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人魚

作者:

 ――歌声が聞こえる。

 どこまでも深い海のように、きらきらと輝く浅瀬のように。寄せては返す波のように色を変えながら、耳を、何より心を惹きつける。

 デッキの上の見習い船乗りは、見つかれば厳しい叱責と、場合によっては手酷い罰を受けると知っていながら、モップを動かす手を止めた。そうして、不意に聞こえてきた女の歌声に酔い痴れる。

 そうしてまだ幼いこの見習いがしばらくの間そうしていても、怒るものは誰もいなかった。いつもうるさい教育係ですら、彼を咎めることはない。

 しかし、そのことをおかしいと思うことすら、見習いの船乗りには出来なくなっていた。

 この見習いだけではない。船に乗った全ての人が、女の歌声に酔い、我を失っていた。

 舵取りが舵を切る。自らの意思ではなく、歌に誘われて。

 向かう先に、小さな点が見えた。速度を上げながら船が近づくにつれ、その点は次第に大きくなり、やがて岩とそこに座る人の形となる。

 否――それは人ではなく、下半身が鱗に覆われた、美しい人魚だった。

 船はなおも速度を増し、まっすぐに人魚を目指す。舵取りも、他の全ての乗組員も、歌声に心を奪われ、誰一人気付かない。

 そうして、もはや取り返しが付かなくなってから、人魚は歌うことを止めた。

 瞬間、我に返った舵取りが見たのは、不敵に微笑んだ女性がこちらに向かって大きく口を開けたところだった。

 ――飲まれる!

 船より遙かに小さいその口に、舵取りは恐れをなした。そうしてきつく両のまぶたを閉じる。

 だから、舵取りは知らない。

 わずか1mにまで迫った船と岩の間に、黒い何かがふわりと下り立ったのを。

 刹那、その間で何かが煌く。

 船は何者にも動ぜずに前進を続けていたが、岩やその前に躍り出た黒いものにぶつかることはなかった。

 大きな船体が、きれいに2つに割けていたのだ。

 2つに分かれた船は勢いを失いながらも前進を続け、やがて止まった。すると、船体からいくつもの光球が立ち昇りはじめる。天女でさえ目を奪われそうな美しい光景。光球が100余りほど昇るくらいの時間が過ぎると、船体も光球に姿を変え、天へと消えていった。

「…何故、邪魔をするのです?」

 問うたのは、船乗り達の心を奪った、海のような声。

 黒いものが身を翻す。それは、全身を覆う黒いローブを纏った人であった。身長は高く、肩幅も広い、いかにも男性的な人。黒い髪と同じ高さで、刃渡りが身の丈ほどもある大きな鎌が日の光を反射して煌めく。

 ただ、そのモノが人ではないと示すことがひとつだけあった。

 そのモノは、空に浮いていたのだ。岩場に座る人魚と視線を合わせ、まるでそこに足場があるかのように。

「もう少しで、あの魂を全部平らげられたのに……」

 人魚はその美しさに似合わない台詞を吐き、美貌を歪ませて歯軋りする。黒いモノは大鎌を持っていた手を左右に軽く振った。すると、船を真っ二つに割いた大鎌が霧散する。人魚は驚くこともなく、黒いモノを睨み続けた。その凍てつく海のような視線にも動ずることなく、黒いモノは左手で後頭部を掻いた。

「何故、ねえ…?」

「私とてたまには、美味しい魂(ご飯)が食べたいというもの。お前ら執行人が運んでくる魂は不味くてたまりません…っ!」

 美しい顔、美しい声、美しい言葉遣い。天女と見紛うばかりの輝きを放つ人魚は、その美しさに似合わず奥歯をぎりり…と噛み締めた。

「仕方ないだろ?お前らに喰わせたら魂が消滅しちゃうんだから」

「そんなことは、私の知ったことではありません!あやつら人とて、命を糧にしておりましょう。私とて同じです!」

「同じじゃないって。魂を消滅させたら後処理が大変なんだよ。均衡も崩れるし、俺らも職務怠慢で責められる。お前はあいつに会わないからわかんねえんだ、あいつがどんだけうるさいか」

「では私には飢え死ねと申すのですか!」

「人聞きの悪いこと言うなよ。死なない程度には食事させてるだろ?」

 黒いモノは軽く肩をすくめる。人魚はぎりりと歯を食いしばり、更にきつく黒いモノを睨んだ。

 けれども黒いモノは一向に動じない。片眉を吊り上げて、ん?などと喉を鳴らしてみせる。

 人魚は更に眦を吊り上げる。その形相には先ほどまでの美しさは全く残っておらず、ただ鬼婆のごとき恐ろしさだけが残っていた。

 やがて人魚は、ぐわ、と音を立てて大きく口を開ける。それはもはや、口を開ける、などという大きさではなく、顔全体が口になったというほどに。

「おっと」

 そのまま岩を蹴り、黒いモノにめがけて飛んだ人魚を、黒いモノは軽く横にずれて避けた。その後方でばしゃん!と大きな水しぶきがあがり、水中を影が移動する。黒いモノはその影が自分の真下に来るのを、口元をゆがめながら見ていた。そうして、がばあっ!と大きな音を立てて人魚が飛び出してくるのを見計らい、同じタイミングで助走もなしに天高く飛び上がる。それはまるで、人魚と黒いモノを紐でつなげて真上から引っ張ったかのような、奇妙な光景だった。

 ばしゃん!と水しぶきがあがる。間もなく水面から顔を出した人魚を、黒いモノは口元をゆがめたまま見下ろした。人魚はその大きい口を惜しげもなく使い、悔しそうに歯軋りを繰り返す。それはもう、物の怪としか言いようのない姿であった。

「じゃあな、次の食事にまた来るから、もう悪さするなよ」

 返事を待たずに、黒いモノは踵を返す。そうして、こつこつと音が聞こえそうなくらい優雅に空中を歩き始めた。

 しかし実際に辺りを満たしていたのは不快な人魚の歯軋りの音で、それが消えたのは人の時間にして一月もたった頃だった。


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