【3話】薬の勇者(後編)
石造りの屋敷の前に、正義は立っていた。
重厚な扉を、三度叩く。
しばらくして、内側から足音。
扉が開く。
「……どなたでしょう?」
現れたのは、あの女――薬の勇者。
正義は一礼する。
「娘が、病に伏しています。あなたの薬を頂きたい」
勇者は目を細める。
「……娘?」
ほんの一瞬、視線が揺れる。
だがすぐに、柔らかな笑みに戻る。
「もちろんです。救える命は、救いたい」
正義は静かに言葉を重ねる。
「ただし……副作用はありませんね?」
空気が、わずかに変わる。
勇者の微笑が、ほんの少しだけ硬くなる。
「……ええ。安全な薬です」
正義は、その目を見据えた。
「なら、安心だ」
二人の間に、沈黙が落ちる。
勇者は扉を大きく開き、柔らかな声で言った。
「娘さんのご容態は?」
正義は伏し目がちに答える。
「昨日までは普通でした。熱もなく、咳もない。ただ……」
勇者は静かに頷く。
「ただ?」
「今朝になって、急に体が痙攣し、皮膚が変色し……獣のように暴れ出した」
その瞬間。
勇者のまぶたが、ぴくりと震える。
ほんの刹那。
だが確かに、目の奥の光が変わった。
「……それは、珍しい症例ですね」
声色は変わらない。
だが、先ほどまでの柔らかな温度が消えている。
正義は続ける。
「薬は飲んでいません。ですが……あなたの被験体募集の話を聞いていた」
勇者の唇が、わずかに吊り上がる。
「なるほど」
その笑みは、もはや“救う者”のものではなかった。
「それで……娘さんは今、どうなっていますか?」
正義は勇者の目を見据える。
「……斬りました」
正義の声は、静かだった。
夜風が松明を揺らす。
勇者の瞳が、わずかに細くなる。
「……斬った?」
その声音には、初めて明確な違和感が混じる。
「あり得ません。あの変異体は――」
一瞬、言葉を止める。
だが、もう遅い。
「……そこらの冒険者では手に負えないはず」
正義はわずかに口角を上げる。
「よく知っているな」
沈黙。
勇者の表情から、慈愛が完全に消える。
観察する目。
測る目。
研究者の目。
「……あなた、何者ですか?」
正義は一歩、屋敷の中へ踏み込む。
「娘は、自分で死を望んだ」
空気が重く沈む。
「だから俺が引き受けた」
勇者の唇が、冷たく歪む。
「……やはり、ただの父親ではない」
勇者の唇が、わずかに歪む。
「……面白い方ですね」
次の瞬間。
足元の魔法陣が淡く光り、勇者の姿が屋敷の奥へと滑るように消えた。
「……逃げるか」
正義は迷わず屋敷へ踏み込む。
廊下は静まり返っている。
だが――奥から、低い唸り声。
扉の向こうで、何かが動く音。
正義は剣を抜く。
扉を蹴り開ける。
その瞬間、三体の影が飛び出した。
歪んだ骨格。
裂けた皮膚。
理性のない目。
「……失敗作か」
一体が天井を蹴り、もう一体が床を滑るように突進する。
連携している。
正義は符を放つ。
「縛れ」
淡い光が実験体の足を絡め取る。
一体目――首筋へ一閃。
二体目――踏み込み、胴を斬り払う。
三体目が背後から牙を剥く。
正義は振り向きざまに剣を引き、静かに貫いた。
血が床を染める。
重い沈黙。
奥の扉の向こうから、勇者の声。
「やはり……ただ者ではありませんね」
正義は剣を払う。
「片付けただけだ」
廊下の奥、灯りが揺れる。
実験室の扉が、ゆっくりと開く。
勇者は白い外套を翻し、無数の薬瓶が並ぶ棚の前に立っていた。
足元には、先ほど斬られた実験体の残骸が引きずられている。
「……所詮は失敗作です」
その声に、情はない。
「適合率が低い個体は、どうしても理性を保てません」
正義は黙って剣を構える。
勇者は小さな硝子瓶を一本取り上げた。
中の液体は深紅に輝いている。
「ですが――」
瓶の栓を抜く。
甘い匂いが、部屋に広がる。
「私は違う」
一気に飲み干す。
瞬間。
勇者の体を淡い光が包む。
血管が浮かび上がり、魔力が渦を巻く。
床に落ちた実験体の血が、逆流するように勇者の傷へ吸い寄せられる。
「再生能力上昇。戦闘能力、倍加」
勇者の瞳が、金色に染まる。
「研究者である前に、私は勇者です」
空気が震える。
床がひび割れる。
正義は目を細める。
「……なるほど」
勇者は微笑む。
「あなたがどれほど強くとも、私は死にませんよ」
正義は一歩、前へ。
「死なねえ奴は、いない」
松明の火が大きく揺れた。
次の瞬間、勇者の姿が、視界から消える。
次の瞬間、横薙ぎの衝撃。
正義は剣で受ける。
床が砕け、壁がひび割れる。
「どうしました?」
勇者の声は軽い。
拳が閃く。
正義は踏み込み、腹部へ一閃。
肉を裂く感触。
確かに深い。
だが――
傷口が蠢き、瞬時に塞がる。
血が逆流し、皮膚が再生する。
「無駄です」
勇者の膝が正義の脇腹を打つ。
鈍い衝撃。
距離を取る。
呼吸を整える。
もう一度、踏み込む。
斬る。
腕を落とす。
だが落ちた腕が床を跳ね、肉が伸び、元に戻る。
再生。
再生。
再生。
部屋は、斬撃の跡と血の匂いで満ちていく。
勇者は笑う。
「消耗するのは、あなたの方です」
正義の額に汗が滲む。
符を放つ。
光が勇者の動きを縛る。
その隙に、首を刎ねる。
頭部が転がる。
一瞬の静寂。
だが、胴体が蠢く。
肉が伸び、頭部が吸い寄せられる。
繋がる。
勇者は、ゆっくりと目を開く。
「ほら、死にません」
正義は無言。
ただ、剣を構え直す。
床に刻まれた斬撃の数は、すでに二十を超えている。
消耗戦。
時間だけが、確実に削られていく。
勇者の動きは衰えない。
だが――
正義は気づいている。
再生のたびに、わずかに魔力の波が乱れることを。
ほんの、一瞬。
「……なるほど」
次の斬撃は、試すための一撃。
勇者が嗤う。
「何度やっても同じです」
正義の目が、静かに細まる。
勇者が再び踏み込む。
拳が空気を裂く。
正義は受け流しながら、小さく呟く。
「――朽ちろ」
剣身に、鈍い紫の光が走る。
腐食補助。
高位の付与術。
目に見えぬほど静かな魔法。
勇者が嗤う。
「何をしても――」
言葉の途中。
正義の刃が、肩口を斬り裂く。
深い一撃。
肉が裂け、血が噴き出す。
勇者は余裕の笑みを浮かべたまま――
止まる。
傷口が、閉じない。
皮膚が蠢く。
だが、再生しない。
代わりに、黒く変色していく。
腐る。
勇者の目が、初めて大きく見開かれる。
「……何を、した」
正義は構えを崩さない。
「再生は、治癒じゃねえ」
もう一歩、踏み込む。
二撃目。
腹部を深く斬る。
今度は明確に、肉が崩れ落ちる。
再生の光が走る。
だが、腐食がそれを食い止める。
傷は閉じず、広がる。
勇者の呼吸が乱れる。
「あり得ない……この薬は、完全なはず……」
正義の声は低い。
「完全な薬は、ねえ」
三撃目。
腿を断つ。
勇者が膝をつく。
床に、腐臭が漂う。
再生と腐食が拮抗し、勇者の身体は内部から崩れ始める。
「……あなたは、何者だ」
正義は答えない。
ただ、剣を振り上げる。
腐食の光が、刃を鈍く染める。
数分後。
屋敷の奥は、血と腐臭に満ちていた。
勇者は床に転がっている。
四肢は削がれ、再生は腐食に阻まれ、ただ肉が崩れていく。
「やめ……てくれ……」
さきほどまでの余裕はない。
声は震えている。
正義は無言で立つ。
勇者は荒い息のまま、言葉を吐き出す。
「私は……元の世界では……薬剤会社の研究員だった」
途切れ途切れ。
「新薬を作っても……承認は下りない……副作用があると……切り捨てられる」
笑う。
乾いた笑い。
「完璧じゃなければ……意味がないと」
血が喉を満たす。
「だが、完璧な薬など……存在しない……!」
正義は動かない。
勇者の目が、どこか遠くを見る。
「転生して……やっと自由になれた……倫理も、規制も、上司もいない……」
息が荒くなる。
「救える命があった……実験すれば、強くなれる人間がいた……」
沈黙。
勇者の目に、狂気が戻る。
「進化だ……私は人類を一段、上へ押し上げようとしただけだ……!」
正義が一歩、近づく。
勇者は初めて、恐怖の色を浮かべる。
「ま、待て……私はまだ研究ができる……娘も治せる……お前の力も強化できる……!」
静かな声。
「治す気はなかっただろ」
勇者の喉が鳴る。
「……実験体としては、貴重だった」
沈黙。
正義の剣が、ゆっくりと振り上げられる。
「自由に実験ができる世界、か」
低く。
「だからって、他人を材料にしていい理由にはならねえ」
正義は静かに勇者の額に剣を降ろす。
「罪は世界を選ばねえ」
勇者に止めをさす。
正義は夜風に溶けるようにその場を離れた。
血の匂いが、まだわずかに残っている。
空間が歪む。
視界が切り替わる。
現れたのは、あの通り。
灯りは柔らかく、現実とも異界ともつかない光を放っている。
「……換金だ」
店の扉を押す。
内部は無重力のように揺らぐ空間。
棚には、世界の断片が無造作に積まれている。
声が響く。
「いらっしゃい、監視者様。本日は?」
正義は無言で、包みを置いた。
布がほどける。
中から現れたのは、傷だらけの鎧。
深い裂け目。
焼け焦げた跡。
胸部には、大きな亀裂。
「……形見ですか?」
声が、わずかに柔らぐ。
正義は答えない。
「査定を行います」
空間から現れた指先が、鎧に触れる。
魔力の残滓が淡く弾ける。
数秒。
「二万五千円」
静寂。
「戦闘用としての価値は低いですが、魔力耐性は高い。世界補正込みの価格です」
正義は鎧を見下ろす。
ほんの一瞬だけ。
「……十分だ」
鎧は光に包まれ、粒子となって消える。
代わりに、現実世界の紙幣が一枚ずつ揃う。
正義はそれを受け取り、懐へしまう。
「ありがとうございました、監視者様」
正義は振り返らない。
店を出る。
外の空気は、静かだ。
誰にともなく、呟く。
それでも、足は止めない。
翌朝。
オフィスはいつも通りのざわめきに包まれている。
正義は席につき、パソコンを立ち上げた。
「おっはよぉ〜、正義ちゃぁん♡」
背後から華やかな声。
振り向かなくても分かる。
「おはようございます、部長」
今日も完璧なスーツ。 ほのかに甘い香水。
部長は正義のデスクに両手をつき、顔を覗き込む。
「ねぇ」
嫌な予感しかしない。
「この前、あたしがあげたチョコ、食べたわよね?」
「いただきました」
「“いただきました”じゃなくて?」
部長は目を細める。
「お・か・え・し♡」
正義はキーボードを打つ手を止めない。
「義理ですよね」
「義理でも気持ちは本気よ?」
即答。
「社会人のバレンタインは戦争なの」
何のだ。
部長は腕を組み、うっとりと言う。
「三倍返し、期待してるから♡」
「物価高です」
「現実的なこと言わないの!」
周囲の社員がくすくす笑う。
部長はさらに顔を近づける。
「ちなみに他に誰からもらったの?」
「答える義務はありません」
「冷たっ!」
正義はようやく顔を上げる。
「業務に支障が出ます」
部長は数秒じっと見つめてから、ふっと笑う。
「……ほんと、鉄みたいな子ねぇ」
一歩引く。
「ま、いいわ。楽しみにしてるから」
「検討します」
「それ絶対返さないやつ!」
部長は笑いながら去っていく。
正義は小さく息を吐く。
キーボードを打つ音が戻る。
「……平和だ」
ちょっと風邪引きまして続きが直ぐ出来なくて申し訳ありませんでした。




