第10話
長坂釣閑斎「謙信には実の男子が居ません。彼が信じる真言宗や飯縄明神の戒律を順守しているためと言われています。このため謙信はこれまで不犯を貫いています。故に謙信は実の男子はおろか女子も居ません。この事は家を維持する上で由々しき問題であります。謙信にもしもの事があった時、越後が乱れるのを避ける事は出来ません。
勿論謙信もその事を理解しています。しかし彼の信仰がそれを許しません。そのため謙信は養子を2人迎え入れています。
1人が長尾顕景。越後魚沼上田庄の出。父は長尾政景で母は長尾為景の娘。謙信の姉であります。元々次男でありましたが兄が早世した事に加え、父が不慮の事故に遭ったため上杉の本拠地である春日山城に移動。そこで謙信の養子となり成長。その後、上田庄の者を率い関東や越中に出陣。越中では国人衆の取成をするなど上杉家中で重要な役割を担っています。」
高坂昌信「聞くところによりますと来年には……。」
長坂釣閑斎「はい。姓を上杉に改めると共に上杉一門衆の筆頭となると言われています。」
武田勝頼「つまり後継候補に任命される運びとなった?」
長坂釣閑斎「そう捉えて差し支えないかと。」
武田勝頼「しかし長尾の出が簡単に上杉を名乗るのは難しいのでは無いのか?」
長坂釣閑斎「確かにその通りであります。ただ長尾顕景の系譜を紐解いてみますと母方の祖母。謙信の母にあたる人物は上条上杉家の出であり、父方の曾祖母も上条上杉家の出身であります。上条上杉家は越後守護を輩出して来た家であります。故に長尾顕景が上杉を名乗る事に問題はありませんし、越後を継承するのに必要な系譜を手に入れている人物でもあります。」
武田勝頼「越後を継承する?」
長坂釣閑斎「はい。」
武田勝頼「長尾顕景の血筋から得る事が出来る正当な場所は越後だけと言う事になる事に間違いは無いか?」
長坂釣閑斎「間違いありません。」
武田勝頼「それでは今、うちと謙信との間で結ばれようとしている和睦をなぞるだけになってはしまわないか?」
長坂釣閑斎「その通りであります。」
武田勝頼「今議題にあがっているのは越後の事では無い。上野の事。関東の事であり、上杉と北条の関係を正常化させる事にあるのだぞ?」
長坂釣閑斎「存じ上げています。」
武田勝頼「長尾顕景では解決する事は出来ないと思うのだが?」
長坂釣閑斎「殿の仰る通りであります。」
武田勝頼「ん!?そう言えば……。」
長坂釣閑斎「その通りであります。謙信にはもう1人。養子が存在します。」
高坂昌信「北条から出された人質の事ですね。」
長坂釣閑斎「尤も今は人質では無いがな。」
北条から出された人質。
武田信玄が今川氏真と手切れをした上、駿河へ進出した事に激怒した北条氏康は武田家との同盟を破棄。その武田と対抗するべく同盟相手に選んだのが、関東で対立して来た上杉謙信。
「来る者は拒まず。」
の謙信はこの要請を受諾するも、これまでの経緯もあり謙信は北条氏康に対し人質を要求。当初、北条氏政の次男が越後へ向かう予定であったが氏政はこれを拒絶。そこで白羽の矢が立てられたのが……。
長坂釣閑斎「北条氏康の息子の一人。北条三郎でありました。」
武田勝頼「(氏政は自分の)弟は良かったの?」
長坂釣閑斎「腹違いでありますので。」
武田勝頼「場合によっては敵対する恐れもある?」
長坂釣閑斎「いえ。そうではありません。上杉との交渉窓口となっていた遠山康光の妹が三郎の母であった事も関係していたのでは無いか?と。」
武田勝頼「しかし同盟は破綻したよな?」
長坂釣閑斎「はい。」
武田勝頼「終わった同盟相手から送られて来た人質が待つ運命は……。」
長坂釣閑斎「良くて実家へ送り返される。普通で切腹。悪ければ、うちに居た奥平の人質のような末路を辿る事になります。」
武田勝頼「それが何故?」
長坂釣閑斎「上野沼田で面会した際、謙信が気に入った模様であります。」
武田勝頼「証明出来る話はあるか?」
長坂釣閑斎「はい。越後に入ると同時に謙信の姪と祝言を挙げると同時に上杉景虎に改名。景虎はかつて謙信が使っていた名であります。」
武田勝頼「しかし同盟が駄目になってしまっては……。」
長坂釣閑斎「普通はそうなるのでありますが、謙信は彼を越後に留める選択肢を採用しています。」
武田勝頼「何故だと思う?」
長坂釣閑斎「北条領内に不穏な動きがあったからでは無いか。と見ています。」
武田勝頼「具体的な事例は?」
長坂釣閑斎「最もわかりやすいのは、上杉景虎の母の兄遠山康光の失脚であります。北条氏政は、越後との関係が壊れた原因の全てを遠山康光に押し付けました。」
武田勝頼「しかし……。」
長坂釣閑斎「はい。真実は北条氏康・氏政親子の外交方針の転換が全ての原因であります。ありますが、当主が頭を下げる事などありません。誰かに責任を押し付けて自身の威厳を保つ行為に走るのが世の常であります。責任を負わされた遠山康光は今、越後に居ます。謙信が彼を迎え入れた理由と景虎を残した理由は同じ。関東であります。」
武田勝頼「ここまでの話を整理しても良いか?」
長坂釣閑斎「はい。」
武田勝頼「謙信の甥であり、謙信の養子となった長尾顕景には本貫地である越後並びに現在進出している越中。更には北陸を任そうと考えている?」
長坂釣閑斎「はい。」
武田勝頼「一方、北条から迎え入れた上杉景虎には関東を託そうと考えている?」
長坂釣閑斎「北条との連携ではありますが、そう見て間違いありません。」
武田勝頼「しかし現状はそれを許さない?」
長坂釣閑斎「はい。謙信が関東で獲得する事が出来ている範囲は、大きく見ても上野の東部に限られます。その東部につきましても安定させる事は出来ていませんし、今後の拡大も難しい状況に陥っています。」
武田勝頼「その要因となっているのは?」
長坂釣閑斎「上杉謙信が怒っている事と合致しているのでは無いかと。」
武田勝頼「北条氏政がうちとの関係を修復させた事か?」
長坂釣閑斎「はい。上杉景虎は北条との同盟が成立した事により越後に入った人物。その時既に長尾顕景が謙信の養子に入っていた事を考えると、上杉の当主を継がせるために迎え入れたと考える事は出来ません。無用な混乱を招くだけでありますので。では何故北条からの人質を養子とし、謙信の姪。その姪は顕景の姉にあたる人物にあたります。と結婚させたのか?顕景の義兄弟にさせたのか?それは偏に関東を任せるためであります。
しかしこの時点においても現在と勢力圏はほぼ変わりありません。苦しい状況にあったのは事実でありました。故に謙信は関東での権益拡大に乗り出していました。ただ北条と同盟を結んだため、南下。武蔵に押し入る事は出来なくなってしまいました。では何処を狙おうとしていたのか?そうです。当時、北条と仲違いをしていた我らの持つ西上野でありました。氏康は氏真から引き継いだ駿河を。謙信は山内上杉憲政の本拠地であった西上野を。それぞれ奪還するべく展開し、上野を奪取した暁には北条氏康の息子でもある景虎を上野の守護に押し立てようと考えていたのでは無いかと。」
武田勝頼「その目論見は氏政の裏切りにより、脆くも崩れ去ってしまった?」
長坂釣閑斎「そうでも無ければ、あの謙信が。うちとの和睦を受諾したあの謙信が、あそこまで怒る事はあり得ません。」
武田勝頼「それでは謙信と氏政の和睦は夢のまた夢?」
長坂釣閑斎「いえ。そうでもありません。謙信を納得させる落としどころはあります。」
それから1ヶ月。
跡部勝資「殿。上杉謙信。北条氏政との和睦に同意致しました。」
一月前。
跡部勝資に何やら耳打ちする長坂釣閑斎。
長坂釣閑斎「跡部を再び春日山の上杉謙信と小田原の北条氏政の下へ派遣させます。」
武田勝頼「どのような助言を?」
長坂釣閑斎「そうですね……。ここに集まった方々には知らせておかなければなりませんね……。」
跡部勝資に伝えた事を皆に告げる長坂釣閑斎。これを聞いて……。
高坂昌信「……確かに。これで駄目でしたら、あと出来る手立ては謙信が主張していた、今我らが持つ権益を明け渡すしか残されていません。」
長坂釣閑斎「ここに居ます皆同様。私もそのつもりは毛頭ありません。既にうちと上杉。うちと北条は和睦済み。我らが対織田対徳川に集中する事は可能な状態にあります。これでも首を縦に振らないのであれば、越中と上野からの要請に(越後の)揚北の紛争の後始末に忙殺されれば良いんです。
ただそれではうちが織田信長の全てを面倒見なければなりませんので、跡部に今回の提案を授けたのであります。」
その提案とは?
馬場信春「『上杉景虎を関東管領に就任させた上、本拠地を厩橋に定め常駐させる。これをうちと上杉。そして北条が支える。』
……考えましたね。」
長坂釣閑斎「謙信が気にする点があるとすれば、謙信が不在の時。特に越中に入っている時に関東を狙われる事であります。実際、謙信は幾度となく越中と関東の往復。更には越後国内の叛乱の鎮圧に振り回されて来ました。」
馬場信春「その原因を作った大半はうちだけどな。」
長坂釣閑斎「その事は伝えるなよ。」
跡部勝資「御心配無く。」
長坂釣閑斎「今後、謙信は上洛を目指す事になります。その第一段階として越中の直轄化に本格的に取り組んでいる最中にあります。この大事な時に関東からの要請が。それも養子である景虎から齎される事態は避けたいものであります。出来る事であれば安全な越後の。それも春日山に残したいのが本音では無いかと。
と同時に謙信は関東を諦める事も出来ません。何故なら彼は関東管領を将軍様から任命された立場にあるからであります。しかし現状関東情勢は厳しく、北条の圧迫により悲鳴を上げる勢力からの要望がひっきりなしに飛び込んで来る事態にあります。
これら全て解決する事が出来、更には2人の養子を棲み分けする事も可能となる方策を跡部に授けた次第であります。これで駄目なら諦めましょう。」
武田勝頼「跡部。頼んだぞ。」
跡部勝資「了解しました。ところで殿。」
武田勝頼「どうした?」
跡部勝資「此度の北条との和睦について、謙信が気にしていた事があります。」
武田勝頼「申してみよ。」
跡部勝資「はい。今回のうちと北条。そして上杉の和睦により、うちは東海道東山道から。上杉は北陸道ないし飛騨から織田領を伺う事になりました。と同時に上野以外の関東を北条に委ねる。うちと上杉は放棄する事になりました。」
武田勝頼「確かに。」
跡部勝資「ここに上杉景虎が厩橋に入る事になります。景虎は謙信の養子でありますが、同時に氏政の弟でもあります。うちの主力。上杉の主力双方上野には居ません。うちは美濃三河に遠江。謙信は越中に兵を集中させる事になります。景虎の周囲で大きな兵を動かす事が出来るのは北条氏政しか存在しない事になります。
上杉景虎は関東管領であります。権限はあります。しかし自前の兵を持っていません。北条の兵が彼の安全を保障する事になります。つまり……。」
高坂昌信「北条氏政が関東管領である上杉景虎を使って、関東の簒奪に動くのでは無いか?」
跡部勝資「その通りであります。」
馬場信春「氏政の暴走を防ぐためには、うちも上杉もそれ相応の兵を残さなければならない。しかしそうしてしまうと本来の目的である織田信長攻略が出来なくなってしまう事にもなる。」
跡部勝資「尤も景虎は腹違いではありますが氏政の弟であります。言う事を聞かないからと言って、彼を亡き者にしようとは考えていないでしょう。そんな事をしようものなら謙信は全てを投げ打って小田原に乱入する事が目に見えていますし、氏政もわかっていますので。」
長坂釣閑斎「しかしその事態は避けなければならないな。」
山県昌景「北陸から謙信が居なくなり、関東で上杉と北条が激突。西と南から織田徳川と戦いながら、同盟している上杉、北条のどちらか一方を選択しなければならなくなる。その選択を間違えた瞬間。安全なはずの北ないし東から兵が殺到。うちは少なくとも三方から脅かされる事になってしまいます。」
内藤昌豊「うちと北条。そして上杉の三者を結び付けるはずの景虎が、彼の持つ脆弱性。自前の兵を持たない事が原因で和睦を結ぶ前よりも関係が悪化する危険性を孕んでいる……。」
高坂昌信「そうはならないよう謙信がうちに釘を刺して来たのかもしれないな?」
跡部勝資「可能性はあります。」
馬場信春「尤もうちにその意思は無い。異論無いな?」
静かに頷く一同。
馬場信春「謙信が景虎を裸同然で厩橋に出すことなどあり得ぬ。彼が考えている景虎の安全保障と決め兼ねている事を探ってくれ。」
跡部勝資「わかりました。」




