プロローグ
永遠と続くような無機質な通路。
道と呼ぶには暗く、伸ばした指先すら見えない。
どこまでも続く旅。終着点のない放浪。
どの言葉も青年の今を言い表すには足りなかった。
薄いコートとほんの少しの食糧、そして数冊の本とがらくた。ブロック型の非常食は残り四つ。貯蓄していたはずの水もほとんど凍りついてしまっている。懐中電灯の光すらかすかに揺れている。
光が途絶えてしまえばきっと前には進めない。
この暗闇はきっとどこまでも続いている。
結局、世界は暗くて不安げな獣のようで。
ああ、怖いな……。
いつか呑み込まれてしまいそう。
けれど、恐怖を押し殺して青年は進み続ける。
不安を消してくれるのはいつだって結果だけ。果たしてこの旅路が終点につながっているかは最後まで進まなければ分からない。
今や、旅をすることが青年の生きる意味だった。
先の見えない回廊を進み続ける。彼の足音以外なにも聞こえない。
ふと気づけば行き止まり。凍り付いた死体が散乱している。この人達が辿った道は決して穏やかではなかっただろう。その気持ちを想像するだけで心が締め付けられる。
最奥にはまるで眠るように目を閉じた女性。なぜか、彼女は周囲の死体とは違う別のなにかに見えた。
床に流れる白い髪はほのかに光を発している。それはとても幻想的で、まるで触れてしまえば溶ける幻のようだ。
彼女の纏う古びたコートすらも美しく見える。
惹きつけられるように、そっとその存在を確かめるように
――僕は彼女に手を伸ばした
――
「……っ」
気づいた時には既に遅い。
伸ばした手はひんやりとした何かに掴まれる。
「…………!」
突然の出来事に思わず息が止まる。もはや悲鳴すら言葉にならない。
慌てて飛び退こうとしても遅い。
――腕が……!!
骨が軋むほど強く掴まれている。もはや逃げ出すなど不可能だ。
呼吸が乱れていることすら自覚できない。
唐突な死の気配が青年を呑み込む。
だが、その程度で怯む彼ではなかった。
――どうであれ、彼女は僕の敵だ……。
青年は胸元に忍ばせた刃物を素早く引き抜くと躊躇なく振り下ろす。
恐怖に毒された者が振るっているとは思えないほど、その刃は正確に女性の腕を捉えていた。
「待って!」
女性の叫び声が響く。
だが、その声は金属が砕ける音にかき消された。
「…………うそ、だろ」
青年の腕はとっくに振り下ろされている。
女性の手は未だに青年を掴んで離さない。
――確かに腕を刺した。刺したのは彼女の腕だ。間違いない……。
「待って、って言ったのに」
青年の手には粉々に砕けた刃物が握られていた。青年は信じられないとばかりに目を見開いている。女性の腕には傷の一つすらついていない。彼の手は未だに女性に握られている。
青年に逃げ道はない。彼の命は文字通り彼女のてのひらに握られていた。
血管に流れる毒のように彼の思考を浸食していく。
「別に、脅かすつもりはなかったんだけど……」
青年の視界に映るのは困ったように笑う女性の姿。
その仕草に敵意はない。
「なんか言いなよ」
「あ、えっと……その」
何もなかったかのような女性の態度に困惑が募る。
怪我がなかったとは言え、突然現れた男に刃物で襲われたことに変わりはない。
だというのに、彼女はまったく動揺している様子がない。
「さっきの刃物はごめんね。早く止めてれば無駄にならなかったのに……」
これは謝罪の仮面を着けた脅迫だ。
刃物程度で逃げられると思うな、そういう警告。
女性に従わなければ窮地を脱することはできないと青年は直感した。
「ねえ、そろそろこっち見てよ」
女性が青年の顔を覗き込む。
――これがきっと、目を奪われるというコト。
女性の風貌はかなり奇妙だった。灰色じみた身体に、鈴の音のような声。翠の瞳はまっすぐに青年の目を見つめていた。
「もしかして死んでいるとでも思った?」
心を読んだような呼びかけ。
軽く首をかしげる仕草は幼気な子どもの様。
「おーい、聞こえてる?」
少し冗談めかした声音もその印象を助長させていた。
正面から見つめたその瞳に不思議と吸い込まれてしまいそうな気がした。
「寒さは、平気なんですか」
「ふふーん、だいじょーぶ。わたしは寒いのには強いから」
「そう、なんですか」
そう言われてしまえば返す言葉はない。女性はとても自慢げな様子だった。
二人は視線を交えたまま決して逸らそうとしない。
「ところでさ、私のこと助けてくれない?」
女性はにこやかに微笑んでいる。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。わたしのことを手伝う代わりに君の望みを叶えてあげる」
静かな回廊に声が反響する。
「……貴方に何ができるっていうんですか」
「それはまだ、わからないなぁ」
にこやかな表情こそ崩れていないが青年の手を握る力は全く弱まらない。
――ほかに選択肢はない、かな...。
「どう? 話くらいは聞いてくれる気になった?」
「…………はい。話を聞くだけなら」
そう答えると、彼女は嬉しそうにうなずいた。
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