01☆景色揺れる朝の中へ
☆
「あの……今までありがとうございました」
朝の陽射の中、緊張して強張った少女の声が響いた。
ここは大阪のとある小さな町。
その小さな町の小さな路地に、ゆっくりと風が吹いた先、三件並んだ一番奥の家の前にその少女はいた。
モノクロのボーダーシャツに黒いジャケットを羽織り、深い紺のジーンズを履いた少女は日向・美沙紀だ。
少し長めのショートカットの下、黒縁眼鏡で前を見る。
そこには開け放たれて日向家の玄関があり、その向こうでは二人の夫婦がこちらを見ている。
幼い頃に両親を事故で亡くした美沙紀にとって、義理の親の叔父夫婦だ。
叔父夫婦は子宝に恵まれ無い体で、それはひどく悩んでいたらしい。
美沙紀が一人で世の中に放り出された時、返事一つで快く引き取ってくれた。
そんな二人に美沙紀は感謝しているし、本当の親だとも思っている。
しかし、美沙紀は今日この家を出る事にした。
「そんな気使わんでええよ。ほんまに行くん?」
玄関を潜り、向って右側の女性が美沙紀に声を投げる。
身長は高くなく、しかしどこか男勝りなイメージがある義母の言葉は、美沙紀にしっかりと届いた。
「うん。いつまでも義母さんらに迷惑かけれんから」
「あほう。一度も迷惑や思た事ないわ」
美沙紀の返答にすぐさま反応し、低い声を上げたのは向って右側の義父だ。
お前が出て行く必要なんか無いんやで? と零す。
二人にとって、美沙紀は本当に可愛い、愛しい一人娘なのだ。
しかし、美沙紀は首を振る。
「これ以上ここに居ったら恩返し出来んくなるやん」
生まれてからこれまで、本当に感謝しているし、これからもずっと慕い続けるだろう。
と、また義父が声を上げようとする。
それを、お義父さん。と美沙紀が止める。
「言わんでもええよ。何処に行ってもウチは二人の娘や」
言いたい事を先に言われ、義父は頭を掻きながら視線を斜め上へと変えた。
娘に気付かれたのが恥ずかしいらしく、その表情はどこかやりきれないと言ったところか。
沈黙が続く。
別に嫌な気持ちになる沈黙では無く、言えば、今無くてはならない沈黙だ。
決して視線を合わせない二人を見て、義母が小さく笑う。
そうこうしていると、柔らかな風が吹いた。
春先の涼しく、花の香りを乗せた風だ。
それを合図にする様に女の声が沈黙を切る。
「まぁ美沙紀が自分で決めた事やから、好きにしたらええわ。お金かて全部自分で出したんやし」
義母が言う。
美沙紀は高校に入る前から自立を考えて、働いて作ったお金の殆どを使わずに貯えてきた。
その事を初めて話した時、義父は大声を出して頭ごなしに否定した。
家族を何だと思ってるんだ。と。
今でもその名残が少しあるらしい。
「義父さんは悲しいど」
義父のストレートな、そして子どもっぽい感情表現に、自然と笑みが零れる。
幸せとはこう言う瞬間の事を言うんだろうか。
美沙紀は手に持つ重いハードケースを握り締めた。
そこには一本のベースが入っている。
中古品を更に値切って買ったベース。
これが無ければ義父は今でも許してはくれなかっただろう。
美沙紀がこの家を出るもう一つの理由。
夢を持った事だ。
夢に関しては義父は何も言わず、ただ頷いてくれた。
それと美沙紀は義父にこう言ったんだ。
いつまでも子供ではいられない。と。
自分はそれが少し早かっただけだ。と。
ベースは美沙紀の意思に近い。
さっき見た幸せ。
そんな些細な事まで全て、このベースに流れ込んでゆく。
だから美沙紀は意思を言葉に乗せた。
「ウチな、正直不安や。向こう着いたら右も左もないもん」
一息呼吸を入れる。
美沙紀はこれから転校先の学生寮に入る事になる。
東京湾を埋め立てて作られた土地、第二東京区。
その場所は未だ未開拓な部分も多いが、中心に行けば若者達が集まり、本土と変わらない喧騒が聞こえる。
その第二区の中心、天月町の一角に建つ私立高校、『私立春日学園』が美沙紀の転校先だ。
そこに美沙紀の第一目標がある。
しかしそこは美沙紀にとって何も無い場所同然だ。
第二区に知り合いがいる訳でもなく、行った事も無い。
不安があって当然。
だから美沙紀は言葉を重ねた。
「でも大丈夫。ウチやからいける」
なに一つ根拠の無い言葉。
しかし、嘘の無い言葉。
玄関に立つ二人は口元を優しく緩めるしか出来ない。
そんな二人の顔を見て美沙紀も小さく、よし。と笑みを作る。
「じゃあ行くわ」
唐突に出てそれは別れの言葉だ。
向こうに着けば学生寮での生活が始まり、当分は顔を出す事は叶わない。
それでも美沙紀は行こうと思う。
ここに居て二人に甘えるよりも、しなければならない事があるんだ。と、美沙紀はいつか二人に言った。
その時、義母は微笑みをくれた。
義父は、困った様に、しかしそれでも笑みを作ってくれた。
そして今、一時の別れを告げた今もまた、二人は同じ様に優しさを作ってくれた。
「体には気をつけるんやで」
義母が歩み寄り、美沙紀の頭をわしゃわしゃと撫でる。
義父は何も言わない。
「あんたもええ加減諦めりや」
あぁ本当に嬉しい。
この二人から離れるなんて本当に勿体ない。
美沙紀は思う。
ウチが許すならいつまでもお世話になりたい。と。
義母さんの作る料理は美味しいし、義父さんの話は本当におもしろい。と。
でもやっぱりいつまでもこうしている訳にはいかないんだ。
義母の手をソッと離し、美沙紀は踵を返す。
そこには義父から譲り受けた黄色い原動機付自転車がある。
キーは既に挿してあった。
その荷台にハードケースをしっかりと括り付け、シートに跨がった。
キーを捻り、エンジンをかければガソリンの爆発する音が響く。
アクセルを回せばもう戻っては来れない。
美沙紀は下唇を薄く噛むと、目を閉じて感謝の言葉を文字にした。
さぁ行こうか。
自分で切り開かないと。
と、その時だ。
背中に義父の声がぶつかってきた。
エンジンの音に負けない様に上げた声は確かなモノだ。
「気ぃつけていくんやで!」
安心した。
肩を撫で下ろし、頭半分のヘルメットを被る。
そして勢い良く振り返った。
朝の陽射が眼を刺すが、今は関係ない。
美沙紀はその顔を二人に見せると、小さくため息をつく。
義父へのありがとうのかわり。
そして顔を上げ、別れを告げた。
簡単なモノだ。
ただ、行って来ます。と。
☆
朝。時間は7時半というところか。
透き通る空はまだ白く、太陽は上りきっていない。
しかし雲は一つ無く。
昼時には絵に描いた様な蒼さを見せてくれるだろう。
そんな朝の空を見上げてみれば、何処までも伸びる景色に何を思うだろうか。
美沙紀は今、海沿いの道を走っている。
黄色いカブは外見とは似合わない、大きなエンジン音を上げて、黒いアスファルトに線をひいてゆく。
美沙紀は今、何を思うだろうか。
きっとこの道のりが楽しくて仕方が無いのだと思う。
思わず鼻歌を歌ってしまう程だ。
こんな時、目に見える全てが微笑みを誘うのは何故だろうか。
春の色が着き出した花壇や、小さな音を上げる波。
雲の無い空。
美沙紀は思う。
こんな小さな一日を束ねた旅の手帳があれば、どんなに素敵だろう。と。
アクセルを更には捻り、制限速度を少し超えて走ってみる。
すると風は美沙紀を通り抜けて、しかしその香りを残して消えていく。
全ては今日の出来事。
全ては朝の出来事。
そしてこれから始まる数多くの出来事に微笑むんだ。
これから出会うほんのちょっとの非現実の隙間に……。