『隠居魔導師の静かな日々』
『隠居魔導師の静かな日々』
「あの、本当にこれだけでいいんですか?」
少女の声に俺は薪割りの手を止めて振り返った。エルフの耳をした村娘のリーナが、申し訳なさそうに小さな銅貨を握りしめている。
「ああ、気にするな。風邪薬なんて簡単なものだ」
俺は斧を置いて汗を拭った。三十路を過ぎたこの体は前世の運動不足が祟ってか、薪割り程度でも息が上がる。魔法で何でもできるからといって体を動かさないのは良くないと、最近つくづく思う。
「でもお父さんの病気があっという間に治って……本当に魔法使いじゃないんですか?」
リーナの瞳が好奇心で輝いている。この村に住み始めて三年、俺は一応「薬草に詳しい元商人」ということになっている。まあ、嘘じゃない。前世では製薬会社のサラリーマンだったし、この世界に来てからは確かに薬草の知識も身につけた。
「魔法使いだったら、こんな辺境の村にいるわけないだろう?」
俺は苦笑いを浮かべながら答える。確かに俺は魔法使いだ。それもこの世界では「大賢者」とか「魔導王」とか呼ばれるレベルの。でもそんなことを言ったら平穏な生活が台無しになる。
「そうですよね……」
リーナは少し残念そうにつぶやくと、丁寧にお辞儀をして帰っていった。
俺は再び薪割りに戻る。単調な作業だが、これが意外と心を落ち着かせてくれる。前世では毎日深夜まで残業で休日も接待ゴルフ、ストレスで胃に穴が開きそうだった日々が嘘のようだ。
「フォルク、今日も薪割りか」
振り返ると村長のバルドが苦笑いを浮かべて立っていた。
「村長さん、お疲れさまです。薪はいくらあっても困りませんからね」
「お前さんは働き者だな。元商人とはいえ、こんな辺境の村でよく満足できるもんだ」
バルドは俺の肩に手を置く。この優しい老人は、身元の怪しい俺を何の疑いも持たずに受け入れてくれた。
「都会の喧騒に疲れましてね。ここの静けさが性に合ってるんです」
「そうか……ところで頼みがあるんだが」
バルドの表情が少し曇る。
「隣町のクレアハイムから使者が来てな。どうやら疫病が流行ってるらしい。お前さんの薬草の知識を借りたいんだが……」
疫病か。俺の【万能解析】スキルなら原因も治療法もすぐに分かるだろうが、あまり目立つ真似はしたくない。
「分かりました。明日にでも様子を見に行きましょう」
「すまんなフォルク。本当は魔法使いでも雇いたいところなんだが、この辺りにゃそんな立派な人はおらんからな」
魔法使いなら目の前にいるんですけどね、と心の中で苦笑いする。
「大丈夫ですよ。きっと何とかなります」
俺は村長に微笑みかけた。疫病程度なら正体がバレないように上手く治療してみせる。この平穏な日々を守るためにもな。
夕日が山の向こうに沈んでいく。今日も一日が終わる。明日からはちょっと忙しくなりそうだが、それでも俺は満足だった。
前世では味わえなかった、こんな穏やかな時間を大切にしたい。
例え俺が、かつて魔王を一人で倒し世界を救った「最強の大賢者」だとしても――
*****
翌朝、俺は村長と一緒にクレアハイムへ向かった。馬車で二時間ほどの距離だが、普段は賑やかなはずの街道が妙に静まり返っている。
「人通りが少ないですね」
「ああ、疫病のせいで商人たちも近づかなくなったんだろう」
バルドが心配そうに呟く。俺は密かに【万能解析】を発動した。半径十キロ圏内の生命反応を探る。確かに人の数が異常に少ない。しかし、それ以上に気になるのは……。
「村長さん、あそこに見えるのがクレアハイムですか?」
「そうだ。いつもなら煙突から煙が上がってるんだが……」
街全体が死んだように静まり返っている。俺の【万能解析】が警告を発していた。これは普通の疫病じゃない。
街の入口で顔を布で覆った衛兵が俺たちを止めた。
「すみません、今クレアハイムは外部の人間の立ち入りを制限しています」
「ミルフォード村の村長のバルドだ。薬草に詳しい者を連れてきた」
衛兵の目が俺に向けられる。疲れ切った表情だった。
「……分かりました。でも責任は負えませんよ」
街に入るとすぐに異変に気づいた。道端に倒れている人々の症状がどう見ても疫病じゃない。俺は【万能解析】を集中的に発動する。
『呪詛による生命力吸収……術者は近距離にいる可能性が高い』
スキルからの情報が頭に流れ込む。これは魔法による災害だ。しかもかなり高レベルの呪術師の仕業だろう。
「フォルク、どうだ? 何か分かるか?」
バルドの声で現実に戻る。俺は慎重に言葉を選んだ。
「これは……普通の病気じゃありませんね。何らかの毒、もしくは……」
「毒?」
「症状の現れ方が不自然です。普通の疫病なら段階的に広がるものですが、これは一気に街全体を覆っている」
街の中心部に向かう途中、一人の中年男性が俺たちに駆け寄ってきた。
「あなたたち、外から来た方ですか? お願いです、娘を助けてください!」
男性は必死の表情で俺の袖を掴む。
「落ち着いてください。どんな症状ですか?」
「三日前から急に熱を出して、今朝からは意識も朦朧として……街の医者は匙を投げてしまって」
俺はバルドと目を合わせる。村長は頷いた。
「案内してください」
男性の家は街の商人街にあった。中に入るとベッドに十代後半の少女が横たわっている。【万能解析】で状態を確認すると、予想通りだった。
『呪詛による生命力の強制吸収。このまま放置すれば24時間以内に死亡』
「お父さん、少し席を外していただけますか? 集中して診察したいので」
「は、はい!」
男性が部屋を出ると、俺は小声でバルドに話しかけた。
「村長さんも外で見張っていてください。誰か来たら咳払いで知らせてください」
「分かった」
一人になると俺は手を少女の額に当てた。【完全治癒】を最小限の魔力で発動する。呪詛を解くのは簡単だが、あまり劇的に治すと怪しまれる。
少女の頬に血色が戻り呼吸が安定してきた。よし、これで大丈夫だ。
「……あの、私……」
少女が目を開けた。
「気がついたか。もう大丈夫だ。ゆっくり休んでいれば完全に回復する」
「ありがとうございます……でもお父さんは? 街の人たちは?」
聡明な少女だな。自分のことより他人を心配している。
「順番に治していく。君は心配しないで休んでいなさい」
俺が部屋を出ると少女の父親が飛び上がった。
「どうでしたか?」
「大丈夫です。特殊な薬草の調合薬を使いました。今夜中には熱が下がるでしょう」
「本当ですか?! ありがとうございます!」
男性が深々と頭を下げる。俺は少し罪悪感を覚えた。嘘をついてるわけじゃないが、魔法で治したとは言えない。
街を歩きながら俺は考えていた。この呪詛の術者を見つけて止めなければ被害は拡大する一方だ。しかし正体を隠しながらどうやって……。
「フォルク、どうする?」
「まずは街の中心部で情報収集しましょう。街長か有力者に話を聞いてみたいと思います」
バルドが頷く。しかし俺の頭の中では別の計画が動いていた。
今夜、皆が寝静まった後でこっそり術者を探し出す。そして誰にも気づかれないように問題を解決する。
前世のサラリーマン時代と同じだ。表向きは平凡に振る舞いながら、裏で問題を解決する。
ただし、今度はパワーポイントじゃなくて魔法を使うけれどな。
*****
その夜、クレアハイムの宿屋で俺は目を覚ました。時計代わりの月の位置から判断すると夜中の二時頃だろう。隣のベッドではバルドが穏やかな寝息を立てている。
俺は音を立てず慎重にベッドから抜け出した。【気配遮断】のスキルを発動し、足音を消して窓から外へ出る。
「さて、と」
夜のクレアハイムは昼間以上に不気味だった。街全体に重苦しい瘴気が漂っている。【万能解析】で呪詛の発信源を探ると、街の北側、貴族屋敷のある一角から強い魔力反応があった。
「あそこか」
俺は屋根から屋根へと飛び移りながら目標地点に向かう。前世では運動音痴だったが、この世界ではステータス強化のおかげで忍者のような動きができる。我ながら現金なものだ。
目標の屋敷は街で一番大きな建物だった。表札を見ると「クレアハイム領主 アルバート・フォン・グラント邸」とある。
「領主が黒幕か? それとも被害者か?」
屋敷に【万能解析】を向けると、地下室に複数の人影があった。そのうち一つから強烈な邪悪な魔力が発せられている。
俺は屋敷の庭に降り立った。警備兵はいるが【気配遮断】があれば問題ない。地下への入口を探していると、庭の隅にある小さな扉を発見した。
扉は魔法で封印されていたが、俺のレベルからすれば子供騙しだ。静かに解除し地下へと向かう。
石の階段を下りていくと奇妙な詠唱の声が聞こえてきた。古代魔法語だが、内容は生命力を吸い取る禁呪だった。
「やっぱりな」
地下室の扉の隙間から中を覗くと、そこには想像以上に酷い光景が広がっていた。
大きな魔法陣の中央で黒いローブを着た男が呪文を唱えている。その周りには十数人の人々が倒れており、全員から薄っすらと光る糸のようなものが男に向かって伸びていた。生命力を吸い取られているのだ。
「街の人たちの生命力を集めて何をしようと……」
男の正面に、豪華な椅子に縛り付けられた中年男性がいた。服装から判断すると恐らく領主のアルバートだろう。
黒ローブの男が振り返る。フードの奥から赤い目が光った。
「ふむ、来訪者か。まさか私の儀式を邪魔しに来たわけではあるまいな?」
バレた。【気配遮断】を使っていたのに、さすがは高レベルの術者だ。
「その人たちを解放してもらおう」
俺は地下室に足を踏み入れた。黒ローブの男がクツクツと笑う。
「解放? 彼らは私の偉大なる実験の協力者だ。この街の人々の生命力を全て集めれば不老不死の秘術が完成する」
「不老不死か。くだらない」
俺の言葉に男の表情が歪んだ。
「くだらない? 貴様のような若造に何が分かる!」
男が杖を振りかざすと黒い雷が俺に向かって飛んできた。俺は軽く手を上げてそれを相殺する。
「な、なに?」
「悪いが時間がないんだ。さっさと降参してくれ」
俺は【時空魔法】で男の周囲の時間を停止させた。動けなくなった男に近づき、魔法陣の核となっている魔石を取り除く。すると人々から伸びていた光の糸がプツプツと切れていった。
「これで呪詛は解除された。君ももう動けるようになったはずだ」
椅子に縛られていた領主が目を覚ます。
「こ、ここは……私は確か屋敷で夕食を……」
「詳しい説明は後で。まずはこの人を街の衛兵に引き渡そう」
俺は黒ローブの男を【拘束魔法】で縛り上げた。意識は戻っているがもう魔法は使えない。
「あ、あなたは一体……」
領主が驚いた表情で俺を見つめる。
「ただの薬草商人です。たまたま通りかかっただけですよ」
「薬草商人があんな魔法を……」
「薬草の中には魔法に似た効果を持つものもあるんです。企業秘密ですけどね」
我ながら苦しい言い訳だが、これ以上詮索されても困る。
「とにかく街の人たちの容体はすぐに回復するはずです。明日の朝には元通りになるでしょう」
俺は術者を担ぎ上げ領主と一緒に地上に向かった。
翌朝、クレアハイムは活気を取り戻していた。人々は街を歩き回り商店も開いている。昨日まで死んだように静まり返っていたのが嘘のようだ。
「フォルク、すごいじゃないか!」
バルドが興奮して俺の肩を叩く。
「本当に薬草だけで治したのか?」
「特殊な調合法がありまして……まあ、運が良かったということで」
宿屋の食堂で朝食を取っていると、昨日治療した少女とその父親がやってきた。
「恩人! 本当にありがとうございました!」
少女は完全に回復し頬がバラ色に染まっている。
「良かった。もう大丈夫そうですね」
「はい! それで、お礼に故郷の特産品を……」
「気持ちだけで十分です。元気になってくれたのが一番のお礼ですよ」
父親が深々と頭を下げる。
「あなたのような方がいらっしゃって本当に良かった。きっと神様が遣わしてくださったのですね」
神様か。まあ間違いではないかもしれない。異世界に転移させたのも神様の仕業だろうし。
帰りの馬車の中でバルドが俺を見つめていた。
「フォルク、お前さんは本当に何者なんだ?」
「何者って、ただの元商人ですよ」
「薬草の知識だけであれほどの治療ができるものか?」
俺は窓外の景色を眺めながら答えた。
「人には誰でも、他人には分からない特技があるものです。僕の場合はたまたま薬草だった。それだけですよ」
バルドはしばらく黙っていたが、やがて優しい笑みを浮かべた。
「そうか。まあ正体なんてどうでもいい。お前さんがいい人だということは分かってるからな」
「ありがとうございます」
俺も微笑み返した。この村長の懐の深さがこの村を居心地良くしているのだろう。
馬車がミルフォード村に到着すると村人たちが出迎えてくれた。リーナも手を振っている。
「お疲れさまでした! クレアハイムの人たちは大丈夫だったんですか?」
「ああ、もう完全に回復したよ」
「すごいです! やっぱりフォルクさんは魔法使いなんじゃ……」
「ただの薬草商人だって」
俺は苦笑いしながら答える。まあ疑われるのも慣れたものだ。
夕方、いつものように薪割りをしていると村の子供たちが集まってきた。
「フォルクおじさん、本当に魔法使いじゃないの?」
「魔法使いだったら、こんなところで薪なんて割らないだろう?」
「でもすごく強そうだよ」
子供たちの純粋な好奇心に俺は心が温かくなった。
「強さっていうのは力があることじゃないんだ。大切な人を守れることなんだよ」
「大切な人?」
「家族、友達、村の人たち。そういう人たちが笑顔でいられるように頑張ること。それが本当の強さだと思う」
子供たちが真剣な表情で頷いている。
俺は斧を置いて空を見上げた。今日も一日が終わる。また一つ問題を解決できた。そして何よりこの平穏な日常を守れた。
これが俺の望んだ生活だ。最強の力を持ちながらそれを表に出すことなく、ただ静かに人々の役に立つ。
前世では味わえなかった心からの満足感がそこにあったのだった。
今後の展開のためにも★評価とお気に入り登録を何卒よろしくお願いします。