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七式探偵七重家綱異譚 夜鳴き蕎麦

作者: パピコ

シクルさんの「七式探偵七重家綱」 ( http://ncode.syosetu.com/n7698o/ )を基にした二次創作です。小ネタ。謎解き要素とかはありません。時間軸はFile17以前のどこか。

 罷波町ひなみちょうは大きな町だ。平坦な地勢ゆえに大名が居城を構えるような勢力の中心地ではなかったものの、大きな街道の合流地点を持ち、古くから交易の要衝として知られた歴史のある町で、名のある企業のいくつかはこの町にルーツを持ち拠点を構えている。市制施行要件は満たしているが、今のところ市制への移行は議会で話題に上った事はない。

 罷波町議会は、他の土地にはない難問を抱えているが故に、まるでイギリス辺りの二大政党制を見ているが如く二派に分かれて丁々発止の遣り取りを繰り広げるのが常だった。

 罷波町の面積の実に二割を占める土地は、昔から土地の者に「失地」と呼び慣わされ、地図にも詳細が記載される事はなかった。詳細を記そうにも、十年ほど前までは人間は誰もそこに立ち入る事ができなかったのだ。

 亜人、と呼ばれる者達がいる。人と同等の高い知能を持ち二足歩行をしているが、例えば犬、鰐、蛙、鼠など、何某かの動物を人型にしたような体躯を持っていた。亜人はその見た目に応じた身体能力を持っており、例えば牛の亜人は人には持ち得ない怪力を誇り、鹿の亜人であれば恐るべき跳躍力をその脚に秘めている。

 世界的に見れば一般的な存在だが、日本には殆ど亜人は存在しない。日本で一番多くの亜人を抱えているのが、罷波町の元「失地」・亜人街だった。

 亜人は「ゼノラ教」と呼称される独自の宗教を持っている。人間の有史以前よりゼノラの唯一神が亜人達の間で信仰されていた。特定時間の拝礼、食事や嗜好品の制限など、人の宗教でいえばユダヤ教やイスラム教に似た教義を持つ。神の教えに従い生活する事で亜人は独自の文化を(世界各地で、その土地々々に合わせて)築いたが、日本では古くから亜人と人は分かれて暮らし、互いの領域を侵す事は滅多になかった。亜人の生活は亜人の中だけで完結していた。

 状況が変わったのは江戸幕府成立後だった。分かれて暮らしているとはいえ人と亜人のいざこざは小さいながら絶えない。ゼノラ教は亜人の間で信仰されているが、人間が入信する事が妨げられているわけではない。帝より全権を移譲された将軍が日の本を統べる、という建前には合わぬ教義も、江戸幕府にとり見過ごせぬものだった。小さな火種から屋台骨を燃やすほどの火が起こらぬとは誰も言い切れない。江戸にとって、亜人は己が体を食い潰しかねない獅子身中の虫といえた。

 五人組への加入と年貢の上納、ゼノラ教を廃し仏教徒となる事。突き付けられた要求は亜人には受け入れ難いものだった。数に勝る幕府側の高圧的な態度に幾度か持たれた交渉も決裂、江戸近郊の亜人村が武力制圧されたのを嚆矢(こうし)として、日本全土で亜人が蜂起するも、数に勝る幕軍に徐々に押され、最後は概ね和議と称して呼び出された亜人の長が酒に酔わされた隙に暗殺され、頭を失った亜人達は敗走、弾圧された。

 罷波には元から他より多くの亜人が住んでおり、「罷波の大戦おおいくさ」と呼ばれる最大の激戦の末に亜人が敗れ、残った亜人だけが失地に押し込められ、細々と暮らす事となった。

 罷波の他にも全国各地に数百人規模で亜人の集落は点々と残っているものの、隔離され集落単位で生活を完結させている亜人は既に忘れ去られた存在だった。亜人を巡る状況が再度変わったのは十年ほど前。十五年ほど前から突如として亜人の人権を訴える運動が巻き起こり、「亜人人間共生推進委員会」なる団体が発足する。数年の運動を経て社会現象となって、国会で亜人法が可決制定される。以来、亜人と人間とは(建前上は)同等に扱われる事となり、亜人の社会参加を促す為、補助金支給等の様々な保護施策も打ち出された。様々な啓蒙活動も国の援助を受けた亜人人間共生推進委員会(以下共生会)が中心となって急速に進み、亜人と人間の間の垣根は依然高いものの交流は徐々に進んできている。


* * *


 七重探偵事務所の助手・和登(わと)由乃(ゆの)は、罷波町亜人街大通りの路地を足早に進んでいた。

 既に夜はとっぷりと暮れており、今日は月もない。あまり整備の進んでいない亜人街の夜道を照らすものは、長い間隔を置いて並んだ街灯のぼやりとした光だけだった。

 以前依頼を受けて知己を得たグラットンの紹介で、ある亜人からちょっとした人探しの依頼が回ってきた。面倒見のいいグラットンは、顔役よろしく亜人達に様々な相談を持ちかけられるようで、グラットンや共生会で対応しきれない相談のいくつかは七重探偵事務所に依頼として回ってきた。

 初冬の道をからっ風が吹き抜ける。風を遮る高い山がなく、近郊の森や林も戦後の宅地開発で急激に減り、雪こそあまり降らないものの鋭い風の冷たさが骨に滲みる冬が来ていた。

 雲は多いが、合間から星が澄んだ青い光をちらちらと落としている。吐く息の白ささえなければのんびり眺めたい美しさだが、夜の亜人街の治安はあまり良くはないし、早く帰らなければ体を冷やして風邪でも引いてしまいそうだった。だから由乃は家路を急いでいた。のだが。

「ねえー、由乃くぅーん」

 同道者が、後ろから甘ったるい声で呼びかける。こんな声色で呼ばれる時の用事は大体決まっている。嫌な予感しかしないながらも由乃は足を止めて振り向いた。

「お腹空いちゃったー」

「ああ、はいはい、事務所に戻ったらカロリーメイトあるしご飯も作るから、それまで耐えて」

「それはちょっと……耐えられそうにないわ」

 同道者の葛葉くずはは、整った顔をやや悲しげに歪めて既に立ち止まっていた。いつもはミステリアスな雰囲気を醸し出す左目を覆う長い前髪も、こう力なく恨めしげな表情をされては、この世に強い未練を残した浮遊霊か何かのような風情を演出するだけだった。

「そんな顔したって何もありません。ボクのカロリーメイトも葛葉さんが全部食べちゃったでしょ」

「それは一大事ね……」

 答えた葛葉の表情は、話の内容にそぐわず真剣そのものだ。葛葉は、すらりとした体つきなのに驚くほど大食漢だった。ベージュ色をしたウールのロングコートの裾から踝の辺りまで伸びるモヘアのロングスカートが揺れている。恐らく空腹で足がふらついているのだろう。

 しかし、ないものはない、無い袖は振れない。事務所を出て一時間ほどで(由乃自身は一本も食べる事なく!)携行していたカロリーメイトは葛葉に食べ尽くされたし、付近の店舗と思しき建物は既に灯を落とし、食事を出来るような店もなさそうだった。交流が進んでいるとはいえ亜人の経済圏は人間のそれとは未だに別の部分が多く、コンビニエンスストアなども亜人街まではまだ進出してきていない。

 どうしようもないが、事務所に帰り着くまでにはまだまだかかるし、これ以上葛葉を歩かせるのも如何にも気の毒に思われた。どうしようか考えてはみるものの妙案など浮かばず、由乃は一つ溜息をついた。

 が、しかし。俯き加減だった葛葉の頭が突然まっすぐ前を向き、素早く左右に振られる。見れば、目には爛々とした光が戻っている。何事かと見守る由乃には一瞥もくれず、何に気づいたのか早足に葛葉は歩き出した。

「ちょ、ちょっ、葛葉さん、どこ行くの、そっち家じゃないよ!」

 慌てて追いかけた由乃が袖を引いても、全く意に介せず葛葉は歩き続ける。何らかの確信に基づいているかのように、その歩みはたゆみなかった。

 細い横道に入りまっすぐ進んでT字路を左へ。表通りよりも更に暗い路地の行く手に橙色の灯りが見えた。

 葛葉がまっすぐ向かっていった先に灯っていた黄色い光は、屋台の灯りだった。「そば」の看板灯籠が軒先に吊るされている。屋台の中から、中年の男が怪訝そうに葛葉を見やっていた。

 違和感があった。ここは亜人街、人間が全く住んでいないわけではないが、亜人街に好んで住みたがる人間は珍しい。亜人たちは、この狭い街で全く閉じた状態で今まで日々の生活を成り立たせてきた。交流が進んでいるとはいえ、経済活動の面での交流はまだ然程進んでいない。十年前まで日本経済とは一切関係を絶たれていたこの街の五千人弱の亜人達は経済的にもそう裕福ではなく、マーケットとしてはあまり旨味がなかった。亜人街は夜は治安が悪くなり人通りが極度に減るし、罷波の繁華街の方が人通りも多い、人間が引く屋台がわざわざ出張ってくる先としては不適当だった。

 葛葉は屋台の前で立ち止まり、カウンター席に着くでもなく屋台の主をじっと見つめた。

「……なんだ、人間に食わす蕎麦はねえぞ」

 ぶっきら棒に告げた男は年の頃は三十後半といったところ、エラの張った四角い頭で黒い髪は短く刈りこんである。この寒いのに白衣の上に上着はない。声色は冷たく、明らかに警戒している様子が見て取れた。

「お蕎麦はいらないです」

「じゃあ何の用だよ」

 やや苛立たしげに男に問われて葛葉は、目線を下に向けて男の腰の辺りをじっと見つめた。

「ポケットに……入ってますよね? カロリーメイト……」

「……は?」

 言われて男は腰元に手をやり、腰ポケットの辺りをぱっと押さえた。

「チーズ味、ください」

「何で味まで知ってんだよ!」

 葛葉のカロリーメイトに関する嗅覚の良さは謎だが、それは今は由乃にとって問題ではなかった。

 慌てて追いついて必死に肩を引く。

「ちょ、葛葉さん! 見ず知らずの人に何いきなり頼んでるの! 駄目だよそんなの!」

「だって、カロリーメイト……」

「事務所にあるから! 帰ってから!」

「チーズ味…………」

「ああーもうっ! 葛葉さんっ!」

 後ろから由乃に羽交い締めに抑えこまれても、葛葉は意に介した様子もなく、男が手で押さえ隠したポケットの中を覗き込むように体を左右に振った。


* * *


 ほらよ、とぶっきら棒な声と共に丼が、カウンターに腰掛けた由乃と葛葉の前に置かれた。大根おろしとなめこ、葱が乗っただけの簡素なかけ蕎麦は、夜の冷え込みも手伝っていかにも美味しそうに湯気を上げていた。

「カロリーメイトじゃないのは残念だけど、我慢するわ。いただきます」

 一言多いながらも素直に葛葉は手を合わせて割り箸を割り、蕎麦をすすり始める。

 一つ溜息をついてから由乃も蕎麦を食べ始める。出汁は関東風、冷え切った体には有り難い熱々の蕎麦は喉越しも香りもいい。なめこのぬめりとおろしのさっぱりとした風味が食欲を増進させてくれる。

「あの、すごく美味しいです、おそば」

「そりゃどうも」

 美味しさに頬が綻んで思わず由乃が告げると、店主は大して嬉しくもなさそうに返事をした。

 葛葉が腹を空かせていて、しかもカロリーメイトを嗅ぎ当ててしまったのではこれ以上先に進めない。已む無く由乃が蕎麦を注文したい旨を粘り強く申し出ると、最初は難色を示していた店主も(カロリーメイトを奪われたくなかったのかは不明だが)やがて折れた。

 亜人専門で、普段は人間に蕎麦を出す事はないのだという。そもそもこんな亜人街のど真ん中を真夜中に通る人間はそうそういない。

 葛葉は無言で蕎麦をすすり続けている。飄々とした葛葉と難しい顔をした店主、挟まれてしまうと気まずい心地を抱えざるを得ない。居づらい雰囲気の中ながらも蕎麦は美味しかったし、空腹が満たされれば葛葉も暫くは大人しく歩いてくれるだろう。

 由乃が半分ほど食べ進んだ頃には葛葉は、汁を飲み干して丼を空にしていた。もう少し食べるスピードを上げて早く帰ろう、そう思ったその時。

「伏せてっ!」

 葛葉の声がして、由乃の頭が上から葛葉の掌で抑え付けられた。逆らわずに箸を持ったまましゃがみ込むと、短い間隔で連続して銃弾が発射される音が響いて、カウンターの上に置かれた丼がぱりんと割れた。

 葛葉に手を引かれてしゃがんだまま、屋根を支える柱が砕かれて瓦礫と化した屋台の陰に移動し身を隠す。そっと伺うと、三~四人程の黒装束の男が長銃を脇に抱えて歩み寄ってくるのが見えた。

「な……何だあの人たち、何でいきなり」

「分からないけど、逃げないとやばいわね。あんな銃相手じゃあ勝負にならないわよ」

「逃げるったって、今走ったら後ろから撃たれるだけだろう」

 由乃と葛葉同様に屋台の陰に移動してきていた男の懸念は尤もだったが、葛葉は男にちらと視線を流すと軽く笑ってみせた。

「心配ご無用、合図したら由乃くんと一緒に走ってちょうだい。由乃くんもいい?」

「あっ、はい」

 由乃が頷いたのを確認して葛葉は、腰を屈めた体勢から体を起こしつつコートのポケットに右手を突っ込んだ。じゃら、と音がしたかと思った刹那、行って、と葛葉の声が鋭く飛んだ。

 男を促して由乃が駆け出したのと、葛葉が右手をポケットから引き抜きつつ屋台の陰から躍り出たのは同時。次の刹那葛葉の右手が素早く動いて、瞬きの間に向かってくる黒装束たちが額を抑えて蹲り、ちゃりんと音を立てて硬貨が何枚か黒装束たちの足元の石畳に転がった。

 見届けると葛葉も踵を返して駆け出す。少し進んだところで脇道の陰から由乃が手招きをするのが見え、黒装束が追いついていないのをちらと振り向いて確認すると葛葉は由乃の待つ脇道へと駆け込んだ。屋台の男と由乃に追い付くと、男はさっさと歩き出した。

「こっちだ、どうせあんたらここらの道は分からんだろ」

 男はこの事態にも大して動揺していない様子だった。街灯の光の届かない暗い路地裏を躊躇う事もなく大股で進んでいく。

「随分落ち着いてるのね」

「よくある事だ、一々驚いてられん」

「よくある……って、何でですか? 一体誰に狙われてるんですか?」

 葛葉の質問に答えた男は、間髪入れず上がった由乃の疑問を耳にすると、足は止めないままちらと後ろを振り返って眉根を寄せて苦い顔をして、すぐに前に向き直った。

「あいつらはあれだよ、リジェクション……とかいう。そういうの色々あるだろ、どれでも大体似た様なもんだしどれだか知らないけどな。俺が目障りなんだろ」

「目障りって……どうして?」

「どうしてって、そら俺が、人間と亜人の共生とかって奴の立役者の一人だからだろ」

 事も無げに答えるが男は振り向かないでそのまま歩き続けた。

「それで、どこに向かってるの?」

「共生会の自警団の事務所だよ。あそこなら夜でも誰か詰めてる」

「こんな事がよくあるんじゃ、その度屋台が潰れて大変じゃないの」

「こんなひどいのは初めてだよ、全く……あれじゃもう使い物にならんな」

 振り向かずに肩を竦めて溜息を吐いた男の背中を、由乃と葛葉は軽く目を細めて妙な顔で眺めた。

 男の歩く速度は速く、淀みなく路地を縫って進んでいく。小走りに駆けないと由乃は男の歩速に着いていけない。

 家綱と由乃はグラットンと知りあってから何度か共生会の事務所にも出入りをしているが、この男の姿を見た事はなかった。今は共生会の活動はしていないが、以前亜人の権利獲得の為に働いていたのが元で命を狙われているという事なのだろうか。亜人との関わりが多い割には家綱も由乃も興味が薄かったから、その辺りの事情はまるで見当が付かなかった。

 暫く細い道を進んでから広い通りを横切り、また横道に入る。無言で進んでいた男がいきなり立ち止まり振り向いた。

「走れ!」

 鋭く叫ぶと男は前に向き直って駆け出した。数瞬遅れて由乃と葛葉も走り出す。後ろで、何かが石畳に弾かれる金属音が上がった。

「どこから……!」

「上だ、まだ来るぞ!」

 足は止めないままでちらと上を見上げたが、路地裏は光が届かず暗く、月が細いのも手伝って何も見えない。どこから狙撃されたのかは由乃には分からなかった。

 ちぃん、ちぃんと足元で火花が爆ぜた。男は家と家の間の隙間に逃げ込んで葛葉も続くが、銃撃に阻まれて由乃は路地を挟んで反対側の家の影へと逃れた。

 途端に銃撃は止んで静寂が戻ってきたが、恐らくじきに刺客はやってくるだろう。由乃と合流しようにも不用意に飛び出せばまだ銃口が路地に狙いを付けているかもしれない。

「随分逃げるのに慣れてるのね」

「こんなしつこいのは初めてだ」

 小声で言葉を交わす。男の声には確かに困惑の色が弱く乗っていた。

「このまま別方向に逃げてくれりゃ、多分これ以上追われる事もないんだけどな」

「由乃くんならそれ位は自己判断でやってくれるわ、きっと」

「あんた方、何者だい」

「最近ちょっとは有名になってきたかなと思ってたんだけど。七重探偵事務所の探偵さんよ。依頼してくれたら、自警団の詰所まで無事に送り届けてあげるわよ」

「探偵かい、人間の探偵は高いんだろ」

「報酬は、そうねえ……」

 言葉を切ると葛葉は右手をポケットに突っ込んで素早く抜き出し、構えるが早いか硬貨を弾き道の先に放った。路地の入口に飛び込んで正面を向いたばかりの刺客の眉間に当たった硬貨は、びしりと鈍い音を立てて弾かれて、地面に転がった。

「お蕎麦食べ放題一年分でいいわ。あれ、美味しかったから」

 言いつつ、男に続いて後退りながら葛葉は硬貨を続けざまに右手から撃ち出した。家と家の間にある隙間のような路地は狭くじめじめとして、人一人が通るのがやっとの幅しかない。入り込んでくる一人を待ち受けて正面から狙い撃つのは、暗がりというマイナス要因を差し引いても葛葉にとって造作も無い事だった。眉間に痛烈な一撃を浴びた相手は、顔を手で覆って暫し動けなくなる。

 やがて家の裏を抜けて通りが近づいたのか背後から光が漏れてくる。先を行く男以外の気配を感じて振り向くと、黒装束が一人飛びかかってくる。体を捻って対処するにも間に合わない、葛葉が口を開くより先に黒装束が銃を向けた。

 危ないと叫ぶより早く、男が軽く駆け出して、勢いのまま右の正拳を黒装束の顔面に叩き込んでいた。黒装束は、為す術もなく宙を舞って歩道を飛び越し、車道の真ん中に引かれた白線の上まで滑り転がった。

 あまりの怪力ぶりに葛葉は呆然としたが、驚いている暇はない。そのまま走り出した男の後を追って駆け出す。

 後ろから二三人が追ってくるが、続けざまに放った硬貨にやはり額を撃ち抜かれて沈黙する。その間に男と葛葉は通る車のない車道を横切って、別の横道へと駆け込んだ。

 走り続けた葛葉の息は切れているが、男は平静を保ったままだった。

「すごい、力持ちね、びっくりしたわ」

「だろうな」

「まるで……」

「人間じゃないみたい、とでも言いたいか?」

 男の声は淡々として低かった。私の知り合いアントンみたい、と続けようとした葛葉にとっては予想外の言葉で、訝しげに男を見上げたが、男は言葉を継がずに歩き出した。

「私の知り合いの亜人のハーフに似てるって、言おうとしたのよ」

「日本に亜人のハーフなんざそうそういる筈ないだろ。亜人共生が始まったのが十年前だぜ」

「その人は外国人なの」

 アントンは正確には外国人ではなく人工的に創り出された人格だが、そんな入り組んだ事情を説明する必要もない。葛葉を含む家綱の七つの人格には創り出される以前の記憶など存在せず、歴史としての情報しか持っていない。

「ふうん、やっぱ外国にはいるんだな、俺みたいのが」

「じゃあ、あなたも、そうなの?」

 男を追いながら葛葉が問いかけると、男は振り向かないままで頷いた。

「共生法が出来てから何人か生まれてるみたいだが、十年前までは俺だけだったな、ハーフは。まあ三百年の間にはたまーにいたらしいけどな」

「人間と亜人は完全に分かれて暮らしてたんだから、まあ普通は、いないわよね」

「そんなのはあんたら人間が勝手に決めた事さ。共生法だってそうだ、あんなもんはいらなかったんだ。この街は何でも揃ってた、生きてくには十分だった。それを人間が恩着せがましく共生とか何とか言って土足で踏み込んできてるのが今の状態さ」

「あなただって共生法に賛成だったんじゃないの」

「胸糞悪い現実を知るまではな」

 追手を撒く為だろう、右に左に路地を折れながら進むが、それきり男は無言だった。

 胸糞悪い現実、とは何なのか。グラットンにしろ以前依頼を引き受けた人間側の共生推進者・招原柚子にしろ、そんな衝撃的な現実のあるそぶりは何も見せなかった。共生法が既に施行されているからには人間と亜人の融和を穏便に友好的に進める方が重要、という事もあるのかもしれないが。

「俺の幼なじみにバルガスってのがいてよ。熊の亜人だが気のいい奴だった。共生法が出来てすぐの頃は、一攫千金なんて浮かれた気分で出稼ぎに行く若いのが多くて、バルガスもその一人だった。だが、すぐに連絡が取れなくなった。暫くして頭潰された熊の亜人の死体が見付かって、それがバルガスだった。まともな仕事がないから帰ってくるならまだいい方さ。自殺しちまったり、自棄になって暴れまわって捕まる奴とか。最初のうちそんな事があって、俺たちはこっちから出ていくのはやめた。共生法なんて形ばっかり整えてみたって、人間は亜人の見た目が違えば差別するしまともに扱わない」

「……それを、何とか改善しようとしてるのが、共生会なんじゃないの」

「あいつらのやってる事が無意味だとまでは思わねえがよ。俺はこのナリだから人間の街で何しててもそう目立たねえ。バルガスが殺された事件について色々調べてたら、同じように亜人が殺された事件が何度も起きてる。死体が発見された地点は、郊外にある研究所を中心にして分布してた。警察に言っても取り合っちゃもらえないし、そもそもまともに捜査もされてない」

「その研究所が何か関係があるの? 何の研究所なの」

「超能力だよ」

 ぎょっとして葛葉は男の背中を見たが、男は振り向くでもなく足を動かし続けていた。

「丁度超能力を金次第で使えるようになるって話が実用的になる少し前で、研究が盛んになった頃だ。能力を他人も使えるようにする研究をしてるらしいってのは何となく分かったが、大した事は分からなかった。けどよ、例えば亜人が持ってる能力を人間が使えるようにする、なんて目的があったなら」

「証拠はないんでしょう?」

「ないよ。その研究所もすぐになくなっちまったしな。けど、亜人街が閉鎖地区な限りそんな研究は出来やしない、どうにも腑に落ちなかった。そもそも亜人なんてそう数もいない、外のあんたらは十年前までは俺たちがここで生きてるって事すら碌に意識もしてなかった筈だ。それが何でいきなり共生なんて言い出した?」

「……さぁ。よく知らないけど、マイノリティの権利? とか、そういうの熱心な人が言い出したんじゃないの?」

「権利を主張すんのは権利を享受する主体だろ普通。俺たちは誰もそんな事考えちゃいなかった。外に出たがる奴は多少いたけどよ、生活はこの街の中だけで回ってた。贅沢な食べ物とか綺麗な服はそりゃないが、別に困ってやいなかった。俺たちは隔離されてたし、今ですら参政権もないのに法律どうのなんて声がもしあったとして、どうやって届ける、手段がない。外の奴らが勝手に言い出して俺達の意見なんて聞かないで法律を作ったんだ。そんな事して、誰が得をするっていうんだ? おかしいだろ」

 言われてみればおかしな話だった。隔離された地区の中で生活が成り立たなければ、亜人たちが三百年前から今まで生き残っている筈がないのだから、外に出る必要は確かにない。十年前までは教科書で歴史としては習うが実際に亜人を見た事のある者は少なかった。世論を扇動し一定数の議員を動かして法律を成立させる、そういう大きな力が関わっていなければ口の端に上る事もない話題だったろう。

「ここらは人間の街と違って、すぐ山になるだろ。狭い土地だから、あの山にも畑があるんだけどな、どうもそこにレアメタルって奴が埋まってるらしい」

 淡々と低い声のままだったが、僅かに悔しげに男の声は揺れた。細い横道の出口辺りでゆっくりと足を止めたので葛葉も立ち止まる。

 表の道の街灯から細く漏れてくる光が長い影を落としていた。風はない。空を覆う濃灰色の雲の隙間から細い月が顔を覗かせた。立ち止まると、今まで動転して忘れていた寒さが急に鼻の頭や足元から忍び込んできた。

「そんな事も知らないで十年前の俺は、人間と亜人の共生のシンボルだ何だと煽てられてすっかりのぼせて、インタビューやら何やらにも答えたし、共生会の活動だって熱心にやってた。その結果がこのザマだ。亜人の立場は十年前と何も変わらないで差別されっ放しだってのに、こっちにはそれまでなかった『貧しい』って感覚が植えつけられた。俺たちは必要のない自由を押し付けられて、生まれ育ったここから借金をカタに追い出されようとしてるんだよ」

「他の人は、それを知らないの」

「レアメタルの件はグラットンから聞いた、皆知ってる話だ。だから必死だろ。招原とかっていう運動家みたいなのを引っ張ってきて、必死になって亜人の権利を人間と同じ所まで引き上げようとしてる。反亜人の奴らみたいなやり方はゼノラの神の教えにもとるからな」

 言い切って男は肩で一つ息をして、ちらと葛葉に振り返った。目を眇め妙なものでも見るような目付きで葛葉を眺めるとまた一つ鼻で息を吐いて、前に向き直り歩き出す。

「報酬は本当に蕎麦でいいのか」

「カロリーメイト一年分でもいいわよ。いろんな味を混ぜてね」

「……いや、それなら蕎麦でいい。あんた変わった奴だな」

「そう? そうでもないと思うけど。おいしかったもの」

「そりゃうちの自慢の蕎麦だからな。さっき山に畑があるって言ったろ。痩せた土地でもよく育つから、昔っからあの山では蕎麦を作ってきた。俺たちが三百年も外から切り離されて生きてこられたのも、蕎麦のお陰なんだよ」

「ふうん……随分由緒正しいのね」

 幾分軽くなった口調で言葉を交わしながら尚も進む。細い路地の中ほどで、あと少しだ、と男が呟いた。家の塀と塀の間から広い通りが見える。あの通りは葛葉も見覚えがある、共生会が組織した自警団の詰所が面している大通りだった。

「そういえば、あなたもやっぱり信じてるんだ。何とか……何だっけ? の神様とか」

「ゼノラの神かい。当たり前だ、この街に住んでて信じてない奴なんかいないよ。俺たちゃゼノラの神と一緒に生きてんだ。見た目も生まれも関係ない、ゼノラの神は信徒なら誰だって受け入れる。だから俺もこんなナリでもこの街の中では差別なんかされた事はない。亜人なんてそれぞれ見た目が全然違うんだから、そういう神様が必要なのさ。ま、俺ぁ人間嫌いだから少々信徒失格だがね」

「そんな事ないわよ。あたしと由乃くんにお蕎麦を出してくれたじゃない」

「そう言ってくれると少々気が楽になる。俺もちったぁ人間嫌いを治すか……」

 路地の出口まで来て、男は急に言葉を切って足を止めた。背中に鼻の頭をぶつけそうになりつつもすれすれで葛葉も立ち止まる。

 風が少し出てきていた。男の背中と葛葉の鼻先の間をひやりと冷気が流れていく。ぴんと張り詰めた空気の中、男がこくりと唾を飲む音がくっきり耳に響いた。

 周囲の殺気を葛葉も感じ取る事ができた。囲まれている。

「今日は、逃がす気はないみたいだな、あっちも」

「由乃くんがうまい事やっててくれるといいんだけど、当てにばっかりもしてられないわね」

 角の向こうに身を潜めて、三人、いや五人。今しがた通ってきたばかりの背後にも気配を感じる。

 唇の両端を僅かに下げて考え込んだ後、葛葉は左手をポケットに入れて、携帯型の音楽プレイヤーのような見た目の端末を取り出した。

「ちょっと今から光るけど、びっくりしないでその隙に囲みを抜けて」

「は……? 光るって何だそりゃ、何言って……」

「いいから、眩しいから前向いてて」

「あっ、はい……」

 素っ頓狂な葛葉の言葉に思わず振り向いた男をぴしゃりと葛葉が嗜めると、男は怪訝そうな顔つきをしたものの素直に前に向き直った。葛葉が携帯型の端末を操作すると、体から白い光が漏れ出し葛葉を包んでいく。

 角の向こうや背後から、あまりの眩しさに驚いたのか声が上がった。言われた通りに男は駆け出して、道を突っ切り向こう側へと抜ける。

 振り向いた男が葛葉のいた場所を見やると、そこに居たのはだらしないスーツにソフト帽を斜めに被った、見た事もない青年だった。

「おいおっさん、蕎麦食い放題なんて下手に約束すると破産しちまうぜ。なんたって、あいつの胃は底なしだからなぁ!」

 にやりと笑いかけて青年は、踵を返して軽く駆けた。白い光に暗闇に慣れた目を潰された刺客たちは対応しきれずに、繰り出された拳や脚をまともに喰らって吹き飛び倒れる。

 角の向こうに隠れていた六人も光に目を潰されて俯いていた。路地の後ろから忍び寄ってきていた三人が倒れ伏す声を聞いてすわやと路地に駆け入ろうとする、その後ろから男が襲いかかった。

 まだまともに目の見えぬ刺客たちが入り乱れ、そこに路地から駆け出してきた青年も加わって乱戦模様となる。青年は、喧嘩慣れしていて乱戦の中でも同時に三四人を向こうに回して的確に躱し防いで、隙は逃さずに拳や爪先を叩き込んでいた。

 これだけの乱戦になれば銃は使えない。至近距離なら男の怪力もよく活きる。既に半分ほどが石畳に横たわって蹲り、残りの人数も逃げ腰になりかけた頃、数人が駆けてくる足音とざわめき、ライトの光が道の向こうから近付いてきた。

 逃げ出す刺客は敢えて追わずに、青年と男は近付いてくる人影を待った。

「おーい! 葛葉さ……あっ、家綱!」

 嬉しそうに脚を速めて駆け寄ってくるのは由乃だった。後に五六人の亜人が続いて、懐中電灯で道を照らしつつ進んでくる。どうやら期待通りに、はぐれた後に由乃は詰所まで先回りをして迎えを呼んできてくれたようだった。

「やれやれ、これで一件落着、ってとこかな」

 気の抜けたような軽い声で青年が呟いて、斜めにずり落ちかけたソフト帽を左手で直した。

「助かったよ。報酬は、ほんとに蕎麦でいいのか?」

「ああー……由乃が怒るだろうし俺も現金の方が有り難いが……まあ、もう約束しちまった事だ」

「忠告に従って、一回に一杯まで、って事にしてもらっていいか」

「オッケー、つうか大した事もしてないんだからタダ飯食わせてもらうみたいで、何だか悪いな」

 あまり悪気もなさそうに依然軽い調子で青年が告げると男は、一度頷いた後にやりと笑った。

「そうでもない。あんたらが俺の蕎麦を食べて、亜人街の蕎麦は美味いって評判を宣伝してくれりゃ、ギブアンドテイクだろ」

「そりゃいい、じゃあそれで決まりで。ところであんた、名前は?」

 男の名前を聞いていなかった事にようやく気付いたのか青年が尋ねると、きょとんとして暫く青年を見つめた後、男は漸く口を開いた。

「俺はパオロってんだ。さっきの姉ちゃんはくずは、だっけか。あんたは?」

「俺は家綱。七重探偵事務所の七重家綱、ペット探しからちょっと厄介な相談事まで、御用の向きとあらば安心価格で迅速解決がモットーなんで、何かありゃあまた宜しく。あ、次は現金でな」

 左手を顔の前に翳し、人差し指と中指の先でソフト帽のつばを摘んで、幾分渋い声を出して家綱がにやりと笑うと、パオロはどう反応していいものやら分からなかったのだろう、きょとんとした顔をしてから、右の口を端を上げて苦く笑った。

「やっぱ……変わってんな、あんた」

「そうかい? いつもこんなもんさ。まあちょっとは変わってるかもしれないけどよ、これでいいって受け入れてくれる酔狂な奴もいるのさ。あんたの神様みたいにさ」

 パオロが何かを答える前に、二人の前に由乃が到着して、くるりと回ったり頭から爪先までを眺め回してパオロの身の無事をしきりに確認する。独り身で無邪気な賑やかさにはあまり慣れていないパオロは、やはり困ったように苦い笑いを浮かべた。

 この後暫くして亜人街で人間を狙った連続切り裂き魔事件が起き、時を措かずして罷波町を爆弾テロの恐怖が襲い、事態の収束と入れ替わるように七重家綱が姿を消すが、それはまた別の話である。

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