海のような女と
ベッドを軋ませて、俺は寝返りを打つ。オレンジの薄暗い照明が天井をぼんやりと照らしていた。
シーツにくるまったハナが、隣で湿っぽいため息をつく。
「今日は、しおらしくて良かった」
カールのかかった茶色い長髪を撫でてやると、ハナは苛立たしげに首をひねって避けた。
「なんだよ?」
返事がない。代わりとばかりに、ハナはわざとらしくまた大きなため息をつく。
「今日はため息ばっかりだな」
さっき俺が中に出したあとも、ハナはため息をついていた。面倒臭いので放置していたが、ここまでひどいと鼻につく。
「お前にも悩みとかあんの? たまには俺が聞く側に回ってやってもいいぜ、いつものお前みたいに」
ハナは俺が悩んでいたり塞ぎ込んでいたりするとベッドに誘ってきて、行為の前後でよく相談相手になってくれていた。俺はハナのその広い心や、怒りや鬱憤をすべて受け止めてくれる体が好きだった。
「あなたに? 冗談でしょ」
「あぁ? 喧嘩売ってんのか」
様子がおかしい。いつものハナは俺に安い喧嘩なんて売ってこないし、そもそも突っかかってきたりしない。海みたいにでかい器でなんでもかんでも受け入れてくれるからだ。
無視を決め込むハナの髪を引っ張ると、強めに手で払われた。
「売ってないわよ。だいたい、あなたが一度でも私の相手をしてくれたことがあった?」
「は? いつもしてるだろ」
「あなたはいつも、私の体でお人形さんごっこしてるだけでしょ。一度だって、私を人として扱ってくれたことなんかない」
意味がわからず、言葉につまる。
「何言ってんだ、マジで」
「あなたは私のことなんでもさせてくれる都合のいい女くらいにしか思ってないんでしょ? もううんざり。出てって?」
「んだよ、ったく」
俺は乱れた服を整えて荷物をまとめ、そそくさと玄関扉をくぐった。
ハナの家は五階建てのマンションの四階だ。俺は憂さ晴らしに足にひっかけたハナのハイヒールの片方を蹴っ飛ばして、マンションの階段を上がっていった。
向かうのは屋上だ。飛び降り防止かなんなのか、この階段は直接屋上へはつながっていない。最上階の端にある柵を乗り越えた先のはしごからいける。ハナに教えてもらった。
昼間の屋上は心地のいい風が吹いていて、俺は屋上のふちに立って雲の合間を縫って顔を出す青空をぼんやりと眺めた。
しばらくそうしていると、足元で窓が開く音が立った。立て付けが悪いらしく、デカい音がしていたので自然と視線がいってしまう。
窓から顔を出したのは、ハナだった。疲れた様子で百円ライターを擦って手のひらの中で火を起こし、タバコにつける。
「アイツ、タバコなんか吸ってたっけ」
少なくとも、俺の前では吸っていないはずだった。と言っても、はっきりそう断言できるほどハナの普段の様子が浮かんでこなかった。どうやらハナの言う通り、俺はアイツのことをほとんど気にかけてこなかったらしい。
何の気なしに、タバコを吸うハナのだるそうな顔を見下ろしていると、不意にハナが後ろへ振り返った。誰かに呼びかけられたみたいな素振りだった。なんとなくそんな気はしていたけど、俺以外にも相手がいるらしい。
ばつが悪くなって、俺ははしごからおりて階段をくだり出す。
ハナの家がある四階に差し掛かると、ハナの悲鳴が聞こえてきた。短い、喘ぎ声みたいな悲鳴が玄関扉から漏れてくる。
さっき俺が蹴飛ばしたハイヒールの片っぽが扉に挟まって隙間ができているせいで、外にだだ漏れになってしまっているようだ。
さっきも言ったように、悲鳴と言っても喘いでいるように聞こえなくもない。ときおり男の罵声みたいなのも聞こえてくるけど、ここでハナの家に飛び込んで助け出してやるほど、俺はお人好しじゃなかった。
ただなんとなく、俺もハナにとってはおんなじようなもんなのかなって、自分をかえりみて、苦笑した。
「お人形さんごっこ、か。その通りかもな」
俺はハナのことを海みたいな女だって勝手に思ってた。けど、どうもそうじゃないらしい。今ハナとヤってる男ほどあからさまじゃあないとは思うけど、ハナを生きている一人の女として見ていないところは同じなのかもしれなかった。
俺はマンションの階段を下り切ると、ハナのいるであろう四階の一室へ振り返って、また歩き出した。