戸惑った。
が、その戸惑いもすぐに消える。
軽く頭を叩きながら起き上がるそこは、天月学生寮312号室。
日向の名が刻まれた部屋だ。
部屋にはリピートで音楽が流れ続けている。
ゆったりとしたメロディーに甘い男性の声が重なり、なんともメロウな空間を作り出していた。
「ん……」
見慣れない天井に、目を擦ろうとして、眼鏡を掛けたままだった事に気付く。
しまった。と一度眼鏡を外し、美紗紀は起き上がった。
部屋の隅のパイプベットの上に座り込み、ぼやけた意識をゆっくりと立ち上げてゆく。
学園から帰宅してすぐ、倒れる様にして眠ってしまったらしく、服装も何もかも昼のままだ。
が、床に足の裏をつければ、冷たいという感覚がきた。
どうやらソックスだけは脱いだらしい。
溜め息をつきながら立ち上がり、そのままの足で部屋の照明をつけた。
スイッチに軽く触れれば光が目に刺さる。
急な明るさに目が慣れない。
それを薄目にして避けながら、 オーディオのリピートを止めた。
「ん、今何時やろ……」
普段は携帯電話があるから使わないのだが、一人暮らしという事もあり買っておいた時計に目をやる。
眼鏡を外しているせいか、うまく集点が定まらない。
それを目を細めて見れば、短針は既に七時を回っていた。
約四時間。
美紗紀は寝ていた事になる。
「あぁ」
しかし未だ気怠さはとれない。
今朝はよく眠れた訳じゃ無いが、眠れなかった訳では無い。
この気怠さは単なる寝起きの余韻だろう。
と、美紗紀はキッチンに向った。
リビングとトイレの間にある空間がそこだ。
キッチンの明りはつけず、少し暗い中でコップを一つ取り出す。
ガラスのコップは微かに差し込む部屋の光を反射していた。
そこに水道水を勢いよく注ぎ込み、それを一気に飲み干した。
コップを流し台に下ろし、ゆっくりと息を吐き出す。
少しだが、目が冷めた。
さっきより、意識がはっきりしたと感じる。
気怠さはとれたかな?
と、自問しても答えは出ない。
ゆっくりとした足でキッチンから出れば、部屋を見渡した。
なるべく大阪に残して来た部屋と変らない様に配置した家具やオーディオ。
部屋の作り上、仕方無い所もあるが、大体は見慣れた風景に似せれていると思う。
と、不意に髪が風に吹かれた。
それは部屋の中から吹いてくる。
「あ」
……そうやった。
と、見てみれば、部屋の青いカーテンが揺れていた。
窓を閉め忘れていたらしい。
気付けば急に寒くなってきた。
授業初日から風邪なんて言うのは、いくらなんでもダメだろう。
と、窓を閉めに向う。
一度、カーテンを開け広げて、開いた方の窓に手を延ばす。
その瞬間だ。
「あ」
美紗紀の視界が、そこで止まった。
天月学生寮は少し町外れの高台にある。
その斜面に面した女子寮からは、この第二東京区という街を見下ろす事が出来た。
全て、という訳では無いが、眺めるには十分過ぎるだろう。
そこで美紗紀は初めて見た。
第二東京区の夜を、初めて見たのだ。
街は、視力の落ちた目にはやけに明るく映る。
夜に滲む様に光が重なり、ビルの形に伸びたり、電車や車の線をなぞったり。
あまりにも煌めいていた。
未開拓地区との境界線が額縁の様に、更に街を明るく見せる。
東京という街は更にその向こうで光っているのだろう。
大阪の田舎町では望めない風景がそこにはあった。
明日からは学園での生活が始まり、美紗紀は街に出て行くだろう。
何もわからない街を見て、知って、歩いてゆくだろう。
美紗紀自身もそう、心の中で呟いた。
やりたい事が出来るのかという不安や、真逆の期待が拮抗したり、どうしようも無い寂しさが溢れてきたり。
それで美紗紀は、カーテンを掴んだ指を強く握った。
何かをごまかす様に。
何かを抑える様に。
それからゆっくりと窓を閉める。
忘れた訳では無い。
いや、しっかりと見た。
東京だという意識を確かなモノにして、しかし振り返らない。
やっと靴を履いたのだと、そう自覚し、カーテンを閉める。
美紗紀は微笑んでいた。
弱く、しかし確実に。
☆
深夜。
静まる事の無い街を見下ろす影がある。
白い髪に黒いドレスが夜の空に揺れる。
少女は街の上に座っていた。
月に凭れる様に、風に腰掛ける様に。
少女はただ眺めていた。
第二東京区と言う街を。
街に溢れる音を、見つめていた。
ゆっくりと流れる時間の中にあるメロディを拾っては口ずさみ、まるで積み木遊びの様に重ねてゆく。
そうして少女は踊り始める。
タクトを振り、夜の交響楽団を指揮し、そして踊るのだ。
そうして、夜は更けてゆく。
そうして、朝を待つのだ。
読んで下さっている読者様。
長々と更新出来ず、本当にすみませんでした。
不定期ながら、出来るだけ早く更新出来る様に頑張りたいと思います。
お詫びと言うでは無いんですが、次話予告をしときます!
『OP☆始まりの季節』
形的にプロローグとなります。
出来るだけ早く更新したいと思います!
ありがとうございました。
これからも宜しくお願いします!