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鯨の雨

作者: 篠突雨


雨が降っている。

雨は通常空から落ちてくるもので、今まさに目上に広がる天井から降り注ぐようなものではない。

蛇口を勢い良く捻った時のようなシャワーの如く、水飛沫は降り掛かってきていた。


目の前で騒ぎ立てる館員たち。

慌ただしく立ち入り禁止のロープが貼られ、縺れたロープには幾つもの汚い結び目が見える。

その床に散らばる無数の硝子の破片だか水滴は、薄暗い館内の中で弱々しく光るライトに反射してきらきらと美しく輝いていた。


水族館の大水槽が破壊された。


大騒ぎとなったその事件は、速やかにその水族館を封鎖し数多くのマスコミが群がる良い餌となったらしい。連日報道の車が水族館の駐車場に押し寄せ、入り口には我先にと自ら扉に押し込まれていく報道陣の人々が絶えなかった。

一般の人々は勿論当分立ち入り禁止になっていて、店内のポスターやイベントの看板は端に追いやられ、いつ展示が再開されるかなどは当たり前だが未定のままだった。


水族館の大水槽はその管内で一番の大きさを誇るものであり、その中には沢山の小魚からエイ、大魚にサメ、そして鯨が一頭悠々と泳いでいた。

破壊された大水槽の中の魚は大半が死に、暗闇の底のような床にぺたりと張り付き息絶えていく様を、あの弱々しいライトだけが優しく照らしていた。サメは幸いなんとか生き延びたらしく、弱々しくはあるものの保護され臨時の水槽の中でじっと体調が戻るのを待っている様子であった。エイの行方はわからず、あの平べったい体からどこかにへばりついているのかと言われたがついぞ見つかることはなかった。生き絶えた大魚や小魚達は館員達によって生臭いバケツの中に次々放り込まれ、まるでいつもの餌の投下前のようなものが沢山出来上がった。しかしそれはもう水槽に戻されることはなく、生ごみとして処理されるのであろう。

まるでまだここにいたいのだと彼らが訴えたのだろうか、未だその時の生臭さは抜けることなくこの空間に残されていた。


肝心の鯨は、水槽から少し離れた、外へ続く硝子のその先の、あと数十メートル先はもう波打ち際というところで息絶えていたという。どうやってそこまで移動したのか、あるいは何者かによって運ばれたのか、皆目見当つかなかった。これがまた事件だとマスコミに騒がれる要因になった。嫌な話だが、その死体を処分するのには相当労力とお金とやらがかかったことだろう。人も入らない日々が続くのだから、勿論収入があるわけでもない。水族館としては相当の痛手になるのであろう。展示の中であの鯨は、目玉と言っていい生物だった。そしてその鯨はなんという名前であったのか。今更ながら、まだその名前をよく知らないしそもそも覚えてもいなかったことに気付く。本当に今更だ。


水槽が壊され、海へと続く硝子が壊され、風に乗って生温い外の塩の香りがする。波のうねる音が、繰り返し繰り返しどこまでも続いている。外側の硝子はまだ直されていない。警察とやらによると現場保存、とかいうやつらしい。おかげで館内の空調は効きが悪いので困る。いつもの好奇心に溢れた視線もなく、物々しい人々の視線しか見えないのも嫌気がさすものだ。


ふと、あの鯨は海へ戻りたかったのかもしれない、と思った。

あの広い海のどこかで生まれ、突如として幼いままにここへ連れてこられて幾年、ずっと生まれ故郷を想って生きてきたのではないか。幾年も想い続け耐え続け体は立派な姿へと成長した。その力を持ってして全力であの水槽を破壊したが、その先の硝子を破壊しようやく海へ戻れると思った頃にはもう体力は微塵も残っていなかった。そういうことなのではないのだろうか。


人間の作った水槽なるものは自然物よりも遥かに頑丈で簡単には壊れない。半永久的に生物達を飼い殺し展示することに特化させた機能であり施設なのだ。もしかしたら、もしかしたら彼は毎晩のようにあの水槽を壊すことを願いじわりじわりと弱らせていたのではないのだろうか。

長い年月をかけ、じわりじわりと。

その一度きりの生命をかけてまで、戻りたかった故郷の海。しかしよく考えれば、生まれた故郷の海がどこにあるのかも知らないのに、よく知りもしない海へ出たところで戻れる保証などどこにもない。あるいは、海ならばどこにでも繋がっているという結果論に基づいていたのか。


わからない。ここで生まれここで育ちここで死んでゆくものには、永遠にわからない気持ちなのだろう。


海とはどこまでも広く、深く、地上よりも多くの生物が暮らしているとされる。その世界がどれだけ美しく、恐ろしいものであるのかを私は知らない。外から得る知識でしか、知り得ることはできない。おそらく、この先もずっと、死ぬまで。

あの鯨はどのような海の世界に住んでいたのだろう。幼い記憶の中で、その世界は現実よりも輝いて記憶されていた可能性はないのだろうか。命をかけてまで、突き動かされる想いのままに目指したあの海とは一体。


私には決して超えることのできないこの硝子を、誰かが破壊してくれたなら。


そして私はあることに気付く。

あの大水槽にいたエイは、一体どこへ消えたのか。

あのエイは、どこから来たものだったのか。


まさか。


もし、あの鯨がとてつもない慈愛?のようなものや、あるいは親切心に溢れていたのであれば。鯨は同じ水槽にいたあのエイのために、何かをしただろうか。そもそも、それは親切というのか?他の魚のことは、何も考えずに犠牲にしたというのか。


海は、相変わらずうねり押し寄せてきている。

雨は、降っていない。










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