3.旅する青年
初めて地上という言葉を聞いたのはまだ旅を始める前だった。
その時、ぼくはおじいちゃんと一緒に生活していた。
おじいちゃんはこの世界についてとても詳しくて、ぼくはその話を半分も理解できなかった。
ただ楽しそうに話すおじいちゃんの姿だけで十分だった。
けれど、その時間も長くは続かない。
おじいちゃんはある日、食料を取りに行ったきり帰ってこなかった。
もしかしたら単に道に迷っただけかもしれないし、はたまたどこかで命を落としたのかもしれない。
おじいちゃんがどうなったかなんて今さら知る由もない。
でもぼくは決めたんだった。
おじいちゃんが語っていた地上に行くって。
そこで、ユキを……本当の空を見に行くんだ――
――
「…………ぁ」
後頭部に鈍い痛みが走る。
「あ、やっと起きた」
「……ユキさん?」
身体を起こそうとした瞬間、背筋に激痛が走る。
「ぅっ……」
「あ、動かないで動かないで!」
ユキさんが慌てて僕に手を添える。当分の間は起き上がれそうにない。
「ここは……どこですか」
何故だか声も上手く出せない。
「発電所に行く前、野営したのって覚えてる?」
思い出せない。
「とにかく、前に立ち寄った場所にいるよ」
彼女はすぐ横で僕の手を握っていた。
「何が、あったのか覚えてないんです」
「あの後、わたし通りすがりの人に手伝ってもらって青年くんを探しに行ってみたら、そーしたら頭から血を流して倒れているんだもの。もうすんごく慌てて戻ってきたんだから!」
初めてユキさんが感情を露わにしている。
「ほんとう、死んじゃったかと思ったよ……」
「……ごめんなさい」
制御盤の前に辿り着いた事までは覚えている。そこで何かがあったみたいだ。
「そっか……ユキさんは無事だったんですね」
「わたしより自分の心配しなさいよ! 旅、続けたいんでしょ」
確かに、このままでは旅どころの話じゃない。
「……いちおう確認してみたけど、数日ちゃんと寝てれば動けるようになると思うよ」
「ユキさん、そういうの分かるんですね」
「生きていくには必要でしょ? 食べ物とかは助けてくれたお兄さんが持ってきてくれたからしばらく保つ。だから今はゆっくり休みなさい」
目覚めたばかりなのにもう瞼が重い。だけどこれだけは確認しないと――。
「……心残りは、どうでしたか」
意識が遠のく。
――ありがとう。お陰で終わりを迎えられた。
意識が切れる直前、そんな声が聞こえる気がした。
再び目が覚めた時、そこに彼女の姿はなかった。
‣
「ユキさん…………?」
荷物は全て残っている。彼女の姿だけがない。
――どうして。
いつ間に身体の痛みは消えている。むしろ普段より動きやすいくらいだ。
自ら動けない彼女がいなくなった。だとすれば考えられるのは何者かに連れ去られた以外にない。
――僕が起きていれば……!
後悔したところで遅い。
慌てて荷物をまとめようとしたところで枕元に置いてあるモノに目が留まる。
「てがみ……?」
誰が残したのか、その疑問の答えはあまりにも一目瞭然だった。
『青年くんへ ささやかなプレゼント』
その一文で始められた手紙にはこう綴られていた。
「おはよう。
君がこの手紙を読んでいるということは、わたしはもう君の横にいない。急に居なくなって動揺した? 仮にそうだとしたら、君にとってわたしは他人じゃなかったってコトだと思う。
さて、前置きはここで終わり。ここから本題に入ろうと思う。
いつだか君は言っていたよね。約束はちゃんと守るんだろうな、ってね。言い方はもう少し柔らかかった気がするけれど、それはどうでもいいや。君は約束通りわたしの心残りを清算してくれた。だから今度はわたしが約束を守る順番ってコト。
そう、わたしが君を地上に連れて行ってあげる。
騙されたと思って言う通りにしてみてよ。あの大きな発電所の制御室まで行ってみて。
そこに行けば君の望む道が見つかるはず」
手紙はそこで途切れていた。
裏面には何も書かれていない。
「……もっと、書くことないんですか」
僕は、君と過ごした時間を鮮明に思い出せるのに。
都市は数日前よりも暗くて寒い。
――なんだか、世界が冷たい。
それは彼女がいないからか、それとも別の理由か。
ほのかに灯っていた街灯もすべて消えている。
発電所は変わらず佇んでいる。けれどその輪郭は先日見た時よりも小さく見えた。
発電所内の灯りもすべて消えている。前回ここにやってきた時にはまだ消えていなかった。
眠っていたにしても、都市の様相が一変してしまうほどの時間は経っていないはずだ。
先の見えない暗闇は、とても不安げで恐ろしくて。
――すごく、懐かしい。
彼女と初めて出会った時みたいに。
今はとても心が温かい。
どれもこれも、彼女と出会ったからだろう。
「やあ、待っていたよ」
制御室前には一人の男。
「……誰、ですか」
そう聞くと彼は少し笑った。
これまでの人生で彼と出会ったことはないはずだだ。
「手紙を読んできたんだろう?」
僕は彼がユキさんの失踪に絡んでいると直感した。
「ユキさんはどこにいる」
「なるほど。彼女の事を『ユキ』と呼んでいたのか。それが本当の名前って訳じゃないだろうに」
「……お前」
「勘違いしないでくれ。こちらには彼女を誘拐する理由がない。理由があったとしても、それこそこちらが誘拐されてしまうだろうけどね」
妙に芝居がかった喋り方をする奴だ。
「彼女はずっと前からこの結末を望んでいた」
男は唐突に語り始める。
「僕が彼女から言いつけられた事は一つ。君に道を選んでもらうことだ」
男はこちらに近づいてくる。
その肌の下に機械的な模様が映っていたような気がした。
「このまま真っ直ぐに進めば君の旅は終点に辿り着く」
男が制御室の中を指差す。
「一方でこちらに進めば――」
指先が僕の後方を指す。
「君はもう一度だけ、彼女に会うことができる」
男は僕を見てにやけている。
おそらくは、選択に悩む僕を見てからかうつもりなのだろう。
なら、僕も答えを見せよう。この問いは彼女からの贈り物なのだから。
――あなたと結んだ約束を、僕は果たしたい。
「…………彼女に、会いたくはないのかい」
後ろから声が聞こえる。
「会いたいですよ。でも約束したんです」
彼女が居なくて焦っていたはずなのに、どうしてこんなに心穏やかなのだろう。
「彼女が旅の終着点に連れて行ってくれるって約束を守ってくれているんです。なら、先に進まないと」
だから振り返る必要がない。
「……そうか。ならいってらっしゃい。きっと彼女も喜んでいるだろうね」
男はそう残すといつの間にか消えていた。
‣
青年くんは結局どちらを選んだのかな。
私が出した最後の二択。きっと彼はこっちには来ない。
どの道、こっちに来たところでもう会えないけれど。
都市の動力源である電源を落とすことで、もう二度と私の人格はコピーされない。つまりこの身体が壊れれば私は死ぬ。
「……ふふっ」
両手を血に染めた私だけど、最後は笑えるみたいだ。
日本に存在するたった一つのゴミ焼却場。
――私の罪が消えるわけじゃないけれど。
それでも、きっと私の罪は雪が隠してくれる。
――やっと、終わり
視界が赤に染まる瞬間、少し口角が上がっていたような、そんな気がした。
・・・
扉を開けるとそこは別世界。
白い大地と黒い空。凍り付くような寒さも関係ない。
空から舞い落ちるこれも、大地を埋め尽くすこれは、ぜんぶがゆき。
真っ黒な空にもゆきが光っている。
「……すごい」
きっと、彼の心は初めての感動で満ちているだろう。
光が煌めく夜の世界。
青年は手のひらを空に伸ばす。
その指には銀色に輝く欠片。
ゆきはひらひらとその指先に落ちる。
ゆきは溶けて、そしてまた舞い落ちる。
それを見て青年は嬉しそうに笑う。
なんて儚い、ゆきのかけら――