二次元と三次元、混ぜるな危険
通学路、爽やかな晴れの景色を尋と歩く。
「ナースって響きはエロいが、看護婦さんって響きはかわいいよな。どっちも捨てがたい」
かといって、交わされる話題までもが爽やかとは限らない。
「相変わらず好きだねぇ、ユウキちゃん」
もちろん、二次元の話である。
「昔も言ったと思うが、俺は自分を世話してくれる風なキャラが大好きだ。だが、しかし」
「同い年の幼なじみや、年下の妹に世話されるのは気が引ける、でしょー」
尋が続きを言う。もちろん、二次元の話だ。
「そうだ。その点、看護婦さんはどうよ? 世話を焼いてくれるのが仕事だろう! 二次元世界においてその行為に甘んじることに、なんの気おくれもない」
「仮想世界とはいえ、そういう『自分にとっての現実感』というのが重要なんだよね?」
「ああ、そうだ。だから、『~様』付けしてくれるメイドさんとかも、少し厳しいよな。俺は様付けされるような人間じゃないわけだし。だから、俺にとっては『~さん』呼びのお手伝いさんの方がいいんだ」
「はいはい」
などと、いつも通りの会話をしているうちに、校門へと辿り着く。
二年三組の教室。今日は比較的早く着いたので、まだ人は少ない。これが少し遅くなると教室に入った瞬間に大量の三次元人を目にする羽目になるから、大変だ。
教室の前の出入り口から一番近い角の席に尋は座り、俺はその後ろに座る。始業まで時間があるので、ノートに落書きをして過ごす。ああ、もっと絵が上手くて、理想の二次元イラストを自分で描けたらなあ。至高のイメージが自給自足できたら、どんなにいいことだろう。
人が集まり、教室の喧騒が徐々に大きくなっていく。毎日内容は違うはずなのに、同じに聞こえる音。興味のない証拠だ。
「おはよ、雪島さん」
一人の女子が尋に挨拶をする。
「あ、おはよー」
「もう、相変わらず寝癖ひどいねっ。せっかく綺麗な顔してるんだから、髪形に凝ったり化粧とかしたりすればいいじゃん」
「あはは、ありがとー。でも、いいの。あんまり意味ないから」
「そんなことないのに、勿体ないなあ」
女子Aは尋の元を離れ、別のグループの会話に加わっていった。社交的な女子なんだろうな。……しかし、よくそんなに多くの人間を相手にできるもんだよ。俺にはとても無理。まだ五月だとはいえクラスメートだってほとんど覚えちゃいない。
そもそも、二次元至上主義者の俺に三次元人のことで脳を使えなんてのが無茶な話だ。そこで雪島尋が登場する。
この長身寝癖の幼なじみは、俺と二次元妄想会話を空気のように交わせるだけでなく、人見知りしないという、俺に全くないスキルを持っているのである。
だからクラスの連中が俺に伝えたい話は、まず尋に伝えられ、尋から俺に伝えられることになっている。そうやって尋を介することで、俺はできるだけ三次元人と関わらずに済み、精神負担の少ない高校生活を送れているのだ。こうした尋の役割はとても重要で、俺にとっては毎日朝起こしたり飯を作ったりすることと充分釣り合うのである。
というか、ぶっちゃけ、尋なしで学校生活を送るなんて考えられない。
別にロマンスな話ではなく、人間嫌いな俺の社会的死活問題としてだ。
「今日は英語の時間に抜き打ちの小テストがあるらしいんだって、あくまでウワサだけど」
「おう」
尋はクラスメートから聞いた話の内、俺に必要な情報だけをピックアップしてくれる。教室内で交わされる話題の大部分。例えば最近の流行や昨日のテレビ、誰かと誰かの惚れた晴れたのゴシップなんぞは自動でカットしてくれるという寸法だ。このシステム、クラスの連中にしたって、悪いことではない。俺みたいな人間嫌いには話しかけずとも、話しやすい尋に言っておけばいいのだから。
「今日はそれだけかな。そういえばさー、ユウキちゃん」
尋がこちらに背を向けたまま話しかけてくる。
「今日は来るかなあ? 御津宮さん」
「さあな。あの空気は疲れるんで、なるべく来てほしくないが」
御津宮紗枝というのは、俺たちのクラスメートにして、この学校の「三大変人」の一人である。人はなにかと三大○○ってのをやりたがる。その学内版だ。
三年生の辻水瀬。
二年生の御津宮紗枝。
一年生の松本さくら。
この三大変人については、学校内の注意すべき事項として尋から詳しく聞いており、現実に興味のない俺でも覚えている。踏んではならない地雷として。
普通の他人ですら苦手なのに、その他人からも敬遠される「三大変人」なんて、どう考えても危険だろう。だが事実として、このクラスにはその地雷の一つが埋まっているのである。
そして、御津宮はよく学校を休む。
来るとすればいつも始業の鐘が鳴る直前に現れ、皆を落胆させる。そのため、もう少しでホームルームが始まるこの時間、クラスの緊張は痛いほどに高まるのだ。
今日来なければ、まるまる一週間の休みになる。
教室は御津宮のいない一週間を望んでいる。
結局、今日も御津宮は現れなかった。教室では小さな歓声が上がっていた。
弛緩した空気の中、午前の授業はあっという間に終わりを告げて、昼休みとなる。俺は尋と机を合わせ、早起して作った弁当を二人で食べていた。俺たちのいつもの昼の風景だ。
「わたし、思ったんだけどさー」
尋は俺特製のサンドイッチを一口に頬張り、行儀悪く続ける。
「みぃふみやはんってさー」
「あぁ? 御津宮がどうしたよ」
こいつ、今日はよく御津宮の話をするな。
「個性的だよね。ちょっとなんか、アニメとかマンガに出てきそうな感じじゃない?」
確かにあいつは「お嬢様キャラ」のような側面がある。執事のような従者を持ち、自由気ままに振舞っているのだからな。しかし、
「おいコラ。お前、何年俺の幼なじみをやってるよ」
「へ?」
尋の言った言葉は俺にとって、見当違いもいいところだった。
「毎日に近く俺の二次元論を聞いておきながら、まだそんなことを言うとはな。いいか? 二次元てのはあくまで二次元だ。三次元は三次元。全くの別物だ」
尋は二つ目のサンドイッチの先をくわえて固まる。俺は畳みかけるように持論を展開した。
「こいつはあくまで俺の主義だが、二次元と三次元は混ぜちゃあいけない。二次元の世界というのは、実在しないからこそ理想。触れられないからこそ焦がれる。そいつを現実と結び付けようとするのは、俺にとってはナンセンスな思考さ」
ここで俺はいったん言葉を切り、尋はその間にサンドイッチを平らげる。
「『二次元』というのは、あくまで世界を見る『イメージ』だ。二次元イラストが挿絵のライトノベルでも、人物描写は三次元的だろう? 目の大きさや口、鼻の小ささなんて描写されてないし、どう考えても二次元キャラの見た目と設定のスリーサイズは一致してない。彼女たちが実際にああいう姿をしているというわけじゃないという証拠だ。つまり、二次元というのは実在じゃない。あくまでイメージなんだ。この世界の常識を外れた設定やキャラクターをそれらしく見せるための術式だ」
俺は言葉を尽くし、当たり前のことをさも意味ありげに言う。だがその当たり前は、俺にとって非常に重要だ。二次元と三次元、混ぜるな危険、である。
「現実の、三次元の人間が奇抜な言動をしていたら、それはただの変人なんだ。奇抜なキャラクターが容認されるのは、二次元というイメージが伴ってこそだ。これが俺の考えだ。俺が好きなのは二次元という『イメージ』を愛でたり、考察したりすることなわけ。マンガやアニメやゲームとかの世界を『体験』したいなんて全く思わないね。世界を救うようなハード展開はもちろん、ハーレム展開だって俺みたいな人見知りにはキツイだけだ」
「はー、あいかわらずだねー」
「とにかく、御津宮はとても二次元キャラのようだとは言えねえよ。なにせルックスが三次元なんだから。二次元キャラのような三次元人なんて存在しない。しようがないんだ。つうか、二次と三次は混ぜないって俺の主義、何度も話してるだろ? 頼むぜ兄弟」
コスプレを愉しんだり、メイド喫茶みたいなイベントを愉しんだり、中の人を追いかけたりという人々を否定する気はないが、俺はあくまで純粋な二次元至上主義者なのだ。
「ごめんごめん。なんとなくは覚えてたんだけど、ちょっと確認したくてさー。あはは」
そんな会話をしながら昼食を終え、俺はトイレに席を立つ。我慢できるものなら家まで我慢したいのだが、今日のはどうも無理そうだった。
なんで我慢するのかって? なるべく自分の席から動きたくないのさ。犬も歩けば棒に当たるように、学校を歩けば三次元人と会う。それは、俺にとって精神をすり減らすイベントなのだ。しかも休み時間のトイレなんつったら、ほぼ必ず人がいる。しかも集団でいることが多い。
というわけで俺は一階に降り、校舎の外に出て、人があまり来ない離れのトイレへとわざわざ向かう。その途中でも、外から校舎へと向かう一団とすれ違う。別段、声を掛けられるわけでもないのに肩身が狭い。鼓動が早まり、目のやり場に困る。尋以外の三次元人と相対するとき、俺は恐怖と言っていいほどの強烈な苦手意識を感じるのだ。この対人恐怖症こそが、俺が人付き合いを避けている最大の理由だった。二次元の世界には、それがない。
しかし、これほどの対人恐怖症になってしまった直接の原因というのを、俺は知らないのだ。少なくとも、俺が記憶している範囲においてそこに繋がりそうなトラウマはない。
これはおそらく、劇的な原因がある話じゃないのだろう。
精神の、生活習慣病。日々の生活の結果なのだと思う。
原因の一つはもちろん二次元中毒。俺は二次元にのめり込みすぎたせいで、現実の人間をまともに見れなくなっているのだ。
そして、もう一つの理由は、
(おや? あれは、なにをしてるんだ?)
あと少しでトイレに着くというところで、地面にしゃがみ込んでいる女子が目に入った。
彼女は半ばあきらめ気味の、しかしそれでも引くことはできないという様子で、なにかを探しているようだった。指先には側溝が見えた。なにかを落としたのだろう。
その場に立ちつくし、見なかったことにして立ち去るか、声をかけるか思い悩む。
少し、捕捉しておこう。
俺は二次元二次元と言って現実なんのそののスタイルを貫いてはいるが、実際は自分が関わった現実の出来事について後悔を引きずってしまう性格なのだ。だから進んで人と話そうとすることは滅多にないが、困っている人間を見てしまうとなかなか放置することができない。
「あの、なにか落としたとか?」
思い悩んだ末、声をかけることにした。
俺は声をかける億劫さ以上に、この場を通り過ぎたであろう他の連中と同じになるのが嫌だった。マイノリティを自覚する人間の安いプライドだけどさ。後悔を残しちゃあ気分よく妄想もできないだろう?
「あ、うん。そうなの。鍵を、落としちゃって」
力なく言う女子のネクタイは赤色。同学年だ。側溝の中を見ると、小さなキャラもののキーホルダーの付いた鍵が落ちていた。
「フタは、取れないの?」
「うん。重いだけじゃなくて、なんか取れないようになってるみたい」
なるほど。側溝のフタは外れないし、穴の隙間には手が入らない、と。
「ああ、それなら、ちょっと待ってて」
偶然にも俺は、この状況を打破する手を知っていた。我が世話焼かせの幼なじみが、似たような目に遭ったときに思いついた解決策があるのだ。ナイス偶然!
「これで、なんとかなると思う」
急いでホワイトボードの掲示板まで行き拝借してきたある物を、俺は自身のスマホのストラップの紐部分に括り付け、側溝の下まで垂らす。パチ、という小さい音がして、紐を引き上げるとその先には鍵が付いていた。
紐に付けたのは、ホワイトボードから拝借した磁石だ。手の届かないところに落ちてしまった小さな金属類を回収するには、なかなか良い手だと思っている。
「うわあ……すごい。ありがとう! ありがとう」
女子は飛び上がるように喜び、鍵の汚れも気にせずに手に取り、何度も感謝を口にした。まあ、人と関わるのが嫌いな俺でも、流石に悪い気はしない。
「それじゃ、俺はこれで」
とはいえ三次元人との長時間のやり取りは精神に悪い。俺がその場を立ち去ろうとすると、
「あのっ! 本当にありがとうね。北原君」
女子は俺の名を呼んだ。俺は知らない女子だったが、特に有名でもない俺を知っているということは、クラスメートか。覚えてないけど。
「あ、ああ、うん。今後は気を付けて」
あっちは俺を知ってるのに、俺はあっちを知らない。その気まずさから逃げるように、俺は離れのトイレへと小走りに向かった。そろそろ尿意も限界だったしな。
まぁ、こういう善行もたまにはいい。
なにかいいこと、あればいいな。