第3話
山県昌景「殿。」
武田勝頼「どうした?」
山県昌景「殿に紹介したい人物が居ます。」
武田勝頼「申してみよ?」
山県昌景「はい。彼の名を大岡弥四郎。徳川の家臣で渥美郡の代官を務めています。」
武田勝頼「その人物がうちと?」
山県昌景「はい。連絡を取り合っています。」
武田勝頼「徳川家中における大岡の影響力はわかるか?」
山県昌景「はい。大岡の常駐先は岡崎でありますが、家康からの信頼も厚く。浜松へ出向く事もしばしであります。」
武田勝頼「家康からも認められて居る者が何故お前と通じているのだ?」
山県昌景「はい。大岡は徳川の将来に不安を覚えているからであります。」
武田勝頼「どのような事に不安を感じているのだ?」
山県昌景「最も大きな要因はうちとのいくさに家康が負け続けている事であります。」
武田勝頼「しかし現状は、父の代から境目に変化。とりわけ三河については見られないように思うのだが?」
山県昌景「確かに。うちと徳川は一進一退の攻防を繰り広げています。繰り広げてはいますが、家康が勢力を回復させようと活動するのに家康が必要とする条件が1つあります。それは……。」
武田の部隊が不在の時。
山県昌景「であります。家康は浜松城近郊で亡き御館様に敗れて以来、幾度となく戦火を交える可能性がありました。主なものとして野田城と高天神城。我らが城攻めに取り掛かった時、当然城内から後詰めの要請が家康の下に届けられた事は想像に難くありません。高天神につきましては裏も取れています。2度3度と使いを送り、家康の言を聞き城に戻っています。家康の返事は決まって
『援軍は必ず出す。』
であったとの事であります。しかし家康は援軍を送る事はありませんでした。その結果が小笠原の開城であります。この事は徳川家中において公然の秘密となっています。秘密となっていますが、高天神を助けようとしなかった事実を隠す事は出来ません。我らが城を攻め始めてから開城させるまでの間には1ヶ月の時間がありました。家康の居る浜松から高天神はそれ程離れていません。加えて家康には高天神を守る義務があります。にもかかわらず家康は兵を出す事はありませんでした。」
武田勝頼「信長の到着を待っていたのでは無いのか?」
山県昌景「確かにそうであったかもしれません。ただもしそうであったとしました場合、家臣はどう思うでしょうか?」
馬場信春「『家康は自力では何もする事が出来ない臆病者だ。』」
山県昌景「その通りであります。徳川家中は今、
『家康は頼みにならない。』
の空気が充満しています。」
武田勝頼「それで大岡が通信を試みて来た。と。」
山県昌景「はい。」
武田勝頼「彼が描いたの筋書きを教えてくれ。」
山県昌景「はい。」
大岡弥四郎が山県昌景に伝えたシナリオは岡崎に徳川家康が到着したと偽り城門を開け武田の兵を引き入れた後、徳川家康の嫡男信康に謀反を促す。認めれば信康を当主に押し立てる一方、拒絶した場合は信康を討ち取ると言うもの。
高坂昌信「城内に協力者はいるのか?」
山県昌景「勿論。ここに記されている。」
山県が大岡から提示したリストには、松平の者や徳川家家老鳥居氏の陪臣などの名が。
馬場信春「(岡崎の)中枢の者はいないな……。」
山県昌景「残念ながら。」
武田勝頼「我らを騙そうとしている可能性は無いか?」
山県昌景「大岡には無いと見ています。先程の名簿を見ていただきましてもわかりますように岡崎の中枢を担う人物は参加していません。何故なら彼らと大岡の関係は良好なものでは無いからであります。」
武田勝頼「待遇に不満を覚えている?」
山県昌景「恐らく。」
武田勝頼「しかし大岡の今の境遇は決して悪いものでは無いだろう?」
大岡弥四郎は民政や算術の才が認められ、渥美郡の代官を務めるほか。信康の家老であり、二俣城主でもあった中根正照の娘と結婚。
山県昌景「『故に。』でありましょう。自分の才だけで出世する事が出来るのは代官まで。どうしても破る事が出来ない天井を突き抜けたい願望があるのでは無いかと。」
武田勝頼「家康がうちとのいくさで苦しんでいる今が好機と考えている?」
山県昌景「否定する事は出来ません。」
馬場信春「お前も感じているだろ?」
山県昌景「お気付きでありますか?」
馬場信春「奴の筋書きの危うさを。」
山県昌景「はい。確かに大岡には才があります。それは認めなければなりません。故に家康が重宝し、信康も頼みしているのでありますから。ただ一方、彼には力がありません。岡崎の兵を束ねる立場にはありません。岡崎の兵を束ねているのは石川であり、大岡ではありません。家康や信康の後ろ盾があって初めての大岡弥四郎であります。今、彼は協力者を募っています。それなりの人数を集める事に成功しています。ただ彼らが本当に徳川を見限っているかと言えば、限りになく無に近いと言っても過言ではありません。」
武田勝頼「その事を大岡には?」
山県昌景「伝えました。このままでは失敗に終わる。と。」
武田勝頼「それに対し大岡はどのように答えて来た?」
山県昌景「『信康を抱き込みます。』と返答して来ました。」
武田勝頼「そのような事は可能なのか?」
山県昌景「今すぐは難しいでしょう。それに信康が初陣を飾ったのは昨年の事。信康と家臣との信頼関係が築かれるのはこれからであります。故にたとえ信康が決意したからと言って、即岡崎が反家康で染まる事はあり得ません。ただし。」
武田勝頼「ただし?」
山県昌景「信康には危うさがあります。」
武田勝頼「如何なる事だ?」
山県昌景「彼の行動であります。」
武田勝頼「具体的には?」
松平信康に関する素行として、
1、領内で行われた盆踊りの会場で、信康は領民を冗談交じりで弓矢を発射。その後、信康は「間者を処罰したまで。」と弁明。
1、狩りの最中に僧侶と会うと獲物が少なくなるとの因習がある中。信康が鷹狩を行った際、僧侶を見掛けてしまったためその僧侶を……。
山県昌景「信康の持つ特性である『気性の激しさ。』と言うものは、いくさの場においては必要不可欠な素養であります。ただその気性の激しさを周囲が頼もしく感じるのは、いくさの場だけであります。」
武田勝頼「信康はその気性の激しさを日常でも……。」
山県昌景「はい。そのため岡崎の家臣から民に至るまで、信康に手を焼いているのが実情であります。」
武田勝頼「でも信康は家康と仲違いしているわけでは無いのだろ?」
山県昌景「はい。」
武田勝頼「では抱き込む事など不可能では無いのか?」
山県昌景「確かに信康の家康に対する忠誠心が揺らいでいるわけではありません。家康も信康を頼もしく思っています。しかし信康についている家臣はどう思っているでしょう?」
内藤昌豊「このままの信康を後継者にしてはならない。」
山県昌景「その通りであります。」
馬場信春「実際、諫言する者が岡崎の中にも居る。と言う事か?」
山県昌景「はい。石川に大久保。そして吉田の酒井等も信康を変えようと試みている模様であります。」
高坂昌信「しかし信康は改めようとしない?」
山県昌景「はい。とうとう全ての仕事を投げ打って出家した者も現れる始末。」
内藤昌豊「それでは信康は城中で孤立している?」
山県昌景「はい。」
馬場信春「しかしその情報は浜松に居る家康の下に届けられてはいないのか?それを家康が知れば行動を改めるよう信康を指導するであろうし、信康も家康の話なら耳を傾けるであろう。」
山県昌景「いえ。そうはなっていません。」
武田勝頼「何故だ?」
山県昌景「家康も信康同様、大岡弥四郎の言葉を信じてしまっているからであります。大岡は自分の言葉で以て信康を制御出来るよう行動している所であります。」
馬場信春「山県。」
山県昌景「如何なされましたか?」
馬場信春「さっきそなたは大岡の策略に協力を申し出ている者について
『必ずしも徳川を見限っているわけでは無い。』
と言っていたよな?」
山県昌景「はい。」
馬場信春「そんな奴らが何故あのような危険を冒すような事をしていると考えている?」
山県昌景「待遇では無いかと。」
馬場信春「でも徳川。特に岡崎の衆は、それこそ今川統治下の何も無い。各自で食い扶持を稼ぐしかない境遇に比べれば別天地では無いのか?」
山県昌景「はい。」
馬場信春「しかも三河と遠江西部の平野部に勢力を拡大している。それに伴い収入も。」
山県昌景「馬場様。そこであります。今回、大岡の誘いに乗っている者達を突き動かしているものは。」
馬場信春「どう言う事だ?」
山県昌景「いくさが無いからであります。岡崎に居る徳川の家臣の仕事と言えば、いくさが頻発する浜松への後方支援と浜松で怪我を負った者への治療に介護。更には信長との折衝と言ったものであります。これらは国の体制を維持するために必要不可欠な仕事であります。しかしこれらの仕事は評価されない。出来て当たり前と見なされる仕事でもあります。その事については内藤に思う事多いのでは無いかと?」
内藤昌豊「今の自分があるのは(兵站の重要性を示し、きちんと評価した)亡き御館様が居たからだからな……。」
高坂昌信「家康が彼らを評価していない?」
山県昌景「そうではありません。それで無ければ大岡の今の地位もありませんので。」
武田勝頼「では(岡崎の衆の)不満の要因は何である?」
山県昌景「機会の差であります。」
馬場信春「浜松に居る連中とのか?」
山県昌景「はい。岡崎の衆は平素後方支援や折衝事を担っていますが、いくさとなれば勿論戦闘員としての任にあたる事になります。うちもそうでありますが、自らの収入を増やす最も簡単な方法は敵の領土を奪う事。それに貢献する事にほかなりません。しかし岡崎ではいくさがありません。
一方の浜松は常にいくさをしなければならない状況にあります。そこで活躍し、収入を増やした者。地位を向上させた者が多数存在しています。つい先日までは同僚ないし格下であった者共が。」
内藤昌豊「仕事をしているのは岡崎の者も同様。傍目から見れば同じ事の繰り返しに見えるかもしれないが、そのように見えるようにするためにどれだけの準備をしているのかを知らずにのたまう者も存在する。その我慢が限界に達している。と言う事か?」
馬場信春「内藤が言うと説得力があるな。」
内藤昌豊「だからと言って即裏切りの誘いに乗るとも思えませぬ。岡崎の衆は実務に携わる者共。
『収入を増やしたい。』
と考えるのであれば、いくさのある浜松行きを志願するでしょう。家康としても人手が足りていないのが実情でありましょうから。」
武田勝頼「自分の命を賭けてまで収入を増やす必要を感じていない?」
内藤昌豊「はい。そのような者共が、敵方の兵を引き入れる事に同意するとは思えませぬ。厚い恩賞に与る事が出来るのは武田家中の者になります。地位も同様。彼らの順番はその後になります。今の地位と収入は保障されるとは思いますが、条件の良い仕事に就く事が出来るか定かではありません。徳川と武田では規則も異なりますし、後方支援に携わる事が出来る人材は武田にも存在します。その事を知らず。大岡の言葉に乗ってしまった可能性も否定する事は出来ません。」
高坂昌信「箝口令が敷かれているとは思われますが、勤め先を変える。それも勤め先が無くなる形で。しかも自らが加担する事によって。であります。彼らは基本、実家に住んでいます。大岡から好条件を提示されているのは間違いありませんが、裏書きとなる物が彼には存在しません。不安に思う者の方が多いと見て間違いありません。故に口止めをされているとは思われますが。」
馬場信春「身内に相談する者が出ても不思議な事では無いな。」
高坂昌信「仰せの通り。」
山県昌景「大岡に自重を促した方が無難……。」
馬場信春「勿論、大岡の筋書き通りに進めば大きな成果を上げる事が出来る。それは間違いない。ただ現状を見る限り、実現の可能性は低い。勿論ここまでの繋がりを築いた事が否定される事では無い。」
山県昌景「勿体ないお言葉。」
馬場信春「大岡には『時期が来るまで目立った行動はしないように。』と。」
山県昌景「わかりました。」
馬場信春「ただ山県の働きを実現させなければなりません。殿の意見は。」
武田勝頼「馬場と同じ考えである。」
馬場信春「となると大岡の考えを岡崎の世論にしなければなりません。そのために必要なのは……。」
徳川家康の権威を失墜させる事。
馬場信春「であります。」
高坂昌信「岡崎は西を織田領に守られていますので、可能であれば信長も。そのためには信長を誘き寄せた上、信長を叩く必要があります。」
内藤昌豊「そこまでしなくても良いだろう。信長も家康も手出し出来ずに三河の城を落とせば良いのでは無いか?」
馬場信春「山県。」
山県昌景「はい。」
馬場信春「三河の中で、落とす価値のある城は無いか?」