イヤホンジャック
おれの周りに聞こえてくる音という音は、すべて煩わしいものばかりだ。車のマフラーから出る排気音。電車が線路の上を走る音。行き交う人々の声。テレビのスピーカーから出る騒めき。道の端で雀がさえずり、全てが煩わしい。
おれはイヤホンをつけている。ポケットから出ているイヤホンコードから流れる音が外界の騒音を遮断し、一人だけの世界に浸れる。
――その音は無音。
外の物音、喧騒、騒めき、さざめき、こすれる音、その他の一切を排除して、自分の安らぎを与えてくれる虚無と虚空の世界の音をイヤホンは流してくれる。この世界の音しか聞こえないようにしてくれるイヤホンを探すのには、骨を折った。なにせ、働いてお金を手にするにも、買うにも外界の物音を聞かずにはいられないのだから。
他の音を一切遮断してくれるこのイヤホンは学校の授業を聞く以外は常につけている。先生は口を酸っぱく学校の道理のことを言っていたようだが、結局おれはイヤホンをつけたままだ。
おれのイヤホンへの異様な執着はいつだっただろうか。そうだ、母が携帯を買ってくれた時だ。
まだ母が家に居た頃、初めて携帯を買ったついでに真っ白なイヤホンを買ってもらった。おれはそれを耳につけた時衝撃を受けた。携帯ショップの宣伝広報を垂れ流す音が遮断されて聞こえない静けさに心地よさを感じた。どうしておれは外の不協和音ばかりの音よりも無音の安楽性を知らなかったのだろう。
おれは夢中で携帯の電源を入れずに、帰ってからもイヤホンの無音を聞き続けていた。
錆びだらけの頼りない鉄の階段を上がって、自分のアパートの一室に帰っていく。階段に足を掛けていくごとに錆びの斑点がついている鉄の板がたわむ。きっと外ではギイギイという歯ぎしりに似た音が響いているのだろう。そのきしむ音が恐怖と危機感を煽るのだろうが、おれには何も聞こえない。何も聞こえないことが精神を安定させる。
家に帰っても、無音だった。居間は父が寝そべっておりテーブルの上には空いた缶ビールが散乱している。父の口が上下に開閉してイビキをかいているのだと思う。おかえりという声がイヤホンをつけているおかげで聞こえないが、母のおかえりという声がない以上その必要はないのだ。むしろ母を追い出した父からの声なんて鼓膜をゆする価値もない。
おれが居間を通り過ぎると、突然父がおれをつかみかかってきた。顔が赤い、きっと酒を飲んでいるからだ。だが父の声は全く聞こえない。父の唾がおれの頬にふきつけられて、ついた唾が張りついて生暖かく気持ち悪い。ふいに父が、俺のイヤホンを又の所から引っこ抜かれて顔を殴られた。イヤホンを抜かれた耳からは父の罵詈雑言の豪雨が降り注ぐ。
俺を舐めるな。そんなイヤホンをつけやがって! 調子に乗りやがって、聞いているのか!!
鼓膜が不協和音で揺さぶられる。ああ、煩わしい。
――プッ
イヤホンジャックを突き刺した。これで父の声はもう聞こえない。
落ちたイヤホンを拾うと、父はまた眠ったようで横になって倒れていた。まるでテレビの映像で見たような競りにかけられているマグロのように。口は空いているが閉まりはしないところもマグロそっくりだ。
おれは眠っている父の体を乗り越えると、つけっぱなしのテレビを消し、半開きの窓を鍵をかけて閉めた。これでほぼ完全な無音の世界に鎮める準備を整えて、まるで修行僧のようにテーブルの前で胡坐をかくと、イヤホンを耳に入れて無音の世界に入り浸った。
茜に染まる曇りガラスが豆電球一つも灯されていないアパートの居間を焦がしていく。静けさ、静寂さ、孤独、おれの心の不安定さをこのイヤホンの音で保っている。そしていつの間にかおれは眠ってしまった。
体が誰かに揺さぶられてまぶたが上がった。父の姿がいつの間にか見えなく、誰かが部屋に入ってきて騒ぎ立てているようだ。
けど、何を言っているのかおれには聞こえない。外の理も倫理の声もおれには何も聞こえないのだから。