凪の窓辺に、言葉を置く
潮の匂いが、肺の奥に刺さった。
「……潮の匂い、こんなに刺さったっけ。懐かしいより先に、『戻ってきてしまった』って思う」
篠原真琴は駅前の小さなロータリーで立ち止まり、喉の奥に残っている東京の乾いた空気を飲み込んだ。休職届を出した日から、時間は進んでいるのに自分だけが止まっている気がした。失敗の記憶が、波のように寄せては返す。編集者として積み上げてきたはずの自信は、ある案件での判断ミスと、取り返すために走り続けた末の燃え尽きで、砂粒みたいに指の間からこぼれ落ちた。
祖母が遺した喫茶店「凪」。その鍵の感触を思い出しているのに、手のひらは他人のものみたいに冷たかった。
「『凪』……鍵、重い。音だけ大きいの、なんで」
古い木の扉が軋み、真琴の帰郷を歓迎するより先に、店の静けさが息を詰めさせた。埃の匂い、時間の匂い。カウンターの向こうに並ぶカップは、祖母が最後に磨いた日から止まっている。
「埃……時間が積もってる。おばあちゃんのカップ、まだここにある」
片付けるために戻ってきたのだ、と真琴は自分に言い聞かせる。遺品整理。建物の処分。必要な手続き。感情を挟まない。
奥の棚に、紐で括られた束があった。紙の重みが、妙に生々しい。
「手紙……束ねてある。差出人、ない封筒も混じってる。整理、整理のため。……一通だけ」
封を切る音が、店内で増幅した。便箋には、海辺の具体が書かれていた。防波堤の端、赤い錆のところ。待つ、という言葉。
「『防波堤の端、赤い錆のところで待つ』……待つって、誰を」
祖母の人生に、こんな動詞があったのか。待つ。祈る。諦める。真琴が知らない祖母の時間が、紙の上に残っている。
そのとき、外から声がした。
「……篠原?」
真琴が振り向くと、入り口の光の中に、カメラを肩に掛けた男が立っていた。見慣れた輪郭なのに、今の自分がその名前を呼んでいいのか迷う。
「朝倉……航? なんでここに」
「観光協会の撮影帰り。……『凪』、前通ったら窓、割れてたから」
同級生。親しかったわけではない。けれど、名前を呼ぶだけで、町の時間が急に近づく。
「ああ、見ての通り。補修、頼もうと思ってた。私、片付けが終わったら東京に戻るから」
先に線を引く。安全のための線。自分が崩れないための線。
「戻るんだ。……じゃあ、手伝うのも撮影のついででいい? 脚立、車にある」
「ついで、ね。助かるけど、無理しなくていい」
「無理じゃない。……ここ、カウンターの端、ちょっと欠けてるだろ。昔から」
航の指がカウンターの欠けをなぞる。祖母の店を、まるで自分の記憶の一部みたいに扱う手つき。
「……よく覚えてるね。私は、そういう細部、今は見ないようにしてた」
「見ないようにしても、残るから。写真みたいに」
「……その言い方、ずるい」
真琴は手紙の束を反射的に奥へ押し込んだ。
「(手紙の束を奥にしまいながら)これは……あとで」
「今、何か隠した?」
「隠してない。整理の途中。……見られたくないだけ」
「分かった。踏み込まない」
「……ありがとう」
踏み込まない、という言葉に救われるのが悔しい。東京では、踏み込まれ、踏み込み、締切と成果の名のもとに人の領域を削ってきた。ここでは、踏み込まないことが優しさになる。
夜、片付けの途中で真琴はまた手紙を開いた。祖母の若い頃の声が、生々しく残っている。防波堤の潮の匂い、古い映画館跡の暗がり、夏祭りの屋台の油の匂い。なのに、相手の名前だけが頑なにない。
「(夜)……祖母の手紙、思ったより生々しい。場所の匂いまで書いてある。なのに、名前だけない」
航は脚立を畳みながら、短く答えた。
「手紙、読んでるんだ」
「読まないと、片付かないから。……言い訳だけど」
「言い訳でも、進むならいい」
差出人不明の封筒が混じっていた。筆圧の強い短い文。
「差出人不明の封筒にね、『約束を守れなくてすまない』『君を守るためだ』って。短いのに、引っかかる」
「守るために、離れる。……ありそうで、きついな」
「“いい話”にしそうになる自分が嫌。恋って言えば綺麗になるから」
「綺麗にすると、残った方が消えるもんな」
航がそんなことを言えるのに、普段は黙るのが不思議だった。
「……航、そういうこと言えるのに、なんで普段は黙るの」
「言うタイミング、外す。いつも」
手紙の場所を辿るには、町の記憶が必要だった。真琴は古い地名の断片を頼りに、小浜恒一を訪ねた。町の古老で、再開発の議論にも顔が利く人物だと航が言った。
「小浜さんに聞きに行く。手紙の地名、今と違うみたいだし」
「俺も行く。あの人、余計なこと言わないけど、必要なことは教える」
小浜は、真琴が差し出した便箋を一瞥し、淡々と指で地図をなぞった。
「その呼び名は今は使わん。『塩見の小道』だ。埋め立てで消えたがな」
「じゃあ、手紙の『映画館跡』は……?」
「あそこは更地になって倉庫が建った。跡形はない。だが、風の抜け方は同じだ」
祖母のことを尋ねると、小浜は少しだけ視線を落とした。
「祖母……澪のこと、何か知ってますか」
「人の話を急かさない人だった。それだけで十分だろ」
「……恋の話じゃなくていいんです。店を数日閉めた時期があったって、聞いて」
「あった。戻ってから、笑い方が少し変わった気がした。気がした、だ」
帰り道、航が言った。
「記録が残ってない時代の話は、こうやって拾うしかない」
「……編集と似てる。断片を並べて、意味を探すところ」
「写真も、並びで変わる」
航の写真を見せてもらったとき、真琴は息を呑んだ。観光向けの明るい海だけではない。干潮の泥の重い色、誰もいないバス停の影、雨上がりの路地の水たまり。町の寂しさを隠していないのに、突き放してもいない。
「航の写真、見せて。町の」
「はい。観光用だけど、明るいのばっかじゃない。干潮の泥も、バス停の影も撮った」
「……この並び、順番変えると、寂しさの質が変わる。ここに人の気配を一枚挟むと、逃げ道ができる」
「言葉にされると、自分でも見えてなかったものが見える。……怖いな、それ」
「怖いのは、見えないままの方だよ」
手紙にあった防波堤へ二人で向かった。赤い錆の場所は、今もそこにある。けれど、待っていたはずの人の影はない。
「防波堤、行く? 手紙の場所」
「行く。……でも、見つからなくても責めないで。私、自分のことですぐ“失敗”って決めるから」
「責めない。撮るだけ」
帰りに「凪」で一息ついた。営業はしていないが、壁と窓があるだけで、そこはまだ“居場所”の形を保っている。
「営業はしないけど、休憩くらいはしていいよね。インスタントで悪いけど」
「十分。……俺、子どもの頃ここで泣き止んだことある。母親に連れられて」
「……凪って、遺品じゃなくて、避難所だったんだ。町の」
「そう。だから、なくなるの、嫌なんだと思う。俺も」
数日後、航が持ってきた話は、真琴の線引きを揺らした。
「観光協会からさ、『町の記憶を集める企画』って話が来てる。写真展。小冊子も作りたい。真琴、編集、手伝ってほしい」
「……私は、東京に戻る前提で——」
「前提は分かってる。期限付きでもいい。やれる範囲で」
期限付き。その言葉が、なぜか優しさに聞こえた。東京では期限は刃だった。ここでは、守る枠にもなり得る。
「手紙の手がかり集めるなら、町の人の協力が必要だし……写真展を口実に聞き書きできる」
「じゃあ、決まり。写真と短い文章で、残す」
「“誰の言葉を、どう残すか”は責任があるよ。軽くやらない」
「俺も。“撮っただけじゃ届かない”の、最近分かってきた」
その打ち合わせの最中、真琴のスマホが震えた。東京の編集長、相沢からの電話。
「篠原。体調はどうだ。復帰の件だが、待てるのは来月の十五日までだ。返事をくれ」
「……分かりました。検討して、必ず」
切った瞬間、指先が冷えた。
「……今の、東京?」
「うん。復帰の期限。大丈夫、指が冷たいだけ」
「……見て見ぬふりしていい? 今、俺が何か言うと、変なこと言いそう」
「それ、正直で助かる」
聞き書きは、真琴にとって仕事と似ていて、違った。話す人の言葉を切り取るのではなく、時間ごと受け取る必要があった。喫茶店「凪」に通っていた人々は、澪のことを口々に言った。答えを出させない聞き方。帰り際に小さな包みを持たせる手。急かさない沈黙。
「(聞き書きの帰り)みんな、祖母のこと“答えを出させない聞き方”って言う。私、答え出させる仕事してきたのに」
「真琴の聞き方、今日は優しかった。編集者の刃、しまってた」
「しまったんじゃない。研いでないだけ」
夜、片付けの途中で帳簿の間からメモが出てきた。澪の字。
「(帳簿からメモを見つけて)……『守るって、黙ることじゃない』。祖母の字」
航は何か言いかけて、黙った。
「今、何か言いかけたよね」
「言うと、俺のことになる気がした。まだ整理できてない」
「整理できてなくてもいい。黙る方が、あとで増えるから。沈黙」
「……分かった。少しずつ話す」
手紙の内容から、澪が想いを寄せていた相手が町を出たことが浮かび上がった。夢のため、と片付けるには、文面が切実すぎる。航もまた、夕方の浜辺でぽつりと言った。
「俺も、一回町を出た。家の事情で。戻ってきた今も、根を張るほど失うのが怖くなる」
「……分かる。私も東京で燃え尽きて、戻ってきたのに、また戻れって言われてる。どこにいても、失うのが怖い」
「夕方の波の音、都合よく大きいな。言いたいこと、飲み込める」
「飲み込むと、喉が痛いよ。……でも今は、波に任せる」
祖母の手紙の束の中に、空気の違う数通があった。そこには別れが書かれている。相手の文面には「君を守るために出る」とあり、澪は「縛りたくない」と返していた。
「(手紙を読みながら)……別れ、受け入れてる。『縛りたくない』って返してる。強い、って言えば綺麗だけど」
「強いって言葉、孤独の言い換えになる時ある」
「……やめて。私が言おうとしてたこと、先に言わないで」
「ごめん」
写真展の準備は進んだ。航の写真と、真琴が整えた短い文章。町の記憶が、並びによって呼吸を始める。けれど同時に、別の影が差した。
小浜が、再開発の資料を持ってきたのだ。
「再開発が動く。『凪』も取り壊し対象に入り得る。期限は、お前らの写真展の頃だ」
「……同じ日に、全部来るの? 店も、写真展も、東京の返事も」
航は「凪」を撮り始めた。毎日、違う光で、同じ窓を。
「壊れる前に撮っておきたい。毎日、撮る」
その言い方が、真琴には諦めに聞こえた。
「その言い方、諦めてるみたいで嫌。残したいんじゃないの?」
「残したいよ。……残せないかもって思うと、先に固くなる。俺の悪い癖」
祖母の別れと、建物の別れが重なり、真琴の胸の奥で何かが崩れる。
「祖母の手紙の別れと、店の別れが重なる。胸の奥で、何か崩れる音がする」
「崩れる前に、支える方法、探そう」
制作が佳境に入った深夜、「凪」の片付けをしながら、真琴はとうとう言葉の端を掴んだ。
「……航がいてくれて助かってる。ほんとに」
航は返事をせず、呼吸だけが聞こえた。
「私、たぶん——」
告白の形になる前に、航の言葉が飛んだ。
「どうせまた東京へ戻るんだろ」
「……っ。そうやって、先に決めないで」
「決めてない。怖いだけだ。言い方、最悪だった」
「私も。“一時的な帰郷”って線引きが、今いちばん私を傷つけてる。……でも、すぐ消せない」
「……ごめん」
謝罪が床に落ちて、拾われないまま夜が更けた。二人は同じ部屋にいるのに、距離だけが広がっていく。
写真展の構成を最終決定する日、真琴は一つの組み合わせを提案した。祖母の手紙の一節と、航が撮った「凪」の窓辺。
「展示の中心、これにしたい。『君を守るためだ』って一節と、航が撮った『凪』の窓辺」
「写真が、初めて言葉を必要としてる感じがする。……いい」
「編集後記も、綺麗にまとめない。孤独と、選択の重さを書く」
「真琴が書くなら、読める人がいる」
けれど時間は容赦がなかった。相沢からの連絡は、最後通告に近い。
「篠原、最終確認だ。十五日までに復帰可否を決めろ。曖昧なままでは回せない」
「……はい」
航はコーヒーを淹れた。
「コーヒー淹れる。言葉は……あとで」
「うん。今は、温度だけでいい」
写真展当日、会場には町の人々と観光客が入り混じり、久しぶりの活気が生まれた。壁には航の写真。机の上には小冊子。中心には、手紙の一節と窓辺の写真が並ぶ。
人は“いい話”を求める。真琴はそれが怖かった。祖母の人生が、消費される速度で流れていくのが。
そこへ、物腰の静かな高齢の男性が現れた。展示の前で立ち尽くし、長い時間、動かなかった。
「……この一節を、ここに置いたのか」
声をかけると、男は名乗った。三崎敬一。差出人本人ではないが、事情を知る関係者だという。
「あの、よろしければ。手紙のこと、ご存じですか」
「差出人本人ではない。だが、事情は知っている。……彼が町を出たのは、夢のためだけじゃない」
真琴の背中が冷たくなる。航も黙って、その言葉を待った。
「澪さんの家族の件が、当時表沙汰になりかけた。彼は、澪さんを守るために距離を取る必要があった」
「守るために、黙って、離れた……。それで、戻れなくなった」
「そうだ。正しくても、優しくても、代償は残る」
航が、珍しく言葉を落とした。
「黙って離れるのは、守ることじゃなくて……置いていくことにもなる」
真琴は、祖母の沈黙が優しさだけではなかったことを知った。現実の痛みと、恐れと、逃げ場のなさと結びついた沈黙。祖母は選んだのか、選ばされたのか。その境界は曖昧で、だからこそ重い。
展示の終盤、予定していた朗読の時間が来た。真琴は小冊子を手に取り、会場の前へ立った。
「(会場で)……編集後記、読みます」
声が震えないように息を整え、言葉を置く。
「『守るために黙ることは、相手の時間を奪う。沈黙は優しさにもなるが、傷にもなる。澪は選んだ。選ばされた部分も含めて。残った孤独を、綺麗にしないで抱える。』」
会場が静まった。誰かの咳払いさえ遠い。
読み終えた真琴は、航の方を向いた。線引きで守ってきた自分を、今度は切らないために。
「……私は逃げない。東京に戻るかどうかじゃなく、どこで生きても、あなたに向き合う。航」
航は一瞬だけ目を閉じ、真琴の腕を引いた。
「こっち、来て。……人の目、外そう」
会場のざわめきの外、廊下の端で、航は初めて言葉を選んだ。
「失うのが怖くて、先に手放そうとしてた。あの夜の言い方、最低だった。ごめん」
「私も、線を引いて安心したかった。……でも、線って刃だね。自分も切る」
「じゃあ、ちゃんと話して、残ろう。写真でも手紙でもなく、今の言葉で」
「うん。今の言葉で」
その瞬間、真琴の中で“戻る”“残る”という二択がほどけた。場所ではなく、向き合い方が問題だったのだと、ようやく理解した。
写真展の反響は予想以上だった。小冊子は追加印刷になり、観光協会は次の連載企画を求めた。真琴は東京へ電話をかけた。相沢の声は相変わらず合理的で厳しい。
「(電話)相沢さん。退職じゃなくて提案があります。町に拠点を置いて、地方と東京をつなぐ編集の仕事に切り替えたい。企画案、運用、数字も出します」
「合理性は? 速度は落ちる。成果の測り方も変わるぞ」
「速度だけでは測れない価値を、測れる形にします。取材網、連載枠、イベント連動。ここでしか拾えない言葉があります」
沈黙のあと、相沢は短く言った。
「……分かった。条件を詰める。逃げるためじゃないなら、やってみろ」
電話を切った真琴は、胸の奥に溜まっていた息を吐いた。逃げではないと自分で言えたことが、何よりの回復だった。
一方で、「凪」の完全保存は叶わなかった。再開発の波は止められない。けれど、全てが失われるわけでもないと小浜が道を作ってくれた。カウンターと窓枠、いくつかの家具と、手紙と写真を展示できる小さなスペースとして移設する計画がまとまった。
「『凪』、完全保存は無理でも、カウンターと窓枠、移せるって。小さなスペースにする」
「残るかたち、作れるんだね。全部じゃなくても」
「俺は記録する。壊れるところも、移るところも」
「私は編集する。町の人の言葉を、消費じゃなくて手渡せる形にする」
解体の日、航は黙々とシャッターを切った。木材が外される音、埃の舞う光、最後まで残った窓の枠。真琴はその場に立ち、祖母の沈黙と、ここを訪れた人々の声を、ただ胸の中で繋げた。守るための別れが残したものと、話すことで守れるもの。その違いを、もう見ないふりはしない。
新しい「凪」は、海沿いの小さなコミュニティスペースとして生まれ変わった。移設された窓枠は、以前と同じように海風を受け、光の角度だけが少し違う。カウンターは短くなったが、手を置けば木の温度が残っている。
航は隣の作業台でフィルムを現像していた。薬品の匂いが、潮の匂いと混じる。真琴は便箋を広げ、ペンを握った。
「(新しい『凪』で)手紙、書く。宛先は未来の自分と……隣の航。『離れないために、ちゃんと話す』」
書き終えた文字は、祖母の筆跡とは違う。けれど、祖母が言えなかったかもしれない言葉を、今の自分は言える。
封をしようとした手元を、航の声が止めた。
「封、して。……今度は、黙っていなくていい」
真琴は頷き、封を閉じた。
窓から入る海風が、紙の端をそっと揺らす。揺れは、別れの予感ではなく、これから続く会話の合図のように感じられた。真琴は手紙を机の引き出しにしまい、隣で写真を乾かす航の横顔を見た。
ここで暮らす。東京とも繋がりながら。言葉を仕事にしながら、言葉で誰かを置き去りにしないように。
祖母が残した窓辺に、真琴は新しい誓いを置いた。離れないために、ちゃんと話す。静かな決意が、潮騒の中でほどけずに残った。




