第2話
前夜。自らに苦言を呈して来た内藤昌豊と高坂昌信に、両者と同じく信玄時代からの重鎮馬場信春と山県昌景の4名を集めた武田勝頼。その場で……。
「申し訳無かった。」
と3年間他国とのいくさを禁じた武田信玄の遺言を破った事を謝罪すると共に、今後の協力を依頼した武田勝頼。それに対し……。
内藤昌豊「殿。謝る必要はありません。その時の山県様が置かれた状況を考えれば当然の事をしたまででありますので。」
山県昌景「東濃は信長に。野田は一度は捕らえた城主に奪還され、作手の奥平は徳川により買収された挙句、離脱。極めつけは遠江の高天神……。」
馬場信春「その状況にあっても『遺言を守る。』と殿が仰っていましたら間違いなく……。」
高坂昌信「殿を引きずり降ろしていましたね。」
馬場信春「間違いない。」
高坂昌信「山県様と同じ状況に、うちもなる危険性はあった……。」
内藤昌豊「上杉か?」
高坂昌信「左様。」
当時、織田信長と上杉謙信は同盟関係にあり、信長は謙信に信濃への出兵を要請。
山県昌景「本当は思っていなかっただろ?」
高坂昌信「そのような事は御座いません。」
山県昌景「謙信は一向宗への対応で手一杯だったんだからさ。」
内藤昌豊「その段取りを組んでいたのが馬場様。」
馬場信春「当然の事をしたまでよ。」
馬場信春は越中の一向宗と連携し、織田信長と同盟関係にある上杉謙信を釘付けにする事に成功。
高坂昌信「とまあ我ら一同。殿の決断に感謝しています。」
内藤正豊「酒の席とは申せ、出過ぎた事。お詫び申し上げます。」
武田勝頼「それは何より。今後とも宜しくお願いする。」
内藤正豊「勿体ないお言葉。」
武田勝頼「内藤の言葉を一晩考えていたのだが。」
武藤喜兵衛「(えっ!?)」
武田勝頼「私は所詮猪武者。亡き父信玄からも叱責を浴びる事しばしであった。つまり私は見えている敵しか見えてはおらぬ。一方、内藤は兵站全般を見ているし、高坂はこれまで最もいくさの激しかった北信濃で上杉謙信と相対して来た。これは想像の域を出ないのであるが、事前に打ち合わせをした上で、私の所に訴え出たと思っている。もっと言えば、ここに居る馬場と山県も同じ意見では無いかと見ている。私の想像が間違っていたら訂正してくれ。」
高坂昌信「私が一番言いやすい。管轄地が静かな状況にありますのでお答えします。殿のお考えの通りであります。」
武田勝頼「気になっている事を教えてくれ。」
高坂昌信「はい。先の高天神のいくさにおいて、徳川家康の要請に応じた織田信長は自ら兵を率い浜名湖西岸の今切にまで進出しています。これまで信長は、我らと徳川とのいくさにおいて督戦部隊を派遣した事はありました。しかし自らが出張って来る事はありませんでした。理由は織田領内が落ち着いていなかったからと推測されます。」
武田勝頼「今は落ち着いている?」
高坂昌信「越前は違います。」
馬場信春「先のいくさで信長に降った旧朝倉家臣同士の争いに越前の一向宗が呼応しました。その後、再び内部分裂が発生した結果。現在、越前は加賀同様一向宗が持つ国になっています。」
武田勝頼「それに対し信長は?」
高坂昌信「信長の直臣が越前に入っていません。言わば間接統治を採用していましたので、織田家自体に実害が無かった事もありまして傍観している所であります。尤もそうなったのも殿が東濃に入ったからでありますが。」
武田勝頼「もし私が動いて居なかったら?」
馬場信春「比叡山のようになっていたか。それとも石山のように泥沼化していたか……。」
武田勝頼「となると信長は越前を放置してこちらに向かって来た?」
高坂昌信「はい。」
武田勝頼「放置するだけの余裕がある?」
馬場信春「いえ。流石に(こちらも一向宗の信徒が多い)近江に飛び火するのは避けなければならないのでありましょう。敦賀に部隊を派遣している模様であります。」
武田勝頼「それでも信長は遠江まで……。」
内藤昌豊「家康からの救援要請が届けられた時、信長は賀茂祭に参加していたそうであります。」
武田勝頼「畿内は信長の下、落ち着いている?」
内藤昌豊「間違いありません。」
山県昌景「でありますので(徳川方の高天神城主であった)小笠原信興の決断には助けられました。」
高坂昌信「それもこれも殿のおかげであります。」
高天神城主小笠原信興には駿河東部に1万貫を。武田の配下になる事を望んだ者は採用。徳川の家臣を貫きたいと願い出た者に対しては……。
高坂昌信「家康の下に帰す……。なかなか出来るものではありません。」
馬場信春「この寛大な処置により、殿の名声は一層高まりました。一方、高天神に援軍を派遣する事が出来なかった家康に対する評判は芳しいものではありません。」
武田勝頼「それで有頂天になるな。と……。」
内藤昌豊「申し訳御座いません。」
武田勝頼「いやいや。大事な諫言感謝致す。で。もし信興が抵抗を続けた場合、どうなっていたと見ている?」
高坂昌信「正直に申しますと、わかりません。」
武田勝頼「ん!?」
高坂昌信「わかりませんが、信長が何か策を講じて来た事は間違いありません。信長は遠江から戻った後、長島へ乗り込んでいます。彼の地は信長が幾度となく大兵を送り込むも、その都度大損害を被って来ました。この経験を下に信長は今回。新たな対策を講じ、長島攻めを敢行した模様であります。長島は七島と呼ばれる多くの中州を抱えた場所。陸上部隊だけでは攻略する事は困難であります。実際、信長も掌握する事は出来ませんでした。出来ませんでした。と過去形になっているのには理由があります。そうです。今、長島は信長の手中に収まっています。」
馬場信春「ここからは一向宗の者からの情報になります。今回、信長は多くの大船を投入し全ての中州を封鎖。各砦からの人と物の出入りを厳重に監視した上、兵糧攻めに打って出ました。人で溢れ返った砦内部は飢餓に陥り、降伏を申し出たとの事であります。」
武田勝頼「それに対し信長は?」
馬場信春「『命を助ける。』と。しかしその約束は守られる事はありませんでした。砦から舟に乗り移動する者達に対し信長は種子島を乱射した上、抜刀。しかしここで信長に誤算が生じる事になりました。」
武田勝頼「一向宗徒が黙って無かった?」
馬場信春「その通りであります。信長に油断があったのでありましょう。あろう事か信長の本陣が狙われたため、信長の叔父に兄弟。そして従兄弟に馬廻と言った最も安全な場所に居るはずの者共が討たれる失態を演じる事になりました。」
武田勝頼「しかし信長は?」
馬場信春「残念ながら……。怒り狂った信長は、残った2つの砦に……。結果、長島を信長が手に入れたのでありましたが……。」
内藤昌豊「自らの勝利をこれでもかこれでもかと誇大に吹聴するあの信長が、長島については何1つとして発信されていません。」
高坂昌信「自らの失策によって、身内を失った衝撃が大きかったのでありましょう。殿。」
武田勝頼「どうした?」
高坂昌信「ここで大事なのはそれではありません。長島攻略のために信長がやった事であります。殿と信長は東濃でいくさをしています。その時、信長は恐らく殿の事を舐めていたと思われます。しかし信長は殿に敗れました。そればかりでなく、長島同様。信長の馬廻を乱す事に成功しています。つまり信長は殿の事を恐れています。恐れている信長が殿とのいくさを決意し、遠江にまでやって来た。と言う事は……。」
武田勝頼「私への対策を講じている?」
高坂昌信「そう見て間違いありません。」
山県昌景「信長が何かを仕掛けている事が想定されているとは言え、我らが織田徳川とのいくさを止める事は出来ません。」
内藤昌豊「遠山の件か?」
山県昌景「左様。遠山が居る東濃は元々我らと織田による両属の地。そこで中心的役割を担っていた景任、直廉が亡くなるや信長はあろう事か東濃に兵を繰り出し制圧してしまった。丁度この時期亡き御館様は家康を攻めるべく準備をしていた最中であったが、大きな修正を余儀なくされる事になってしまった。」
高坂昌信「(信長は)家康と同盟関係にある手前、(武田に対する)牽制の意味をありましたね。」
馬場信春「この影響はうちにもあった。」
武田勝頼「どのような?」
馬場信春「亡き御館様の頭の中には東濃と飛騨。そして奥美濃の衆による岐阜への圧迫を想定されていた。しかし彼らを動かす事は出来なかった。」
山県昌景「機先を制されたと言えばそれまでの事ではあるのだが。問題はこの後だった。」
内藤昌豊「東濃の奪還に動いた事ですね。」
山県昌景「そう。岩村城の奪還に成功したところで信長から正式に絶縁状が突き付けられる事になった。」
高坂昌信「ええ。越後が騒いでいましたよ。
『これまで武田に対し平身低頭の姿勢を貫いていた信長が、掌を返して来た。』
と。」
馬場信春「亡き御館様にしていた事を信長は謙信にもしている。と言う事か?」
高坂昌信「間違いありません。信長は謙信に信濃へ兵を出すよう懇願していたそうな。」
内藤昌豊「しかし実現には至らなかった。」
高坂昌信「馬場様の功績大であります。」
馬場信春「しかしそれが良かったかと言えば……。」
高坂昌信「仕方ありません。御館様があのような事態に陥ってしまいましたので。」
山県昌景「奪還した地も信長に取られ。それをまた我らが奪い返す。家康とのいくさにも信長が顔を出す事になった。つまり(武田勝頼と織田信長の養女との間に生まれた武田家当主を継承する事が決まっている)武王丸様を用いて関係を修復は不可能になってしまいました。」
内藤昌豊「賽は投げられました。徹底するより他ありません。」
武田勝頼「しかし信長の勢力は強大である。加えて家康との同盟関係も強固であり、揺るぎが無い。このままだとうちが徳川領を伺えば信長が美濃から兵を繰り出し、織田領を狙えば家康が動いて来る。今はまだ織田徳川共に互いの領内を行き来しているだけであるが、信濃に侵入して来る危険もある。消耗戦に巻き込まれた場合、先に音を上げる事になるのは間違いなくうちの方。確実に勝つ事の出来る状況を作り出していかなければならないが策はあるか?」