第16話
躑躅ヶ崎館。
跡部勝資「この期に及んで城攻めの延期など許しませぬ!皆を対織田対徳川に投入させるために、私がどれだけ骨を折ったのか。上杉謙信や北条氏政なぞに頭を下げ続ける屈辱の日々を送ったのか。山県殿にはわかりますまい。」
山県昌景「申し訳ないと思っている。」
跡部勝資「越後上野の安全を確保するために多額の銭を使っています。無料ではありません。費用は回収しなければなりません。それを可能とするのが、山県様の悲願であります織田信長と徳川家康討伐であり、最初の一手が長篠城攻略ではありませぬか。」
山県昌景「それは変わっておらぬ。」
跡部勝資「聞いております。長篠城が拡張されている事。多くの鉄砲と弾薬が運び込まれている事。そして今まで見たことも聞いた事も無い得体の知れぬ何かが設置されている事も。」
山県昌景「そこで一度戦略を練り直したいと……。」
跡部勝資「わかります。そのお気持ち。しかし聞きたい事があります。」
山県昌景「何でしょうか?」
跡部勝資「長篠城が家康の手に渡って1年以上経過しています。」
山県昌景「うむ。」
跡部勝資「その間、山県様は何をされていましたか?三河は当時も今も山県様の管轄であります。確かに長篠は奪われました。しかし長篠より北の三河は我らが掌握しています。それに相違は?」
山県昌景「相違無い。」
跡部勝資「加えて山県様は遠江も担当されています。それに間違いは?」
山県昌景「無い。」
跡部勝資「遠江については二俣城が徳川の境目となっています。しかしそこから西の浜名湖北岸地域と山を越えた朝倉川以北。更には野田と牛久保に至る範囲。これらはいづれも徳川の勢力圏ではありますが……。」
うちも自由に行き来する事が出来ますよね?
跡部勝資「長篠への物資の搬入は全てこれらの地域から行われる事になったはずであります。加えて長篠城の拡張工事も昨日今日行われたものでは無いはずであります。」
山県昌景「全て私の怠慢が原因である。申し訳ない。」
跡部勝資「認めていただければそれで構いません。過ぎた事は仕方ありませんし、山県殿は三河に遠江。そして駿河の係争地を委ねられているお立場にあります。殿。」
武田勝頼「どうした?」
跡部勝資「これまで我らは山県に過度な負担を掛け過ぎていたのでは無いでしょうか?勿論山県が意気に感じて引き受けられたものと思われますが、今の状況が状況であります。」
武田勝頼「山県。これまで其方を独りにさせてしまった事。申し訳なく思っている。」
山県昌景「いえ。全ては私の至らなさが原因で。」
馬場信春「山県。誰もそのようには思っては居らぬ。心配致すな。其方の無念を晴らすために皆の力を使わせてくれ。」
高坂昌信「此度の勝利条件は長篠城を陥落させる事にある?」
跡部勝資「全勢力で以て戦う以上、最低限成し遂げねばなりませぬ。」
高坂昌信「しかし山県は難しいと見ている?」
山県昌景「城を落とすだけでありましたら不可能ではありません。」
跡部勝資「では何故攻めないのであります。二の足を踏む理由を教えて下さい。」
時間を戻して小諸。
菅沼正貞「山県様が城攻めを躊躇されている理由でありますか……。」
高坂昌信「何でも構いませぬ。」
菅沼正貞「山県様が気にされているのは信長の存在になるかと。聞く所によると高天神を攻略した時、信長は遠江に入っていたとか。」
高坂昌信「その通りであります。」
菅沼正貞「織田の主力が高天神に殺到する恐れがあった?」
高坂昌信「はい。」
菅沼正貞「しかしその前に城主の小笠原が武田の誘いに乗り、城を明け渡したため信長は武田と戦う事無く美濃へ帰って行った。これを山県様は長篠城でも再現しようとしていた。ただそれが難しくなっている事を山県様は知ってしまった。」
高坂昌信「長篠城が拡張された事。鉄砲と弾薬が多数備蓄された事でありますね?」
菅沼正貞「そして何より山県様は奥平親子の降伏を許さないからであります。」
戻って躑躅ヶ崎館。
高坂昌信「高天神城攻めにおける小笠原の処遇を長篠城主の奥平貞昌には?」
山県昌景「愚問であります。故に長篠を力攻めで殲滅する以外、手はありませぬ。」
馬場信春「尤もうちが誘った所で、奥平が靡く事は無いであろうし。」
内藤昌豊「家康の下で活動している貞昌の父貞能が実質人質の扱いになっていましたね。」
山県昌景「その名を聞きたくは無い!」
高坂昌信「貞昌の首を確認するまでいくさは……。」
山県昌景「全うしなければなりません。」
高坂昌信「長篠を攻める決意に揺らぎは?」
山県昌景「ありません。」
高坂昌信「しかし懸念すべき材料が信長の援軍?」
山県昌景「うちも奥平も降伏と言う選択肢はありません。一度いくさが始まりましたら、どちらかが殲滅する。されるまでいくさは続く事になります。加えて高天神に比べ、長篠は岐阜から近い位置にあります。加えて今切のような難所もありません。」
高坂昌信「信長が到着するまでの短い時間で、方を付けなければならない?長篠城を攻略しなければならない?」
山県昌景「はい。」
高坂昌信「しかしその糸口が見えていない状況にある?」
山県昌景「申し訳ない。」
高坂昌信「いえいえ。そこまで調べていただけている事に感謝しているのであります。皆で探っていきましょう。」
山県昌景「糸口の1つが野牛郭であります。この野牛郭のすぐ西にあるのが本丸であります。貞昌が新たに築いた防御施設に接する事無く長篠城を攻め落とす事が可能となります。」
馬場信春「しかし野牛郭に辿り着くには2つの川が邪魔をしてはおらぬか?」
野牛郭に到達するためには、長篠城を守る2つの川。三輪川と瀧川を越えなければならない。
内藤昌豊「あの川を人力で渡るのは?」
山県昌景「歩いては難しい。泳げば何とか。しかしそのままいくさをする事は出来ません。」
馬場信春「そうなると……筏か?」
山県昌景「左様。」
武田軍が筏を使用した戦いの1つが二俣城の戦い。二俣城は北東方向からしか攻める事が出来ず膠着状態に陥る中。
山県昌景「殿が献策しました筏が効果を発揮しました。尤もその時は城内部への上陸が目的では無く、水の手を切るためでありましたが。」
二俣城内には井戸が無く、生活用水の全てを二俣城を守るように流れる天竜川の水が頼り。その水を汲み上げるために設置された井戸櫓を破壊するべく武田勝頼が用意したのが大量の筏。これらを井戸櫓にぶつける事により井戸櫓は破壊され、水の手を絶たれた二俣城を降伏させる事に成功。
馬場信春「此度は野牛郭上陸のために用いようと考えている?」
山県昌景「その通りであります。しかし……。」
内藤昌豊「思うようにはならぬ危険性が潜んでいるのでは無いか?と。」
山県昌景「はい。」
少し戻って小諸。
菅沼正貞「野牛郭でありますか?」
高坂昌信「はい。」
菅沼正貞「川の合流地点にありますので、物資の積出などで日常でも使う場所であります。それだけ物が集積する。財の集まる場所であります。山県様も出入りされていました。」
高坂昌信「守るには?」
菅沼正貞「普段は船への積み下ろし場であり保管場所でもありますので、作業に支障を来すわけにはいきません。それ故守るのに長けているとは言えません。ただ……。」
高坂昌信「ただ?」
菅沼正貞「その代わり2つの川が野牛郭を流れています故、徒歩で到達は困難であります。しかしこれも大量の船が押し寄せて来ましたらひとたまりもありません。ありませんが、上陸出来る場所には限りがあります。1か所しかありません。目的は、普段は船の行き来の管理と盗難防止のため。いくさの時は、上陸を食い止めるためであります。」
高坂昌信「それを山県は?」
菅沼正貞「確認しています。しかし今、あそこがどうなっているのかまでは把握する事は出来ていないのでは無いかと。加えて城内には大量の弾薬が備蓄されています。人海戦術で突破する事が出来る確証を得る事が出来ていない事は間違いありません。」
菅沼正貞「城の北東部でありますか?あそこは山沢により攻め口が狭くなっています。故に攻めるには難しい場所でありましたので別段手を加える事はありませんでした。」
高坂昌信「そのような場所を塀で囲った理由は?」
菅沼正貞「正直、意味は無いと思います。もしあるとするならば……。」
躑躅ヶ崎の館。
山県昌景「北東部に造られた新たな施設が狙い目となる。あそこは塀でしか囲っておらぬ。入口は狭いが、そこを突破する事が出来れば野戦と変わらない状況を作り出す事が出来る。」
少し前。小諸。
菅沼正貞「敢えて備えを薄くする事により、山県様を引き付けようと考えているのでは無いかと。」
高坂昌信「狭い攻め口に殺到する我らを奥平が……。」
菅沼正貞「野牛郭同様。正面より鉄砲を放ち、怯んだ所で城門を開き追い散らす。それを側面からも支援する事に撃退しようと考えているのでは無いかと。しかし……。」
躑躅ヶ崎の館。
山県昌景「見た限りではあるが、3日もあればあそこを突破する事は出来ます。」
小諸。
菅沼正貞「山県様の話が事実でありましたら。ただ塀で囲っているだけでありましたら、竹束など鉄砲に対する備えを施しさえすれば新たに造られた郭を制圧する事は可能であります。ただそれは奥平もわかっているのでは無いかと見ています。あくまでそこは武田に一撃を喰らわせるため。時間稼ぎをするためでは無いかと。奥平はそこを使われても構わないと考えているかもしれません。」
高坂昌信「敢えて奥平は塀の中に我らを?」
菅沼正貞「引き入れようとしていると見て間違いありません。そこから中までは?」
高坂昌信「わかっていません。」
菅沼正貞「しかしあそこを堅固にした所でな……。」
高坂昌信「如何なされましたか?」
菅沼正貞「いや。何でもありません。ただそこまで武田を引き入れても構わない。それまでに鉄砲で以て反撃される事への対策を施して来ない武田では無い事を奥平は知っています。大量の竹束で以て鉄砲の効力を無にして来る事を知っています。そうなっても構わない何かが奥平はある。」
躑躅ヶ崎。
内藤昌豊「得体の知れぬ何かがわかりましたか?」
山県昌景「異風筒では無いか?との情報が入った。」
馬場信春「それなら一向宗の者より聞いている。大陸で使われている大型の鉄砲であると。」
山県昌景「はい。それが今回、長篠城にも運び込まれています。恐らくでありますが、竹束で防ぐ事は出来ません。加えて鉄砲より遠くに飛ばす事が可能と言われています。」
馬場信春「奥平は我らを塀の中の、逃げ場が狭い入口しかない場所に引き入れた所で。」
山県昌景「はい。防ぐ事術が無い異風筒を浴びせ掛けようとしていると見ています。故にあそこに攻め入る事は出来ません。」
馬場信春「……そうなると後、出来る手立ては金山衆……。」
小諸。
菅沼正貞「山県様が奥平の事を怒っている理由?徳川に奔った事に他無いでしょう。」
高坂昌信「それにしても度を越しているような気がしてならぬ。」
菅沼正貞「そうですね……。恐らくでありますが、山県様は奥平親子に全てを教えてしまったからでは無いでしょうか?長篠に居る奥平貞昌の父貞能は山県様の指揮の下、多くのいくさに従軍して来ました。時期は丁度亡き御館様による上洛戦。二俣城から三方ヶ原。そして野田城に至るまで、貞能は武田方として経験しています。対織田対徳川最前線に位置する三河先方衆の長として。
家康を浜松に生かしたままでの上洛でありましたので、仮に御館様が健在で上洛を果たしたとしましても徳川とのいくさは続く事になります。彼の地を知る貞能に掛かる期待は大きくなる一方。駿河に遠江。そして三河と言った係争地を抱える山県様としましても、貞能に三河を託そう。と考えていたのでありましょう。」
高坂昌信「それで山県が奥平にうちの手の内を?」
菅沼正貞「想像の域を出る話ではありませんが。」
高坂昌信「うちの城攻めの方法も?」
菅沼正貞「今長篠城に居る奥平貞能の息子貞昌にも伝えられていると見て間違いありません。」
躑躅ヶ崎の館。
内藤昌豊「うちの手立てを奥平に知られてしまっている?」
山県昌景「私の見込み違いでありました。痛恨の極みであります。」
馬場信春「そうなると穴を掘る事も……。」
山県昌景「知られています。申し訳ない。」
馬場信春「……仕方ない。三河先方衆の長に奴奥平を認めたのは我らも同じ事。山県の責では無い。」
内藤昌豊「しかしどう致します。城の攻め口と言う攻め口に鉄砲が待ち受け、突破したらしたで異風筒が襲い掛かって来ます。人を盾にしたとしましても被害は甚大。その後の織田徳川とのいくさに支障を来す事になるのは必定。」
馬場信春「そこに織田信長がやって来たら我らは壊滅の憂き目に遭ってしまう事になる。その前に城を奪わなければならない。」
高天神城の時のように、織田信長が到着する前に長篠城を奪いたいと考える武田勝頼。しかし城主の奥平貞昌は武田を裏切り徳川に奔った人物。高天神の時に採用した城主を買収する事は出来ない。武田家中もその予定は無い。
ならば力攻めに打って出ようと考えるも城内には大量の鉄砲と弾薬が蓄えられている。その上、城も拡張され攻略は難しくなっている。更に奥平親子が武田の軍法を知っているがため、武田が用いる城攻めも熟知されている。
信長到着までの短い時間での城取は困難……。
高坂昌信「(そろそろかな?)少し宜しいでしょうか?」
山県昌景「何か良き手立てでも?」
高坂昌信「いや。これまでの話を聞いていて感じた事なのであります。それは皆様は本来の目的を忘れてしまっているのでは無いかと。」
戻って小諸。
菅沼正貞「武田にとっての目的は奥平親子を屠る事では無いでしょう。織田信長を倒す事ではありませんか?」
高坂昌信「確かに。」
菅沼正貞「では何故長篠城を攻め落とす。それも信長が到着する前までに固執するのでありますか?」
高坂昌信「徳川家康の娘を娶り、織田信長からの金銭と鉄砲弾薬支援を受けた奥平貞昌が居る長篠城を守る事が出来なかった事を世に知らしめるため。織田、徳川に従っていても身の安全を確保する事が出来ない事を今、織田徳川に従っている者共に知らしめるためであります。」
菅沼正貞「それが目的でありましたら、別に急いで城を奪いに行かなくても宜しいのでは無いでしょうか?」
高坂昌信「信長の持つ兵力を御存知では無いから、それが言えるのでありますよ。」
菅沼正貞「規模ではそうかも知れません。知れませんが今、信長と家康は殿の事を恐れているのでは?」
高坂昌信「確かに岩村以後、徳川の反撃は止まった。信長も迂闊に戦わなくなったのは事実である。」
菅沼正貞「高天神の際も信長は殿と戦う手筈を整えていたハズであります。にも関わらず、城が落ちたと聞くや否や岐阜へ帰ってしまいました。信長は自分十分の態勢にならなければいくさに踏み切る事はありません。」
高坂昌信「仮に信長が後詰の兵を率いて来たとしても……。」
菅沼正貞「直接長篠城奪還に動く事はあり得ません。遠巻きに見やるのが関の山であります。」
高坂昌信「こちらが隙を見せなければ……。」
菅沼正貞「信長は兵を動かす事は出来ません。信長が動かなければ家康も動けません。それに……。」
高坂昌信「如何なされましたか?」
菅沼正貞「長篠城には大量の鉄砲と弾薬が運び込まれたと聞いています。」
高坂昌信「それで今、困っている。」
菅沼昌貞「一方の兵糧はどうでしょうか?」
戻って躑躅ヶ崎の館。
山県昌景「大岡からの情報によると、長篠に運び込まれた兵糧は援軍が到着するまで。期間にして一ヶ月と聞いている。」
小諸。
菅沼正貞「鉄砲と弾薬を優先して、兵糧は信長が来るまでの期間に絞っていると見て間違いありません。」
躑躅ヶ崎の館。
高坂昌信「故に……。」
武田勝頼は、ほぼ全て武将に出陣を下知し長篠城を攻囲。兵糧攻めに打って出たのでありました。




