02☆旅は道連れ、かもしれない
☆
潮の匂いと海の波音。
それらは今、太陽が照り付ける元で、美沙紀のすぐ眼前にあった。
美沙紀は今、砂浜へと繋がるコンクリートの階段に座っている。
太陽の光を反射した波が眩しく、痛いほど目に飛び込んで来る。
が、それを細目にして防ぎながら、美沙紀は空を見上げた。
そこには白く光を放つ太陽があった。
太陽光は熱を孕みつつも、風が吹けば爽やかと言える。
しかし朝よりは眩しく、陽射は容赦ない。
海岸沿いの開けた道路じゃあ影は少なく、眩しい。
そのせいか、どうも落ち着かず、イライラとする。
しかし、今の美沙紀はそのイライラが何処から来たかを知っている。
部屋を出で約一時間。
先を急ぎたい気持ちが階段の最上段。
道路側へと向けられた。
そこには美沙紀が移動手段として使う黄色の原動機付自転車、カブがある。
荷台にはベースのハードケースが括られていて少し滑稽だ。
そんなカブを見つめてみるが、動きは無い。
というより動かない。
美沙紀はコンクリートに手をつき、立ち上がる。
冷たい感触が掌に残り、気持ち悪い気がしたが、無視。
階段を上りカブへと歩みよる。
見ればキーは挿したままだし、ガソリンも半分程残っている。
十分走れる状況の筈だ。
だから美沙紀はキーを捻った。
しかし反応は無い。
もう一度、二度。
三度捻ってみる。
しかしやはり反応は無かった。
30分程前に丁度200メートル向こうでエンジンが急に変な音を上げ、止ってしまった。
それから変わりは無く、ずっとこの調子だ。
車も少なく、通り過ぎるだけだ。
美沙紀は黄色いカブを見下ろした。
光を反射して揺れている。
昨日丁寧に磨いてやったからだろうか。
カブが自慢げに黄色を見せつけてきた。
美沙紀は今、身動きが取れない状態で、しかしカブは何の気兼ねも無くのんびりとしている。
そんな錯覚を得てか、美沙紀の怒りボルテージは急上昇した。
「なんでや!なんで動かん!?」
沈黙。
爆発。
「ぎゃーすッ!」
美沙紀の奇声と共に放たれたストンプがヒットする音が響いた。
☆
「あうぁ……」
美沙紀は歩道の段差に座り込む。
全身から力は抜け、当然の様に溜め息が零れた。
薄いレンズ越に眼前を見てみれば、横倒しになったカブがある。
美沙紀に蹴られてから、そのままだ。
「んーー」
目を細めて睨む。
一分に近い数秒。
極めて長い唸りの後、美沙紀は立ち上がり、仕方なさそうにカブを立て直した。
「東京までまだまだあんのに……」
さっきまでの雰囲気を殺し、小さく零す。
それは誰に向けられた言葉なのか。
このカブか?
自分の運か?
そんな事を考えていると、無性に虚しくなってくる。
美沙紀は黄色のカブの横で立ち尽くしてしまった。
自分が自分の目的の為に頑張ろうと思い、苦労してやっと家を出て筈なのに、姿の見えない様なヤツに出鼻を挫かれた。
家を出る時には考えてもいなかった事だ。
美沙紀は未だ、大阪府内に居る。
ずっと見える大阪湾がそれを示している。
東京はまだまだ遠く、太陽の光も上り始めた。
早く行きたい。
筈なのに、動けない。
その悔しさは自分の足にも伝わり、一歩さへ動かせない。
何故だろうか?
考え、そして俯いてしまう。
横を通り去る車は少なく、美沙紀を無視して走り抜けて行く。
音だけが美沙紀の耳に残り、重なりあって重くなる。
溜め息が出た。
真剣な溜め息だ。
同時に肩が揺れる。
「なんでや……なに半分諦めてんやろ……」
声は車の走る音に掻き消される。
それは幸いかもしれない。
と、美沙紀は思う。
まだ始まったばかりなんだから。と。
違うだろう? と。
言い聞かせる様に両手で自分の頬を叩いた。
仕切り直しだ。
こんな所で涙は零さない。
そしてカブを見る。
義父から譲って貰ったカブ。
鍵は挿したままだ。
「押してこか」
取り敢えず近くのコンビニとかまでならそう遠くはないと思う。
話はそれからだろう。
と、スタンドを外し、ハンドルを握る。
思ったより重い。
が、気にしない。
掌に力を入れ、しっかりと握ったら、前へと肘を伸ばして推す。
と、その時だ。
「待ちたまえ、そこのおにゃのこ」
「おにゃ……」
不意に背中側から声を掛けられた。
☆
カブを推す姿勢のまま振り返る。
「うほッめがねっ娘!」
聞こえないふり。
さっきは落ち込んでいて気付かなかった様だが、そこには一台の軽トラックが止まっていた。
その軽トラックの運転席のドアが開く。
レンズ下の目を細めて、見る。
ゆっくりとした動きで出て来たのは、一人の男だった。
「知らないおっさん……」
聞こえないくらい小さな声。
あれは美沙紀の知り合いでは無い。
短かく刈った髪は空に跳ね、目はサングラスで隠れている。
鼻と顎と揉み上げを繋いだ髭は短く口元にあり、黒いスーツを着た紳士的な姿。
それが美沙紀の方へと歩いてくる。
対して美沙紀はというと、不信感を隠し切れていない。
「そんな顔は止してくれないか、せっかくカワゆいのにぃ」
男は大袈裟に手を振り、更に歩幅を広げる。
この時、美沙紀は思った。
この男は紳士的な服装をしていて、視覚的印象はダンディーだ。
が、
「おにいちゃん傷ついちゃう……」
これだ!
何よりも優先しなければいけないのは、この聴覚的印象だ!
おにゃのこ……。
うほっめがねっこ……。
おにいちゃん……。
間違ない。
(変態さんッ!!)
美沙紀は焦った。
始めて遭遇する変質者と言うヤツに怯えているのだ。
自分でも自覚する程、地味な美沙紀はこう言ったモノに遭遇した事がない。
だから逃げる。
カブのハンドルから手を離し、遠い所まで。
そこで様子を見よう。
といっても海岸沿いのこの道に隠れる所は無い。
しかしとにかく走った。
焦っているせいか、息も上がる。
後ろからは追って来る気配は無い。
そこで足を止めた。
「はぁ、はぁ……」
振り替えれば男は追って来ていない。
約50メートル。
その向こうを見ると、男は居た。
しゃがんだ姿勢で、美沙紀の置いて来たカブを何やら頷きながら見ている。
キーを回したり、ハンドルを捻ったり。
アクセルを回したり。
しかし知っている通り、カブは動かない。
と、ふと荷台に巻き付けていたハードケースを見る。
「あ」
そこで美沙紀は思い出した。
あの中にはベースが入っている。
今一番の宝物であるベースが。
しかし男はそんな事は知らないという様にカブを推し始めた。
それも自分の軽トラックの方にだ。
まずい。
意思がそう美沙紀に告げている。
その間にも男は軽トラックに近付き、遂には屋根の無い荷台に乗せてしまった。
荷台には他にも幾つも段ボールが置かれている。
持って行かれる。
それだけは阻止しなければ。
「……」
美沙紀はまた走った。
今度は男の方に、だ。
しかし足は重い。
なかなか進まない気がしてならないが、現実は一瞬。
あっという間に辿り着いてしまう。
軽トラックの前で、膝に手を付き息を整える。
それを男は見下ろしていた。
威圧感。
しかし美沙紀は意思だけで言葉を繋げた。
「返して……ベースだけは返してッ」
見上げる男の目は見えない。
しかし口元にはうっすらと笑みがあった。
「早く乗りたまえ」
「え?」
混乱しているせいか、意味が良く分からなかった。
「君のカブは動かないようなのでね。どこまで行くのかな?」
一瞬、間を取ってから、何故か敬語で話してしまう。
「東京です。第二東京区……」
胸が苦しい。
走ったせいか、それともこの男の印象の違いか。
男は運転席のドアを開けた。
「私も同じだ。東京まで乗せてあげよう」
全く結び付かない。
この男は何が目的なのか。
だから美沙紀は聞き返してしまう。
「なんで……?」
唐突な事に方言が出た。
「おにゃのこが困ってるのなら助けないとね。男としては」
男は口元と眉だけで満面の笑みを見せつけた。
どうやら本当に親切らしく、美沙紀は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「あ、ありがとうございます」
「うん。後、是非とも関西弁で話して欲しいね」
が、安心出来ないなと言う気持ちは消えなかった。