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元々酒の強い方ではない。痛飲すると翌日は頭痛に襲われることも分かっているので、学生時代には先輩の命令で必要以上に飲んだこともあるが、社会人になってからは泥酔するほど飲んだ記憶は無かった。でも、今日は少し飲み足りない気がしていた。かといって、ひとりで店に入って飲む気にはなれなかったので、家に帰って飲み直すことにした。冷蔵庫にチュウハイやビールが何本か入っていたはずだ。
健一の言った言葉が頭に蘇った。自分でもそれは感じていた。何かを変えなければ、自分はこのままずるずる穴の中に落ちて行ってしまいそうだった。
仕事を変える、ということもぼんやりながら考えていた。今の仕事を一生続けていく気にはなれなかった。といっても会社勤めをしている限り、自分の意にそぐわない仕事をしなければならないこともある。出世と縁の無い自分では、この先更に自分の意思とは離れた仕事をすることになる可能性もあるだろう。今更自分が選んだ会社を嘆いても仕方ないが、時代の歯車に乗り損ねたからには、このままじっと耐え続けるか、自分から他の歯車に飛び移って何かを変えるしかなかった。
あのまま絵美と結婚していたらどうなっていただろうか。仕事に不満があっても、絵美との生活を危険に晒してまで別の生き方を選べただろうか。しかし、今の自分には何も失うものは無い。これからの人生で悔いの無い選択をするべきではないだろうか。しかし、どんな選択肢があるのかさえも今の僕には見えていなかった。
見慣れた帰り道を歩きながら、ついさっき話していた中学時代の懐かしい名前を思い出しては、その面影を思い浮かべた。みんな元気でいるだろうか。そういえば、クラス会も久しくやっていない気がする。いや、去年の正月に催されたのに僕は仕事で参加できなかったのだ。次は何年後だろう。
そんなことを思いながら公園の前に辿り着き、見るとは無しにベンチに目を向けた。驚いたことに、朝と同じ場所に彼女の姿があった。いつもの自分だったら今日と同じように行動したか分からなかった。しかし、今日の僕は迷うことなく公園に足を踏み入れ、ベンチへと向っていた。
朝は座って伸ばした足元を見つめるようにしていたが、今はベンチに横になって眠っているように見えた。
「君、大丈夫」
僕の問い掛けにも、彼女はピクリともしなかった。
「ねえ、君」
やはり反応は無かった。口元はコートの襟に隠れていて息をしているのかさえも分からなかった。まさかと思い、肌が出ているところは顔だけだったので、そっと触れてみることにした。
もしもひんやり冷たかったらどうしようと思いながら、恐る恐る手を伸ばして頬に触れて、びっくりした。更に手を伸ばして、首筋に触れてみた。冷たいどころか、ひどい熱だった。
「おい、君。聞こえるかい」
揺さぶりながら、更に声を掛けた。
僅かに目が眩しそうに開きかけたが、直ぐに閉じてしまった。同時に口元が微かに動いたような気がした。
「なんだって、もう一度言って」
僕は彼女の口元に耳を寄せた。かすかに、寒いと言った声が聞こえた。
「君、家はどこ。この近くかい」
また、寒いとだけ答えた。
僕は公園の中に立つ時計を見上げた。十時を過ぎていた。病院に連れて行くとしたら、大学病院の救急外来しかないなと思った。
「ひどい熱がある、これから病院に連れて行ってあげるから」
そう言うと、彼女の左手が僕の袖をつかんだ。
「病院は嫌、病院は行きたくない。それならここに居る」
「ここに居るって、こんな所に居たら熱がもっと上がっちゃうよ」
「病院は嫌」
喉を絞るような声で訴える様子に、それでも病院に行こうとは言えなかった。
「君の家はどこ?」
「びょ、病院は嫌」
「わかった、病院には行かないから」
困ったことになった。病院に行かないとなると、どこかに運ばなければならないが、おそらく彼女は昨夜からずっとここに居るのだろう。もしくはもっと前からかもしれない。家に帰れるなら、とっくに帰ってるはずだ。
仕方がない、とりあえずは自分の部屋に連れて行くことにした。問題は運べるかどうかだ。
「とりあえず、ここは寒いから、暖かいところへ行こう、起きれるかい」
僕はベンチの上に体を起こしてみたが、直ぐに反対側に倒れそうになってしまう。とても歩いて行けそうにはなかった。抱いて行くしかないようだ。彼女の背中に隠れていたデイパックを拾い上げて肩にかけ、僕は彼女の背中と膝に腕を当て、持ち上げた。
あっけないほどに間単に持ち上がった。以前海へ行った時、絵美を同じように持ち上げたことがあったが、同じ位と思って持ち上げた彼女の体は、その半分くらいしかないように思えた。何かとても悲しい気持ちがこみ上げて来た。こんなか細い子が公園のベンチで倒れていても、誰も気付かなかったのだろうか。いや、自分を含め気付いていた人は居たはずだ。でも、いざとなると行動に移すのは容易ではない。今朝までの自分だったら、あのまま通り過ぎたかもしれなかった。
なんとか彼女を部屋まで運ぶことができた。軽いと思っていた体も、時間が経つに連れて重みを増していくように感じられた。アパートの二階に登る階段は苦しかった。普段の運動不足を呪った。
布団は一組しかなかったので、湿っているコートは脱がせて、ベッドに寝かせ、押入れから冬物の毛布と布団を出して掛けた。洋服も着替えさせてやりたかったが、さすがにここで脱がせるわけにはいかないので、取りあえずはそのまま寝かせることにした。
「さ・む・い」
切れ切れの声で彼女は言った。手を触ると、熱があるはずなのに指は冷え切っていた。
僕は薬缶に水を一杯に張って火にかけ、押入れに頭を突っ込んだ。電気ストーブが出てきた。更に小物が入った段ボール箱の中から、プラスチック製の湯たんぽを見つけた。学生時代に熱を出した時、長野から出てきた母親が持って来たものだった。それっきり仕舞い込んでいたが、こんな時に役立つとは思ってもいなかった。熱があるときは冷やした方が良いのかもしれないが、手足が冷え切った今は、とりあえず暖めた方が良いように思えた。
沸騰したお湯を湯たんぽに入れ、バスタオルで巻いて、ベッドの足元に入れた。突然の侵入者に驚いて一瞬離れた足が、直ぐにまた温かさを求めて湯たんぽに張り付いた。
解熱剤はあったと思うが、いつ買ったものか記憶が無い。この様子では食事も満足に取っていないようだ。栄養剤や氷、それに水分が必要だからスポーツドリンクがあった方が良いだろう。僕は近くのコンビニへ買い物に行くことにした。聞こえているかどうか分からないが、耳元に「ちょっと買い物に行ってくるよ。直ぐに戻るから」と言って部屋を出た。
コンビニへ向かいながら、病院に連れて行った方が良いかなと、再び迷った。しかし、あれだけ病院に行くことを拒んでいるのには何か訳がありそうだった。明日までに熱が下がる気配がなければ、連れて行こうと決めた。土曜なら行きつけの病院が午前中だけ開いている。
コンビニに入ると、カゴを手に思いつくものを次々放り込んだ。レトルトのお粥、スポーツドリンク、解熱剤に栄養ドリンク、おにぎり、梅干、バナナ、熱さましシート。日用品のコーナーで下着に目が行ったが迷った末にやめた。落ち着いてから本人に聞いてからにしよう。知らない男のベッドに寝かせておいて、今更セクハラの心配をしてもしょうがないが、二十四時間いつでも買いに来られる。
ビニール袋を提げてアパートへと急ぎ足で戻った。すっかり酔いは醒めていた。階段を駆け上がり、もしかして居なくなっていたりしてという心配をしてドアを開けたが、出かけた時の姿勢で眠っていた。部屋はストーブで大分暖かくなっていたが、汗を掻いている気配は無かった。体の芯から冷え切っていたのだろう。ストーブの温度を少し低くした。
こんなことなら、朝見かけたときに声を掛けるべきだったと、今更ながらに悔やんだ。絵美だったら、きっとあのまま見過ごしたりはしなかったはずだ。そういう女性だった。
僕は少し離れたところから、寝顔を見ていた。いくつくらいだろう。女性の年齢を当てるのは本当に苦手だ。高校生だと言われればそうも見えるし、二十代後半だと言われれば納得するしかない。肩を超える長い茶色の髪が頬に掛かっている。眉毛はちょっと濃い目だが、化粧はそれほど濃くは感じない。
二時間ほど経った頃だった。熱のせいで夢にうなされていたのか、時々眉間に皺を寄せ寝言のような呟きを漏らしていたが、眩しそうに瞬きしながら少しずつ瞼が持ち上がった。天井の蛍光灯を振るえる瞳で見た後、周りを見回し、最後に僕の方に視線を向けた。
「ここは」
今にも消えそうな声だった。
「やっと気がついたかい」僕は立ち上がった。
「僕の部屋だよ」
やっと少し汗を掻き始めていた。タオルで汗を拭おうとすると、びくっと反応した。僕を怖がっているように思えたので、タオルを置いて、さっきまで居た場所へ戻って座った。
「君は熱を出して、公園のベンチで倒れていたんだ。覚えているかい」
僕の質問は聞こえないように、目ばかりがきょろきょろ周囲を見回した。
「おじさん、だれ」
おじさんという言葉に、一瞬返す言葉を失った。
「あ、僕の名前は岡本誠司」
何か言おうとしているが、上手く口が動かないようだった。僕は立ち上がって台所からスポーツドリンクを持って来ると、目の前でキャップを開いた。冷たすぎない方が良いと思い、一本は冷蔵庫には入れずにおいた。
「熱があるから、少し飲んだ方がいい」
横になったまま、タオルを下にして飲ませようとしたが、むせてしまい上手く飲めなかった。
「ちょっと起きられるかな」
肩に手を触れようとすると、彼女は慌てて体を引いた。
「大丈夫、自分で起きられる」
そう言いながら上半身だけを持ち上げ、僕の手からペットボトルを受け取った。休みながら何度かに分けて喉を潤すと、こちらにボトルを出してきたので受け取った。彼女は再びベッドに横になった。
「君の名前も聞かせてもらえるかな。言いたくなければ、本当の名前でなくても良いけど、名前がないと呼びづらいから」
しばらく僕の顔を見つめていた彼女は、エリカと言った。僕は聞き取れずに聞き返した。恵梨香は漢字を一文字ずつ説明した。
「恵梨香ちゃんか、良い名前だね」小学生の子供に言うような台詞だったが、本当にそう思った。
「ところで、あそこで何をしてたの。そういえば、今朝会社に行く時にも見たような気がするけど、朝からずっとあそこに居たの」
「昨日の朝から、ずっと居た」
「昨日の朝」僕は思わず声が大きくなってしまった。
「どうして、家はあるんだろ」
話すのが辛いのか、恵梨香はしばらく目を瞑っていた。
「今は帰れない」
「そうか、わかった。聞きたいことはたくさんあるけど、もう少し体調が良くなってからにしよう。どこか痛むかい」
恵梨香は横になったまま頭を横に振った。
「大丈夫、少しだるいだけ。それよりお腹が空いた」
「ああ、そうだね。まさか、昨日から何も食べてないの」
今度は縦に頷いた。
「お粥とおにぎりがあるけど、どっちが良いかな」
おにぎりという返事に、テーブルの上の袋からおにぎりを出した。お粥の方がお腹に優しいよと言ってみたが、おにぎりが食べたいと言う。シーチキンは食べられるかという質問には「一番好き」と答えた。僕はおにぎりを袋から取り出し、恵梨香に渡した。三角のおにぎりの先をちょっとだけ口にすると、「美味しい」と言った。
「コンビニのおにぎりで、こんなに感激してくれた人は初めてだよ」と僕は笑った。
恵梨香はその後、たらこのおにぎりとバナナを半分食べた。食べ終えると、額の周囲に汗が浮いているのが見えたので、タオルで拭こうとしたが、恵梨香は途中でタオルを奪い取った。
「自分でするから」
「汗を掻いたら、着替えた方が良いね。着替えは持ってるかい」
僕の問いに、恵梨香は周囲を見回した。
「私のカバンは」
「ああ、これのこと」僕はベッドの下に置いてあったデイパックを持ち上げた。
「友達の家に泊まってたから、この中に着替えが入ってる」
「じゃあ、後で着替えるといい。薬を飲んだら、今はもう少し休んだ方がいい」
恵梨香はペットボトルの水で出された薬を飲み込むと布団に入り目を瞑った。
「この、足のところにあるのは何?」
「ああ、それは湯たんぽ。知らないかな。中にお湯が入っている。僕は長野の生まれなんだけど、子供の頃は冬にはそれが無いと寒くて眠れなかった」
「温かくて、気持ちいい」
目を瞑ったまま恵梨香は布団を口元まで引き上げた。
眠くないと思っていたのに、いつのまにかテレビを背に寄りかかったまま眠っていた。恵梨香に揺すられて、目が覚めた。
「そんなところで寝たら、風邪引いちゃうよ」
いつのまにか恵梨香は緑のトレーナーとスパッツのような黒いパンツに着替えていた。
「熱はどうだ」
「もう大分下がったみたい。かなり汗掻いたから」
「そうか、それは良かった。でも、水は飲んだ方が良いぞ」
恵梨香は笑った。
「お父さんみたい」
「そうか」
いくらなんでも、恵梨香の父親とは歳が違うと思うが、そういう言い方をされると、ちょっとショックだった。
「あのさ、なんて呼んだらいい」
「えっ」
「岡本さんじゃあ、変でしょう」
「何でも良いよ、おじさんでも」
恵梨香はくすりと笑った。
「ごめんなさい。おじさんって感じじゃないよ。でも、さっきは名前が分からなかったから、とりあえず。じゃあ、誠司だから、せいさんにしよう」
「なんだよそれ、変だよ」
「変じゃないよ、せいさん。可愛いじゃない」
「おじさんでいいよ」
「ううん、せいさんで決まり。ねえ、せいさん」
そんな呼び方をされたことは初めてだった。歯の根が浮く感じとはこんな感じかもしれない。
「ところで、恵梨香ちゃんはいくつ」
「レディに歳を聞くなんて、失礼ね」
「だって、全然分かんないから」
「いくつだと思う」恵梨香は顔を傾げて、覗き込むように見上げた。
「せいさんには教えてあげよう。十九」
僕はしばらく絶句してしまった。
「ま、まずいよ、それ。まだ未成年だったの」
「いいじゃん、二十歳なら問題ないの」恵梨香は両手を上向きに広げておどけた。
「もう一人暮らししてるし、もう少ししたら二十歳になるし。関係ないよ」
「一人暮らしって、帰る所があるなら、なんで家に帰らないの」
「ちょっとトラブって、今帰るとマズイんだ」
「男か」
「まあ、そんなとこ」
おかしなことに巻き込まれてしまったようだと思ったが、病人を放って置く訳にもいかない。
「じゃあ、熱が下がったら、家に帰るんだぞ」
「ありがとう、それまで居させてね」
恵梨香はベッドに潜り込んだ。
「せいさん、お布団あるの」
「大丈夫、その辺で布団被って寝るから」
僕はテーブルの上のゴミを集めて立ち上がった。
「一緒に寝る?」
えっと振り返ると、恵梨香は笑った。
「冗談よ。やだ、せいさん。そういうところはおじさんなんだから」




