ウルスラ・ジレ・アウギュステ皇太子妃の憂鬱
悲劇の主役の様に走り去るイザベラに頭が痛くなる。
役立たずの穀潰しが。己の身の程も弁えずこの私に恥を掻かせるとは。皇帝の血を僅かに引くだけで皇位継承権すら無い唯の亡命貴族が、映えあるアウギュステ帝国皇太子妃の私と対等だと思っているのだろうか。
そもそもアレの母親からして無能だった。トーリス王国王太子の婚約者に収まり、ゆくゆくは王を傀儡とし政権を帝国の支配下に置く算段であった。それを幼馴染の女に奪われるなど、あり得ない失態だ。
皇族とはいえ下級貴族の娘が産んだ13番目の皇女。出し抜かれたと知った皇帝陛下の怒りは凄まじかったと聞く。それこそトーリス諸共滅さんばかりであったと。
しかし当時、アウギュステは南方の植民地で頻繁していた反乱鎮圧に軍事費の大半を投じていた。これ以上戦費は割けぬから次代に策を引き継ぐのはどうか、と献策したのは宰相ニコライ・ツルゲーネフだった。賢臣の誉れ高かった彼の者がその首と引き換えに具申したからこそ皇帝も矛を収めたのだ。
トーリスのアーサー王太子はそこそこ優秀であるが、挫折を知らない理想家で、まさに傀儡となる為に生まれてきたような男と聞く。これならばどうにかなるだろうと皆が思っていた。
そこまでお膳立てされた婚約をまた台無しするとは!しかも前回と同じ理由とは呆れ果てて物も言えぬ。男一人籠絡する事すら出来ぬなど話にならない。
皇帝陛下が表向きだけでも優しく接していたのは彼奴がいずれトーリス王妃になるはずだったからだ。エカテリーナがしくじった策の担い手になり得るからこその対応であったというのに。
全て失敗した身で図々しく陛下の庇護を求める姿は愚かを通り越して醜悪ですらあった。
その上、あの大量の難民。トーリスから連れてきた2万人に及ぶ元公爵領民をどうするかも、目下懸案事項だ。イザベラは優れた職人の集団であり帝国の産業発展に役立つなどと嘯いていたが、アウギュステの公用語を話せる者は全体の1割。仕事を任せようにも、こちらの言葉が理解出来なければどうしようも無い。
ひとまず皇帝直轄領に難民として住まわせ、通訳と言語習得の為の教師を何人か派遣したが、いつまでもいて貰っては困る。
仮住居の用意に炊き出し、支援物資の供給。彼らの生活支援に一体どれ程国費が消費されていると思っているのだろうか。
「失礼致しました。あの様な部外者をトーリスからのお客人である貴女に近付けるとは。私の失態ですわ。」
「まぁ、皇太子妃殿下。我がトーリスと貴国は共に手を携えて来た同盟国ではありませんか。
このような茶番、もう起こらないと信じておりますわ。」
おっとりと微笑む姿は、私個人の謝罪では済ますつもりが無い事を暗に伝えてくる。
ああ、そうだ。問題はまだある。この女だ。
アーデルハイト・リヴェ・トーリス王太子妃。イザベラの後釜に据えられた元侯爵令嬢。ニコニコ笑うだけの無能と報告していた間者共の首を刎ねてしまいたい。
この女がトーリスの政権に関わる様になってから、全てが上手くいかなくなった。間者は徐々に数を減らし、情報がまともに入らなくなった。こちら側に引き込んでおいた官僚や貴族たちはいつの間にか失脚していく。輸出品の開発・流通では常に先を越され、先日は新たに発見された希少金属が採れる鉱山の採掘権を奪われた。
この者は今の地位に着くまで、己の脅威を外に一切悟らせ無かった。イザベラとは比べ物にならない程狡猾で厄介な相手だ。
今回の婚約解消とそれに伴う一連の事態にしても、振り返って見れば全てトーリス側に有利に働いている。トーリス支配の計略を潰すばかりか、難民流入による嫌がらせ。まさかアーサー前王太子が平民に入れ込む所から計画の内か?いずれにせよ裏にはこの女がいるのだろう。
それに、エドワード王太子。あの者も異様に勘が良い。どんな間者を送り込んでも一両日中には放り出される。こちらの息のかかった女で籠絡し、アーデルハイトを排除する策は一度も成功していない。幼少より二人の仲はあまり良く無いと報告にあったが、これも偽装だったのだろうか。
あぁ、イザベラの様に馬鹿なものが後を引き継いでいてくれたらどんなに良かった事か。
今日の貿易協定に関する意見交換も一筋縄ではいかないだろう。
私は扇子の陰で溜息を押し殺し、アーデルハイトに向き合った。
ウルスラ
アウギュステ帝国皇太子妃。後皇妃。
イザベラが馬鹿な事は分かっていたので、彼女が王太子妃になった後は上手く操り裏側からトーリスを支配下に置くつもりだった。人心掌握に長けている為、イザベラが失敗したとしても、後釜に収まったのがアーデルハイトでさえ無ければ上手くいっていた。
これからの事を思うとお腹痛い。頑張れウルスラ!
エカテリーナ
アウギュステ帝国第13皇女。後リュミエール公爵夫人。
母親の身分は低いが絶世の美姫。その美しさで当時のトーリス王太子オルガを籠絡し、妃に収まる事を期待されていた。頭の方は空っぽだが、帝国側からは逆に操りやすいと思われていた。
ただ、皆の想定を越えた馬鹿であった為、婚約者を別の女にあっさり奪われた。彼女はここに至ってもなお、事態の深刻さを全く理解していなかった。こんな所もイザベラは母にそっくりである。