第32話
高坂昌信「我らや甲斐信濃。そして駿河の者はそれでも。3年間喪に服しても構わなかったかもしれません。理由は1つ。攻め込まれる恐れが無かったからであります。しかし三河はそうではありません。南からは失地奪回を目論む徳川家康が迫り、その背後には強大な織田信長が控えているからであります。彼ら三河の国衆が団結しても抗し得る相手ではありません。我らの助けがあって初めて維持する事が可能となっていたのが現実であります。
長篠は開城を余儀なくされたのを見た奥平親子。長篠失陥後の対徳川。対織田の最前線となる場所を本貫地としていたのが奥平親子でありました。我らを見限り、徳川家康の下へ奔ったのは生き残りを図るために他ありません。」
山県昌景「ただ奴らは長篠が落ちる前からも……。」
高坂昌信「その通り。奥平親子は長篠陥落以前から家康と通じ、我らと長篠城との通信の遮断を講じていました。」
山県昌景「その結果、菅沼正貞は開城を余儀なくされたのであろう。」
高坂昌信「間違いありません。」
山県昌景「その奥平を許す事など。」
高坂昌信「出来ません。断罪に処されて当然の所業であります。」
山県昌景「だろ。それを何故?」
高坂昌信「もし山県が奥平と同じ立場でありましたらどうしますか?武田家に降ってからまだ日も浅く、降った理由も武田から攻め込まれないようにするためのただ1つ。その武田がいくさを止めてしまった。最前線は我が所領。いつ徳川に攻め込まれても不思議では無い状況にある。徳川が攻めて来てもどうやら助けてくれそうにない。さてどうやって自分の持っている権益を維持しようか……。そういや家康から話を持ち掛けられていたよな。さて山県ならどうします?」
山県昌景「……うむ。」
高坂昌信「家康が長篠を落としたのは戦略的意味合いが最も大きかったのは間違いありません。しかしそれだけでしょうか?武田は長篠を助ける事が出来なかった。降伏した城主は着の身着のまま武田側に放り出される事になってしまった。しかもその城主であった人物は内通を疑われ、遠く離れた小諸に閉じ込められてしまった。
これら一連の流れを。とある人物に向け発信するための脅しとして活用したのでは無いか?その人物は勿論。」
奥平貞能貞昌親子。
山県昌景「我らが長篠救援に間に合っていたら?」
高坂昌信「奥平は引き続き我が陣営に留まったと見て間違いありません。」
山県昌景「菅沼正貞を三河もしくは三河に接した信濃南部に留め、長篠奪還の仕事を担わせていたら?」
高坂昌信「少なくとも我が陣営内で泳がせる事は出来たのでは無いか?我らの軍法を知られる前に処断する事が出来たと見ています。」
山県昌景「私に人を見る目が無かった。と言う事か……。」
高坂昌信「いえ、そうではありません。裏切られる危険性は皆同じであります。」
山県昌景「慰めにもならんぞ。」
高坂昌信「いえ事実を述べただけであります。」
山県昌景「謙信とやり合っていたお前の方が危険度は高かったはず。それにも関わらず裏切り者が出なかったと言う事は……。」
高坂昌信「それについて言えば、単純に私は恵まれていただけであります。」
山県昌景「国人衆の事か?」
高坂昌信「いえ違います。私が恵まれていたのは身内と周りであります。
まず北信濃経営が亡き御館様肝煎りの事業であった事が大きかったと。海津城には多くの兵が常駐し、かつ何かあればすぐ御館様が駆け付ける態勢が整っていました。私で無くても構わなかったのが実態であります。
2つ目は亡き御館様直轄事業である事とも繋がるのでありますが、多くの方々の協力を得る事が出来た事であります。越後国内の調略や馬場様が越中に手を回していただいたおかげで、謙信の攻撃を減殺する事が出来たからであります。
そして最後3つ目に来るのが、謙信は本気で信濃を奪いに来たわけでは無かった事であります。ただ悪戯に兵を暴れさせるだけでしか無かった。民を守るために来たのでは無い。彼に従っても良い事は無い。それならば武田の方が。の消去法で選ばれていたに過ぎません。故に少しでも彼らを蔑ろにでもしようものなら、私の首などあっという間に胴から切り離される事になってしまいます。
ただその危険性は皆同じであります。恐らくでありますが我らが受け身の側に立たされたのは亡き御館様以来初めての事態であります。甲斐からの支援が不透明であり、相手は強大。しかも本気になって領国化を目指して来たのは。たまたまその場が三河であっただけの事であります。むしろこれで収まったのが奇跡だったと見ています。」
山県昌景「慰めにもならんぞ。」
高坂昌信「いえ。山県様が現地に入って梃入れを図り、殿が亡き御館様の遺言を反故にした上で美濃遠江に進出したからこれで収束したのであります。もし他の者が同じ立場に立たされていましたら、裏切りの連鎖が発生した可能性は十分にあり得た事態であります。」
山県昌景「その解釈。ありがたく受け取らせていただく事にする。」
高坂昌信「ありがとうございます。」
山県昌景「ただだからと言って、小山田様や穴山様。それに今回ここには居ない木曾様が役立たずと言うわけではないぞ。彼らが郡内や河内。それに木曾。更には駿河をきちんと治めていただいている。人と予算を回さなくても問題無い状況となっているから、我らは安心して国境に駐屯する事が出来ている。と言う事を忘れてはならぬ。それに少なくとも彼らの方が……。」
高坂よりもいくさ上手である事を忘れるな。
高坂昌信「出過ぎてしまいました。申し訳ない。」
山県昌景「今の状況を考えろ。その調子で演説したらお前の目論見は全て御破算になってしまうぞ。」
高坂昌信「御指摘感謝します。」
山県昌景「逆に今の私であれば、何を言っても良い環境にある。その俺が皆の前で自分が一度放逐した菅沼正貞への謝罪を述べ、復帰を嘆願すれば効果は絶大。」
高坂昌信「重ねて御礼申し上げます。」
山県昌景「ただ問題は残されているぞ。」
高坂昌信「何でありましょうか?」
山県昌景「決まっているだろ。長篠城の事だよ。俺は奥平貞昌を許す。不本意ではあるが、菅沼の功績を考えれば致し方ない。しかしまだ長篠城は落ちてはいない。城主の奥平貞昌も健在である。」
高坂昌信「今の状況を伝えれば良いのでは無いのか?」
山県昌景「……どうであろう?信長から見込まれ、家康とも親戚関係となる事が確定している貞昌が城を明け渡すとは到底思えぬ。むしろ城を枕に討ち死にを遂げる危険性の方が高い。それに……。」
高坂昌信「何でしょうか?」
山県昌景「私は奥平に見限られた人物。たとえ殿の許しを得る事が出来たとしても。」
高坂昌信「元の関係性に戻る事は……。」
山県昌景「あり得ない。私が許したとしてもである。同じ場所で仕事をする事は出来ないであろう。私が上位者であるからまだ良いが、奥平はそうはいかぬ。不幸な目に遭わせてしまう事になる。」
高坂昌信「そこまで考えていただく事が出来るのでありましたら、私からの案があります。」
高坂昌信が示した奥平貞昌の今後についてを読む山県昌景。
山県昌景「お前はそれで良いのか?折角これからと言う所であるのだぞ?」
高坂昌信「だから必要なのであります。やっと私の得意とする事が出来る状況になったのでありますから。その代わりと言っては……。」
山県昌景「成功した暁には菅沼正貞の旧領をそのまま菅沼に返すように。であろう?」
高坂昌信「はい。しかしそうなりますと山県の功績に報いる事が出来なくなりますが宜しいですか?」
山県昌景「ただ長篠城は使わせてもらう。あそこを橋頭保に活用させてもらう。」
高坂昌信「宜しいのでは無いでしょうか。菅沼にとって大事なのは長篠が攻め込まれない事であり、有事の際は武田が戦ってくれる事でありますので。」
山県昌景「後は誰に使者を任せるか……。」
高坂昌信「それでありましたら候補は決めてあります。本人にも了承を得ています。」
山県昌景「それは誰である?」
武田勝頼本陣で開かれた軍議の結果。高坂昌信が山県昌景に託した案が了承され終了。これを受け奥平貞昌を説得するべく長篠城に赴く事になったのは……。




