1章 邂逅と覚醒――効率的冒険者の始まり
薄暗い森の静寂を切り裂いたのは、飢えた獣たちの湿った鼻鳴らしだった。冒険者ギュンターは、抜き放った長剣を低く構え、周囲を囲む5体のグレーウルフを凝視する。20歳という若さながら、その佇まいには修羅場を潜り抜けてきた者特有の冷徹さが漂っていた。
先陣を切った1体が、音もなく地を蹴ってギュンターの喉元へと躍りかかる。ギュンターは半身をずらしてその突進を紙一重でかわすと、すれ違いざまに長剣を振り抜いた。鈍い手応えと共に、ウルフの臀部が深く切り裂かれる。鮮血が飛び散り、獣は悶絶するが、致命傷には至らない。
その隙を逃さず、今度は2体が左右から同時に飛びかかってきた。ギュンターは後方へ跳んで包囲を広げると、着地と同時に鋭い踏み込みを見せる。空中で牙を剥く1体の後ろ足を、研ぎ澄まされた刃が鮮やかに切り飛ばした。彼の戦法は一貫している。敵を引き付けてかわし、その勢いを利用してカウンターを叩き込む。無駄な動きを排した、極めて実戦的な身のこなしだ。
直後、まだ怪我のない別の1体が唸り声を上げた。その瞬間、ギュンターの掌から無色の魔力の塊――魔力弾が放たれる。詠唱というプロセスを一切持たない、純粋な魔力の暴力だ。眉間を直撃した一撃は、その個体の頭を半分ほど吹き飛ばし、絶命させた。
「次だ」
短く呟く。怪我のない残りの2体が、仲間の死に激昂したかのように同時に襲いかかる。ギュンターは長剣を横一文字に薙いだ。銀光が弧を描き、2つの首が同時に宙を舞う。切断面から噴き出した血が地面を叩き、転がった頭部が地面を転がる。これで3体が完全に沈黙した。
残るは負傷した2体だ。ギュンターはまず、後ろ足を切り飛ばされもがいていた1体の頭部に魔力弾を放った。衝撃で頭部が消し飛び、その体は泥濘の中に沈んだ。
最後に残ったのは、最初に臀部を切りつけた1体だった。傷口からは大量の血が溢れ、もはや逃げることも戦うこともできないようだ。ギュンターはその首を冷徹に刎ね、グレーウルフは全滅した。
「血の匂いで魔物が集まってくる」
彼はすぐさま解体に取り掛かった。驚くべき正確さでナイフを入れ、ウルフの体内から魔石を取り出していく。魔石の位置を指先で探るまでもなく、彼は魔力操作の感覚だけでその所在を正確に把握していた。
5体すべての魔石を回収すると、ギュンターは未練なくその場を離れた。肉や皮は惜しいが、血の匂いはこの森では死を招く招待状に等しい。しばらく進むと、木々の切れ目から小さな沢が現れた。ギュンターは膝をつき、血に汚れた魔石を冷たい水で洗い流す。掌に乗った小石ほどの魔石は5個。収穫としては悪くない。
彼は沢の水を一口飲み、背後の森を振り返った。そこには、ただ静寂だけが戻っていた。
沢を抜けると、それまでの鬱蒼とした森が嘘のように視界が開け、陽光が差し込む草原のような場所に出た。しかし、そこには穏やかな風景にそぐわない異質な光景が広がっていた。
草むらの中に、一人の女が倒れている。その装束からして、ギュンターと同じ冒険者であることは明白だった。彼女の脇腹は、何らかの巨大な爪か刃物によって引き裂かれたのか、肉が剥き出しになり、そこから大量の鮮血が溢れ出していた。草地はどす黒い赤に染まり、彼女の顔面は失血によって紙のように白くなっている。このまま放置すれば、刻一刻と死が彼女を連れ去るだろう。
ギュンターは無言で駆け寄り、膝を突いた。躊躇うことなく背嚢を探り、一本の小瓶を取り出す。安価な代物ではないが、目の前の命を見捨てるという選択肢は彼にはなかった。
「……耐えろ」
短く呟き、ギュンターはポーションの栓を抜くと、それを彼女の傷口に直接振りかけた。魔法薬が傷に触れた瞬間、シュッという音と共に白い煙が立ち上る。再生を促す激痛に、意識を失っていた女の体が大きく跳ね、喉の奥で押し殺したような悲鳴が上がった。
やがて出血が止まり、抉れた肉が盛り上がるようにして傷口が塞がっていく。女は数度の荒い呼吸を繰り返した後、うっすらと瞼を持ち上げた。焦点の合わない瞳がギュンターを捉え、やがて現状を理解したのか、彼女は震える唇を動かした。
「……助かった、のか。すまない……恩に着る」
彼女は弱々しく上体を起こそうとしたが、ギュンターが肩を押さえてそれを制した。女は自嘲気味に微笑み、掠れた声で言葉を継ぐ。
「私はセーラ……。この先の街道を拠点にしているDランクの冒険者だ。魔物の不意打ちを受けて、情けないことにこの有様さ。君がいなければ、今頃はカラスの餌だった……。本当に、ありがとう」
ギュンターは彼女の謝辞を淡々と受け流し、周囲の警戒を怠らなかった。彼女を襲った「何か」がまだ近くに潜んでいる可能性があるからだ。
「礼には及ばない。動けるようになったら、すぐにここを離れるぞ。血の匂いは、まだ消えていないんだ」
セーラと名乗った女は、ギュンターの冷徹ながらも確かな生存本能を感じ取り、深く頷いた。二人の冒険者は、残されたわずかな静寂の中で、次の一歩を踏み出すための準備を始めた。
夕暮れ時の活気に満ちた宿場町。ギュンターとセーラは、並んで冒険者ギルドの重厚な扉を潜った。
受付のカウンターに差し出されたのは、先ほど沢で洗浄したばかりのグレーウルフの魔石5個だ。受付の職員は手慣れた手つきで石の質を確認し、カチリと音を立てて5枚の金貨を並べた。これらはすべてギュンターが自らの力で仕留め、命懸けで回収してきた戦利品だ。セーラはそれを横目で見ながら、感心したように溜息をついた。
「グレーウルフ5体分の魔石か……。一人でそれだけの数を一度に持ち込むなんて、相当な腕前なんだね。私の方は、今日は命があっただけでも儲けものさ」
ギュンターは無言で金貨を革袋に収めると、ギルドに併設された酒場へと足を向けた。重傷を負っていたセーラをここまで送り届けたのは彼だ。彼女はまだ足取りが覚束ない様子だったが、エールの匂いに誘われるように彼の後を追った。
「エールを二つ。それと、肉の煮込みを二皿頼む」
ギュンターの注文に応じ、ほどなくして並々と注がれたジョッキと、湯気を立てる香ばしい煮込み料理が運ばれてきた。彼は自分の稼ぎから二人の食費を支払う。冷えたエールを喉に流し込むと、戦いの緊張で強張っていた身体が内側から解けていくのがわかる。セーラもまた、まだ血の気の戻りきらぬ顔でエールを煽り、生き返ったような吐息を漏らした。
「……ふう。地獄の淵から戻ってきて飲む酒は、格別だね。ご馳走になるよ、ギュンター」
セーラは木匙で煮込みを口に運び、滋養に富んだスープを味わいながら、向かいに座るギュンターを真っ直ぐに見つめた。彼の無駄のない所作、そして20歳という若さに似合わぬ冷静沈着な振る舞い。瀕死の自分を迷わず救い、的確な判断でここまで連れ帰ったその胆力は、一介の駆け出し冒険者のそれではない。
「ところで、ギュンター。君はいつもそうして一人で動いているのかい? つまり、ソロの冒険者なのか?」
ギュンターは短く頷いた。「ああ。これまではずっと一人だ」
その答えを待っていたかのように、セーラは身を乗り出した。
「実は、私もこれまでずっとソロでやってきたんだ。だが、今日の失態で思い知らされたよ。この辺りの森も物騒になってきた。一人ではどうしても限界がある。背中を預けられる仲間がいれば、防げた怪我だった」
彼女は一度言葉を切り、真剣な眼差しをギュンターに向けた。
「もし良ければ、私とパーティーを組んでくれないか? 君の落ち着きと判断力は、信頼に値すると確信している。ポーションの恩も返したいし、私のスキルも決して足手まといにはならないと約束する。……どうだい、提案に乗ってくれないか?」
酒場の喧騒の中、ギュンターは静かにエールの泡を見つめた。これまで一人で完結させてきた戦い。しかし、セーラの言う通り、複数での連携が生存率を高めるのもまた事実だ。彼はゆっくりとジョッキを置き、彼女の提案に対する答えを探るように沈黙を守った。
酒場での食事が終わり、腹を満たしたギュンターは、席を立ってギルドの売店へと向かった。手元に残った金貨は、今の彼にとって決して安くない財産だ。しかし、彼は迷うことなく、その金で買える限りのポーションを補充した。一人の命が消えかけた現場を目の当たりにした直後だ。備えこそが冒険者の寿命を決めることを、彼は骨の髄まで理解していた。
「……明日、またここへ来てください。セーラさんがどれだけ動けるか、見せてもらいたいです」
ギュンターの言葉に、セーラは満足げに、そして引き締まった表情で頷いた。こうして、若き冒険者と女斥候の即席パーティーが結成された。
翌朝、夜明けと共に二人は町外れの演習場へと向かった。昨日の重傷が嘘のように、セーラの足取りは軽い。ポーションの効力もさることながら、彼女自身の生命力の強さが窺える。
「昨日は本当に助かったよ、ギュンター。でも、ただ助けられるだけじゃ冒険者は務まらないからね。私の力、見ておいてくれるかい?」
セーラはそう言うと、腰の短剣を抜き放ち、前方の標的を見据えた。彼女の本職は斥候――敵の気配を察知し、罠を解除し、死角からの一撃を見舞うプロフェッショナルだ。しかし、彼女が意識を集中させると、周囲の湿り気を帯びた空気が微かに震え始めた。
彼女は魔法使いではない。呪文を組み上げ、大規模な現象を引き起こす術式は持ち合わせていない。だが、彼女には稀有な「水属性」への適性があった。セーラが短剣の柄を強く握りしめると、どこからともなく集まった細かな水滴が、刀身を包み込むように渦を巻き始めた。
「……水刃、ですか」
ギュンターが呟く。それは魔力で編み上げられた、物理的な硬度と水の流動性を併せ持つ変則的な武装だった。セーラはそのまま一気に踏み込み、標的の木人を鮮やかに一閃した。
鈍い音はしなかった。水刃は木人の表面を滑るように通り抜けたかと思うと、一呼吸置いてから、切断面から水分を吸い上げ、木材を内側から爆ぜさせた。単なる斬撃ではない。水属性の魔力を直接叩き込み、対象の内部を破壊する、斥候らしい鋭い攻撃手段だ。
ギュンターは、その鮮やかな手際に思わず目を見張った。自分はただ練り上げた魔力を塊としてぶつけることしかできない。属性をこれほど実戦的に使いこなす様を間近で見るのは初めてだった。
「すごいですね……。てっきり、索敵が専門の方だと思っていました。正直、驚きました。セーラさんのその魔法があれば、僕の魔力弾と合わせることで、もっと効率的に敵を崩せるはずです」
ギュンターは素直な感嘆を口にした。20歳という若さであり、経験豊富な年長者であるセーラに対しては、自然と敬意を込めた言葉遣いになる。
「期待していた以上に、心強いです。よろしくお願いします、セーラさん。僕も精一杯、あなたの背中を守りますから」
少し照れたように笑いながらも、その瞳には新しい仲間への確かな信頼が宿っていた。二人の冒険者は、朝日に照らされながら、これから始まる未知の依頼と、まだ見ぬ深淵の森へと視線を向けた。
セーラの鮮やかな「水刃」を目の当たりにしたギュンターの瞳に、知的な好奇心と集中力が宿った。彼はただ力任せに魔力をぶつけるだけの猪武者ではない。その本質は、無骨な魔力の塊を自在に操る精密な魔力制御にこそあった。
ギュンターは、セーラが短剣に纏わせた水の揺らぎ、その魔力の波長、そして大気中から水分を収束させる理を、鋭い観察眼で解析し始めた。
「……なるほど。属性の付与っていうのは、こういう感覚なんですね」
ギュンターは自らの掌を見つめ、ゆっくりと魔力を練り上げる。これまでは形のない「塊」でしかなかった魔力の中心に、セーラの術理を模倣した核を置く。すると、周囲の湿気が急速に彼の掌へと吸い寄せられ、透明な球体を形作っていった。
「えっ……? ちょっと待って、ギュンター、君……」
驚愕に目を見開くセーラの前で、ギュンターは迷いなくその球体を撃ち出した。
「『ウォーターバレット』」
放たれたのは、超高圧で凝縮された水の弾丸だ。それは空気を切り裂く鋭い音を立てて射出され、前方にある巨大な大木の幹を、まるで紙細工のように容易く貫通した。背後の地面にまで着弾の衝撃で深い穴が穿たれる。単なる魔力弾よりも貫通力と速度が飛躍的に向上していた。
だが、少年の試行はそれだけでは終わらない。彼は即座に次のイメージを構築する。掌の上に、今度は平たい円盤状の水流を発生させた。水流は凄まじい速度で回転し、キィィィンという耳を劈くような高周波の音を響かせる。
「次はこれです……『ウォーターカッター』!」
水平に薙ぐように放たれた水の刃は、目にも止まらぬ速さで空間を横切った。先ほど貫通穴を空けられた大木が、一瞬の抵抗もなく水平に両断される。巨木が自重に耐えかねて地響きと共に倒れ伏すと、森の鳥たちが驚いて一斉に飛び立った。
ギュンターは少し荒くなった呼吸を整え、自分の手を見つめてからセーラを振り返った。
「セーラさんの魔力の動かし方、すごく勉強になります。おかげで、ただぶつけるだけだった僕の魔力に『鋭さ』を持たせることができました。ありがとうございます、セーラさん」
丁寧な敬語で頭を下げる少年の姿に、セーラは開いた口が塞がらない様子だった。彼女が長年かけて練り上げてきた属性適性のエッセンスを、この20歳の少年はたった一度見ただけで解析し、自らの術式へと組み込んでみせたのだ。
「……『勉強になる』どころの騒ぎじゃないよ。君、自分がどれだけとんでもないことをしたか分かってるのかい?」
セーラは呆れたように笑いながらも、その瞳には未知の才能に対する畏怖と、それ以上に頼もしさが混ざり合っていた。
「でも、これなら……。当初考えていたよりも、ずっと深い場所まで行けるかもしれないね」
ギュンターは自らの剣を引き抜き、新しく手に入れた力の感触を確かめるように静かに構えた。属性を纏った魔力操作。それは、彼がさらなる高みへと昇るための、大きな転換点となった。
演習場での訓練を終えた二人は、その足で再び森の深部へと踏み込んだ。新しく手にした力の馴染みを確かめるには、実戦に勝る場はない。
木々の隙間から、低い唸り声が幾重にも重なって響く。現れたのは、昨日ギュンターが死闘を演じたグレーウルフの群れだった。その数、10体。昨日の倍の戦力だが、今のギュンターの瞳に焦りの色は微塵もなかった。
「セーラさん、下がっていてください。試したいことがあります」
「えっ、ちょっと、10体だよ!? 援護するから――」
セーラの制止が届くより早く、ギュンターの両手がしなやかに動いた。
「『ウォーターバレット』」
放たれたのは、極限まで圧縮された水の弾丸だ。それは空気を切り裂く高音と共に射出され、先頭を走るウルフの眉間を寸分の狂いなく貫通した。脳を破壊された獣が倒れる暇も与えず、ギュンターは次々と指先から弾丸を放つ。
さらに、横から飛びかかろうとした3体に対し、彼は水平に手を薙いだ。
「『ウォーターカッター』」
薄く、鋭く、超高速で回転する水の刃が空間を横切る。銀色の閃光が走った直後、ウルフたちの首が吸い込まれるように宙を舞った。10体いたはずの群れは、わずか10秒足らずで物言わぬ肉塊へと変わり、森には再び静寂が訪れた。
傍らで見ていたセーラは、短剣を構えたまま石のように固まっている。
「……10秒。冗談でしょ、これ……」
しかし、ギュンターの「実験」はここで終わらなかった。彼は倒れたウルフの一体の前に屈み込むと、先ほどのウォーターカッターの術式をさらに細かく組み替え始めた。刃の厚みを極限まで薄くし、振動の周波数を調整する。対象を「断つ」のではなく、特定の組織の境界を「滑らせる」ようなイメージだ。
「『解体魔法』」
彼の手から放たれた繊細な魔力の波がウルフの死体を包み込む。すると、魔法のような光景が広がった。皮がするりと剥がれ、骨から肉が分離し、牙と爪が根元から抜けていく。そして最後に、心臓近くにある魔石がひとりでに転がり出た。
「よし、うまくいきました。皮、骨、肉、牙、爪……。それから魔石。これで分別完了です」
ギュンターは淡々と作業を続け、わずか10分ほどで10体すべての解体を終えてしまった。通常、熟練の冒険者が数人がかりで行っても数時間はかかる重労働だ。
「セーラさん、ぼうっとしていないで手伝ってください。魔物回収用の大袋に入れないと。血の匂いが広がる前にここを離れましょう」
少年に促され、セーラはやっと我に返った。
「……君、本当に人間かい? 敬語を使われてるのが怖くなってきたよ」
「失礼ですよ、セーラさん。僕はただ、効率を考えているだけです」
ギュンターは少し困ったように笑いながら、仕分けられた素材を次々と大袋に詰め込んでいく。一級品の毛皮に、傷一つない肉。これだけの量を一度に、しかもこれほど短時間で回収できるパーティーなど、この近隣には存在しないだろう。
重くなった大袋を背負い、ギュンターは森の奥を見据えた。新しく開発した魔法の威力は想像以上だ。だが、彼の探求心はまだ止まらない。
「次はもう少し強い魔物を探しましょうか。セーラさんの索敵、頼りにしていますね」
その信頼に満ちた少年の眼差しに、セーラは「やれやれ」と肩をすくめながらも、心強い相棒の背中を追って深い森へと歩を進めた。
回収した素材を詰め込んだ大袋を前に、ギュンターはしばし足を止めて考え込んだ。
10体分の毛皮、骨、牙、そして大量の肉。これらすべてを一度に運ぶのは、いくら頑健な冒険者であっても物理的に限界がある。かといって、この場に放置すれば他の魔物に食い散らかされるか、腐敗してしまうのは目に見えていた。
「セーラさん、少し時間をください。この荷物、一度に運ぶのは効率が悪すぎます」
「そうだね……。でも、ここに置いていったら一晩でウルフの餌場になっちゃうよ?」
セーラの懸念に対し、ギュンターは静かに掌を地面へ向けた。先ほど解析した水属性の魔力を、さらに変質させる。温度を奪い、分子の動きを止めるイメージ。彼の足元から白い冷気が這い出し、周囲の木々を白く染め上げていく。
「『アイス・ビルド』」
彼が短く呟くと、地面から結晶化した氷が猛烈な勢いで隆起した。それはみるみるうちに形を成し、森の中に二つの頑強な氷の建屋を作り上げた。
一つは、毛皮や骨、牙、爪などを保管するための堅牢な倉庫。氷の壁は厚く、並の魔物の爪では傷一つ付かないほどに硬化させてある。そしてもう一つは、肉を鮮度そのままに保存するための冷凍倉庫だ。内部には常に冷気が循環し、魔力を込めた氷の術式が温度を一定に保つよう設計されていた。
「これなら、腐る心配も盗まれる心配もありません。入り口は僕の魔力に反応して開くように細工しておきました」
慣れた手つきで、種類ごとに仕分けられた素材をそれぞれの倉庫へと運び込むギュンター。その手際の良さに、セーラは開いた口が塞がらない。
「氷の魔法まで……。しかも、ただの壁じゃなくて建屋を作るなんて。君、本当に20歳の新人なのかい?」
「セーラさんの水魔法を応用しただけですよ。状態を固定すれば、こうして形にできるはずだと思ったんです」
ギュンターは事も無げに答え、最後に残った10個の魔石だけを腰のポーチに収めた。魔石さえあれば、ギルドでの討伐証明には十分だ。残りの重量物は、後で運び屋を雇うか、数回に分けて回収に来ればいい。
「さあ、行きましょう。今日はこの魔石を換金して、明日の準備を整えないと。セーラさん、帰り道の索敵もお願いしますね。血の匂いを察知した他の個体が、倉庫の周りに集まっているかもしれませんから」
敬語を崩さず、どこまでも冷静に先を見据える少年。セーラは「やれやれ」と肩をすくめながらも、その頼もしすぎる背中に自分を預けることに決めた。
「わかったよ。……君と組んでると、冒険者の常識が書き換えられそうで怖いくらいだ」
二人は森の深くに残された、青白く輝く二つの氷の砦を背に、宿場町へと向かって歩き出した。
夕闇が迫る宿場町に、二人の足音が響く。ギルドの窓口で差し出した10個の魔石は、その質の良さと討伐数の多さから、計10枚の金貨へと姿を変えた。昨日の倍以上の稼ぎを懐に、ギュンターとセーラはいつものギルド併設の酒場へと足を向けた。
「エールを二つ。それから、今日は奮発して鹿肉のステーキと、野菜をたっぷり入れたスープを二皿お願いします」
ギュンターの注文に、給仕の女性が明るい返事をして去っていく。運ばれてきた黄金色のエールがジョッキの中で泡立ち、二人は無言で杯を合わせた。冷たい刺激が喉を駆け抜け、戦いと魔力行使で火照った身体を心地よく鎮めていく。
「……ふう。信じられないよ。10体のウルフをあんなにあっさりと片付けて、おまけに森の中に氷の冷蔵庫まで作ってしまうなんて」
セーラはステーキを口に運びながら、向かいに座る少年の顔をまじまじと見つめた。20歳の若さ、礼儀正しい言葉遣い。その内側に秘められた規格外の魔力制御能力。彼女がこれまで見てきたどの熟練冒険者とも、ギュンターは明らかに異質だった。
ギュンターはスープを一口啜ると、ふと思い立ったように顔を上げ、真剣な眼差しをセーラに向けた。
「セーラさん、少し提案があるんです。……もしよければ、僕の魔法を覚えてみませんか?」
その言葉に、セーラは思わずエールを吹き出しそうになった。
「えっ……? 私が、君の魔法を? 冗談だろう。私は魔法使いじゃない。さっきも言った通り、生まれ持った属性に魔力を通して、武器に纏わせるのが精一杯なんだよ。君みたいに魔力を精密に組み上げて現象を起こすなんて、とても……」
「いえ、セーラさんには資質があります」
ギュンターは落ち着いた声で、彼女の言葉を遮った。
「今日、セーラさんの水のエンチャントを解析して分かったんです。あなたは無意識に、大気中の水分を惹きつける高度な『指向性』を持っています。それは才能ですよ。僕がやっているのは、その指向性を少しだけ理論立てて整理し、射出する形に整えるだけなんです」
彼はテーブルの上に指を立て、一滴の水をこぼした。その水滴がギュンターの魔力に反応し、小さな弾丸のように震える。
「僕の魔力操作と、セーラさんの水属性の適性。これを組み合わせれば、あなたはもっと安全に、遠距離から敵を仕留められるようになります。斥候として敵を足止めしたり、弱点を正確に撃ち抜いたり……。僕がそばにいる間に、そのコツを伝授したいんです。そうすれば、パーティー全体の生存率はもっと上がりますから」
丁寧な敬語の裏にある、純粋な合理性と仲間への配慮。セーラはその熱意に気圧され、自身の掌をじっと見つめた。自分に、あの恐るべき貫通力を持つ『ウォーターバレット』が撃てるようになるのか。
「……君っていう人は、本当に底が知れないね。でも、そこまで言ってくれるなら……。老い先短い冒険者人生、新しいことに挑戦してみるのも悪くないかもしれない」
セーラは少し照れたように、だが決意を込めて笑った。
「よろしくお願いします、先生。……あ、いや、ギュンター。明日から、みっちり仕込んでおくれよ」
「はい。喜んで、セーラさん」
ギュンターは満足げに頷き、再び木匙を手にした。翌朝からの訓練を思い描きながら、二人は賑やかな酒場の喧騒の中で、未来への確かな手応えを感じていた。
朝靄がカーテンのように立ち込める深い森。鳥のさえずりさえも湿り気を帯びた空気の中に沈む早朝、ギュンターとセーラの二人は、昨日氷の倉庫を作った場所からさらに奥まった広場で特訓を開始した。
「セーラさん、まずは魔力を『流す』のではなく、周囲から『引き寄せる』感覚を意識してください。あなたの水属性の適性なら、大気中の水分と一緒に魔素を同調させられるはずです」
ギュンターはセーラの背後に立ち、その肩にそっと手を置いた。彼の手のひらから伝わる精密な魔力の振動が、セーラの体内の魔力回路を優しく、かつ強制的に共鳴させていく。年上の女性であるセーラに対し、彼は常に礼儀正しく敬語で接しているが、その指導内容は極めて合理的で一切の妥協がなかった。
「……っ、何これ。魔力が、外から勝手に流れ込んでくるみたい……」
セーラが驚愕の声を漏らす。ギュンターが教えたのは、単なる魔力の練り方ではない。大気中に遍在する魔素を効率よく自らに取り込み、循環させる「魔力吸収」の術理だった。この感覚を覚醒させた瞬間、セーラの魔力保有量は実質的に底上げされ、以前のような枯渇の恐怖から解放された。
「その調子です。次は、その魔力を指先に集めて……放ってください」
セーラの指先から、鋭い水弾――『ウォーターバレット』が放たれた。昨日ギュンターが見せたものに匹敵する速度で、前方の巨木の幹を貫通する。さらに彼女は、流れるような動作で手のひらを水平に一閃させた。放たれた『ウォーターカッター』が、太い枝を鮮やかに切り飛ばした。
「やった……! 私にも、こんな芸当ができるなんて……」
「素晴らしいです、セーラさん。適性が高いから、習得も本当に早いですね」
ギュンターは満足げに頷くと、昨晩宿で考え抜いた新しい術式の構成を口にした。
「実はもう一つ、セーラさんに授けたいものがあるんです。斥候としてのあなたの機動力を、極限まで高めるための補助魔法です」
ギュンターは再びセーラに歩み寄り、彼女の四肢に直接魔力の波を流し込んだ。
「身体強化『アクセル』。そして筋肉強化『マッスル』。これらを同時に発動させてみてください」
セーラの全身を、淡い蒼白の光が包み込む。発動した瞬間、彼女は自らの身体が羽のように軽くなり、同時に万力のような剛力が漲るのを感じた。試しに彼女が軽く地を蹴ると、次の瞬間には十メートル先の木の影へと移動していた。
「速い……! それに、この力……大剣だって片手で振り回せそうだよ!」
「速度で敵の死角を取り、強化された筋力で水刃を叩き込む。これが今のセーラさんの完成形です」
ギュンターは自身の身体にも同じ術式を施し、二人の間に目にも止まらぬ高速の組み手が展開された。若き師匠の導きにより、一介の斥候だったセーラは、魔法と身体能力を高度に融合させた「魔法戦士」へと変貌を遂げたのだ。
「ありがとうございます、ギュンター。君に出会わなければ、私は一生、昨日のような不覚を取り続けていたかもしれない」
「いえ、セーラさんが僕の提案に応えてくれたからです。……さあ、新しい力を実戦で試しましょう。今日は昨日よりもさらに深い、森の第五階層まで行ってみませんか?」
敬語を崩さず、どこまでも真摯な少年の提案に、セーラは最高の笑みで応えた。
第五階層の奥深く、昨日までは死地であったはずの森は、今や二人にとっての広大な収穫場へと変貌していた。
「セーラさん、右からフォレストボアが来ます。アクセルで回り込んでください!」
「了解だよ、ギュンター!」
セーラの姿が文字通り掻き消えた。強化された脚力で地を蹴り、驚愕するボアの死角から水刃を叩き込む。同時にギュンターは、正面から迫るファングベアーの群れに対し、指先から正確無比な『ウォーターバレット』を雨あられと注ぎ込んだ。
アイアンリザードの強固な鱗も、アーマーリザードの厚い外殻も、ギュンターが教えた『ウォーターカッター』の前では無力だった。高速回転する水の刃が、硬質な鎧ごと魔物たちを次々と両断していく。
総勢80体にも及ぶ魔物の群れ。かつてのセーラなら絶望するしかない数だったが、今の二人の前ではわずか数分の出来事に過ぎなかった。
「ふぅ……。セーラさん、今の連携、完璧でしたね。次は解体に移りましょう」
ギュンターは手慣れた様子で『解体魔法』を展開する。セーラもまた、彼から教わった術式をなぞり、鮮やかな手つきで素材を仕分けていった。かつては泥にまみれて行っていた重労働が、今では魔法の光の中で芸術的に進んでいく。
「解体完了です。さあ、運びましょう」
ギュンターは水魔法を応用し、地面の水分を凝固させて巨大な「氷のリヤカー」を作り上げた。摩擦を極限まで減らした滑らかな底面と、頑強な牽引部。二人は仕分けた肉や骨を、先日作った氷の倉庫と冷凍倉庫へ次々と運び込み、格納していく。
皮、牙、爪、そして大量の魔石。選び抜かれた高価な素材だけをリヤカーに積み込み、二人は町へと帰還した。ギルドの窓口に並べられた素材の山に、職員たちは腰を抜かさんばかりに驚愕し、提示された報酬は金貨100枚という破格の金額に達した。
その夜、いつもの酒場。
ギュンターは金貨の山をきっちりと二分し、セーラの前に差し出した。
「セーラさんの索敵があったからこその収穫です。これは正当な取り分ですよ」
そう言って、彼はいつも通りの丁寧な敬語で微笑んだ。少年の面影を残しながらも、その振る舞いは誰よりも落ち着いていて、そして何より強かった。
セーラはエールのジョッキを口に運びながら、向かいに座る少年の横顔を盗み見た。自分を死の淵から救い、魔法を教え、対等なパートナーとして扱い、さらにはこれほどの富をもたらした。20歳。自分よりずっと年下の彼が、今はとても大きく、頼もしく見える。
「……ねえ、ギュンター。君は、これからも私と組んでくれるのかい?」
少しだけ上気した顔で問いかけるセーラの瞳には、単なる戦友としての信頼以上の、甘く熱い色が混じっていた。ギュンターは不思議そうに小首を傾げたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「もちろんです、セーラさん。あなた以上のパートナーは、今の僕には考えられませんから」
その無自覚な言葉が、セーラの胸を激しく叩く。彼女は慌てて残りのエールを飲み干し、火照る顔を隠すようにジョッキを置いた。
「……そうかい。なら、明日も覚悟しておいておくれよ。もっといい場所へ、私が案内してあげるから」
恋を知った女斥候と、未だ戦いと効率に忠実な少年の、奇妙で幸福な夜が更けていく。




