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06☆恍惚の人



 白亜の壁に同じ色をした床。

 天月学園寮は白を基調として造られている。

 自動ドアの玄関は既に開け放たれていて、たまたまここに辿り着いた風がピンクの花びらを残していく。

 開け放たれているのは、昼になれば新入生が入学式に出席するために、ここから出ていくからだろう。

 期待と不安を抱えた足音。

 そんな騒がしさが今にも聞こえてきそうで、静寂だけがこの白の建物を包み込んでいた。

 数分前。

 日向・美沙紀は玄関ロビーの一角、管理人室の窓口で自分が生活してゆく部屋の鍵を受け取った。

 管理人は少し皺の入った女性で毎日生徒の送り迎えをしているらしい。

 おかえり。と言われて少し驚いた。

 まさか初めて着いた場所でそんな風に言われるとは思いもしなかったからだ。

 出て行く者が無事帰って来た安堵。

 そんな優しさが伝わってくる。

 その半分を朝の爽やかな光が盗んでいく。

 ただいま。と小さく零した頬は赤く、管理人を見ようとしなかった。

 白い壁を行けば緑の中庭が見える。

 男女で違う棟になっているため、L字型をした寮の中庭は正方形に近い。

 その中には自然か溢れている。

 緑や黄色、春の色が満ちていて、あちこちには白いベンチが備え付けられてあった。

 ちょっとしたテラスもある。

 あの真中でモーニングコーヒーを飲めたら、その日はもう十分だろう。

 そんな風な事を考えながら階段を上って今、美沙紀は三階にいる。

 エレベーターは敢えて使わなかった。

「えーと、うちの部屋は……」

 鍵につけられた番号を見ると312とある。

 ソレを無くさない様に握り締め、近くの部屋の番号を見てみた。

 そこは309部屋。

 それを近いなと思い、廊下を見渡した。

 部屋は廊下の左右に広がっている。

 中庭側が奇数になるらしい。

 だから玄関側を見ながら歩く。

 階段から数歩。

 その部屋はすぐに見つかった。

 そこへと進んでゆく足が、少し駆け足気味だった事に美沙紀は気付いていないのか、視線はずっとドアを見ている。

 と、そこで気付いたモノがある。

 自分の部屋となるドアのすぐ横。

 インターフォンの少し上にある白い石。

 ソレは部屋の表札だ。

 そこにはしっかりと日向の文字が刻まれていた。

「……」

 ホッとすると言うよりは少し怖かったと思う。

 この部屋に入ればもう自分だけなのだ。

 誰も、義母も義父もいない。

 美沙紀一人の生活なのだ。

 そんな圧迫感がそこにはあった。

 日向の表札。

 ソレを見つめて、しかし、美沙紀は鍵を差し込んだ。

 期待と不安。

 その関係をどこかで理解しているのだろうか。

 紙一重で繋がっている一つの経験。

 光と闇の関係に似たようなモノ。

 そんな感覚が差し込んだ鍵を伝わってくる。

 どんなものだろうか。

 それは自分にとってどんなものだろうか。

 不安が溢れて、期待が滴る。

 それを確かな意識で受け止めて美沙紀は差し込んだ鍵を捻った。

 ガチャッという音が聞こえたら、それは始まったばかりだというサインだ。

 扉が開けば美沙紀の生活が始まる。

 この私立天月学園での生活が始まるというサインだ。



 部屋の中身は大阪に置いてきた自分の部屋とさほど変わらない。

 感覚的には、前までの部屋にキッチンとトイレが追加されただけと言った感じだ。

 風呂は一階に大浴場があり、寮生はそこを利用する事になる。

 大浴場は17時から22時までの間ならいつでも使用できる。

 もし間に合わなかったとしても、すぐ隣りにあるシャワールームならいつでも使える。

 ここに門限が無いのは生徒の意思尊重と自己責任を促す為らしい。

 その為、制服もなければ校則もさほど無い。

 これは他校生からすれば羨ましい事だろう。

 実際、美沙紀自身も嬉しく思っている。

 大学の様な感覚だろうか。

 今の時間は正午より30分程前。

 時計の針が重なる頃になれば、新入生達は学園へと出て行く。

 それは美沙紀も同じだ。

 しかし美沙紀の場合、入学式に出席するという訳では無い。

 なにやら最後の手続きというヤツらしい。

 学園正面玄関受付に向かう事になる。

 それまでに部屋の整理をしようと、届いていた段ボール箱を開け初めてから約3時間程。

 そう大変な事は無かった。

 と言うのも、家具などは始めからここにあるし、部屋の隅にある部屋用のベースアンプやオーディオ機器などは引っ越し業者が運び込んでくれていた。

 美沙紀がした事と言えば、数少ない衣服をクローゼットの中に吊った事と、CDなどの整理、食器などを積んだくらいだろう。

 予定より早く終わってしまった。

「んー。まだちょっとあんなぁ」

 時計を一度見てから、壁に立て掛けたハードケースを見比べてみる。

 その中には当然、クリーム色のリッケンバッカーが収納されている。

 そこで少し悩んだ。

 窓から差し込む陽の光は既に真昼のモノだ。

 開けてあるため水色のカーテンが風に靡いている。

 そこに吹くのは新しい風だ。

 それで美沙紀は頷いた。

「ちょい早いけど、行こか」

 よし。と、立ち上がり、もう一度部屋を見渡す。

 玄関のすぐ側にトイレ、キッチンと並び、リビングが一つ。

 窓から見下ろす場所には、さっきの桃色の桜並木が見えた。

 ソレはここに吹く新しい風に揺れている。

 うん。

 と、部屋に零れた言葉がゆかに落ちる前に、美沙紀は玄関へと足を向けた。



 手続きは簡単なモノだった。

 生徒手帳に名前を記入して印鑑を押すだけ。

 それだけだった。

 その後に、その生徒手帳と小さな校章のブローチを貰って終わり。

 たったこれだけの事だった。

 と、正面玄関前がやけに騒がしくなってきた気がする。

 が、それの正体は直ぐにわかった。

「あぁ、入学式やな」

 それは新しくここに来た学生達の声と足音。

 新入生は校舎には入らずにこのまま大講堂に向かい、そこで入学式を済ませる。

 その後は皆、それぞれの場所に帰るのだ。

 それは美沙紀も同じなのだが、正面玄関から覗いて見れば、向い風の様に駅側から流れて来る生徒達に少し威圧された。

「か、帰りにくい」

 すぐに頭を引っ込める。

 と、受付のガラスの向こうから声がした。

 美沙紀はそちらに振り返り、表情だけで聞き返す。

「いやね。何だったら校舎内見学していくかい?って」

 受付のおじさんは咳払い一つ。

「遠い所から来たんだからオープンキャンパスとか出来てないでしょう?」

「あ、はい」

 慌てて返したつもりだったが、言葉はそれよりも落ち着いていた。

「今日は校舎に生徒居ないから自由に回りなさいね」



 それで約一時間程、校舎の中を見て回った。

 この私立高校は特に音楽についての感心が深く、小さなスタジオルームが各階に幾つか設けられている。

 どうやら学園長の意思でこうなったらしく、今、美沙紀が居る展示室のショーケースの中には若かりし頃の学園長の写真が飾ってあった。

 長く伸ばした髪と口元に蓄えた髭。

 肩から下げるのは真っ赤なレスポールというギターだ。

 それは写真の直ぐ横に、更にハードケースに納められて並んでいる。

 腕や指で削れた赤い塗装は摩擦で禿げ落ち、そこに古い木目が見える。

 削れたボディが脳を突き刺して来る感覚。

 その瞬間。

 一目で美沙紀の心は奪われた様なモノだった。

 欠けた木に褪せたヘッド。

 こびりついたままの汗の垢。

 そして血や傷の数々。

 その全てが生きた事を伝えて来る。

 この六弦も始めは普通のギターと変わらなかっただろう。

 それがここまで成長したのは単に、共にした人間が素晴らしかったからだ。

 天月・乙時(あまつき・いちとき)

 今こそその影は薄れたモノの、彼はその時代を駆け抜けた一人の表現者だ。

 今、音楽活動などはしていないが、毎年二度、夏と年末年始にフェスティバルを主催している。

 天月学園フェス。

 大型のイベントをするにはこの土地は非常に勝手がよく、今や第二東京区の名物にまでなっている。

 それは美沙紀の一つの目標でもあった。

 並べられた写真を見ていく。

 古くなればなるほど色は薄れて、重みが増す。

 そのどれもが今にも動きだしそうで心臓が高鳴った。

 指先にくる震えはなんだろうか。

 こうしてこの場に立ってみると、自分がこの場所に入れたのは奇跡ではないのだろうか。

 そんな事さへ思う。

 ショーケースのガラスに触れて、食い入る様に見つめて行けば、そこで美沙紀の足は止まった。

 それはたった一枚だけ。

 他のどの写真よりも強く、美沙紀の視覚を刺激した。

 額に入れられた一枚の写真。

 重い筈の真紅のレスポールを片手だけで逆手に持ち、汗と血と、何とも言えない流動を裸の半身に浮せて高く、突き上げている一枚。

 それはステージを下から撮ったのだろう、その後ろには無数の光と、声が見えた。

 訳も無く後ずさる。

 これが天月・乙時という男なのだ。

 と。

「ふむ。そんなに私に興味が御有りかな? お嬢さん」

「ひぃッ!」

 背後からの突然な声に、心臓が飛び上がる。

 慌てて振り返ってみると、そこに返ってきたのは、初老の男の笑い声だった。

「ふっフォッフォッ……」

 真っ白の固い髪を後ろに流した男。

 目元には小さな眼鏡を掛け、これまた真っ白な髭を蓄えている。

 初老の男は一度、口の中を噛むようにして笑うのを止めると、美沙紀の目を見た。

 うんうん。と、にこやかに頷き。

「ようこそ天月学園へ」

 一息、返す間も無く。

「私がこの学園の園長をしておる、天月・乙時じゃよ」

 乙時はその場で紳士的に、頭を下げた。





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