エピローグ
到着した警察官はひとりひとりの身元を確認し、僕が岡本誠司と名乗ると「小島淳二殺害事件で事情を聞きたいので、署まで同行願いますか」と私服の刑事が丁寧な口調で言った。僕が頷くと、立てるかどうかを確認し、制服警官ふたりで両脇を抱きかかえてパトカーへと連れて行かれた。体中が痛んだが動くところをみると骨折はしていないようだった。どうやらまだ逮捕状が出るところまではいってなかったようだ。恵梨香と健一も別々に警察署へ連れて行かれるようだった。
簡単な傷の手当てを受けて取調室に入ると、以前携帯に伝言を残していた橋田という刑事が取調べを担当した。後ろに制服警官が座って記録を取っている。
名前と住所、職業を確認され、まずどうして今夜あの場所にいたのか質問が始まった。僕はありのままを話したが、橋田にとっては信じがたい内容だったようだ。途中何度も質問を挟み、それでも「うーん」と唸って腕を組むシーンが続いた。今夜の話が終わったところで、僕は八月の事故のあったところから順序だてて話をすることにした。それでも橋田はこれまで自分達が積み立ててきた捜査内容を覆す話に、にわかには信じがたい様子だった。
三十分ほど経った頃、ノックの音と共に若い刑事が入ってきて、橋田の耳元でささやいた。橋田は「失礼」といって部屋を後にした。記録係の制服警官は、手を休めることなく何事か書き続けていた。
五分も経っただろうか、橋田が再び部屋に戻ってきた。僕の前に掛け直すと、先程までの厳しい表情は陰を潜め、皺の寄った口元から笑みが見えた。
「芳賀が自供しましたよ。あなたの話とも一致する」
肩からふっと力が抜けた想いがした。それは橋田にも届いたようだ。
「体は痛みますか?今日はもうお帰りになって結構です。ただ、何度かお話を伺わなければならないと思いますので、ご足労願います」
「帰って良いんですか?」
橋田は頷いた。
「歩けますか?署の者に送らせましょうか」
「大丈夫です」
僕は立ち上がろうとして振らついてしまい、橋田が手を貸してくれた。
「すみません」
橋田に右腕を支えられ取調室を出て、廊下を二度曲がり階段で一階に下りた。階段の途中で長椅子に心配そうに座っていた恵梨香が僕の姿を見つけ立ち上がった。
「もう、大丈夫です」
階段下まで送ってくれた橋田に礼をいい、近寄ってきた恵梨香に笑顔を見せようとしたが、顔が引きつって上手く笑えなかった。
「せいさん、もう大丈夫なの」
「ああ、恵梨香ちゃんのおかげて助かったよ」
「歩ける?」
僕は大丈夫さと言いながら、なるべく足を引きずらないようにして警察署の玄関へと向かった。テレビドラマでは、警棒のようなものを持った警官が立っているイメージがあったが、夜中だったためか誰も居なかった。
「寒いね、でもこんな時間じゃタクシーも走っていないな」
「私、タクシー探してこようか」
「大丈夫、歩いていれば来るかもしれない。とりあえず駅の方へ行ってみよう」
僕は恵梨香と並んで歩き出した。
「恵梨香ちゃんの録音が効いたみたいだね」
「あ、あれ警察の人に聞かせたけど、証拠にならないって。それに携帯のボイス・メモって十五秒を四回しか録音できないから、肝心なところは取れてなかったし」
恵梨香は舌を出した。
「そうなんだ。そういえば、放り投げた携帯は拾ったの」
「せいさんまで本気にしたの。携帯投げるわけないじゃない。ああ言えば諦めるかと思って」
「嘘? おお、女は怖い」
僕の右脇に恵梨香のパンチが届いた。
「痛い」
僕は腹を抱えてしゃがみ込んだ。慌てて恵梨香も僕の様子を覗き込んだ。
「ごめんなさい、せいさん。怪我していたの忘れてた」
「うっそー」
僕が笑って顔を上げると、恵梨香は両頬を膨らませた。
「もう、心配したんだから」
僕らは再び歩き始めた。
「あ、せいさん。雪、雪だよ」
恵梨香に言われて空を見上げたが、黒い空には何も見えなかった。
「どこ?雪なんて見えないよ・・・。あ、また嘘か」
「違うよ。ほら、あそこ」
恵梨香の指差す外灯の方を見上げると、確かに小さな綿埃と見間違えそうな雪が舞っていた。
「本当だ」
雪国育ちの僕には雪とはいい難いものだったが、確かにそれは雪だった。
「やったー。ホワイトクリスマスになったんだ。初めて。嬉しい」
ホワイトクリスマスっていうのは、といいそうになって僕は言葉を飲み込んだ。恵梨香がそう思うなら、ホワイトクリスマスに違いない。恵梨香はしばらく目を閉じて両手を合わせていた。
「私が小さい頃、お父さんが教えてくれたの」
目を開いた恵梨香はもう一度雪を探そうとするように空を見上げた。
「クリスマスの日に雪が降ると、ホワイトクリスマスといって幸せが訪れるって。そしたら願い事をすると叶うんだって。でも、今まで一度もクリスマスに雪が降ったことはなかった。長野じゃ、毎年ホワイトクリスマスでしょうね」
僕ももう一度夜空に目を向けたが、もう雪は見えなかった。
「行こう」
恵梨香は僕の腕を引っ張った。
「そんなに引っ張ったら痛いよ」
「だまされないからね。ああ、でも寒い」
恵梨香は両手を口元に持っていき、白い息を吹きかけて暖める仕草をした。そしてそのひとつを僕の手に絡めた。
「あ、せいさんの手って暖かい」
「そうかい、この方が暖かいかも」
僕は恵梨香の手を掴んだままブルゾンのポケットに入れた。
「本当だ」
僕の手と繋がれた恵梨香の手は、寒さのせいなのか小さく震えていた。
「ところで、よく帰してもらえたね」
「えっ?」
「こんな時間に未成年が警察署に連れて来られたら、保護者が来ないと帰してもらえないんじゃないの」
恵梨香は口元をきゅっと結んで微笑んだ。
「私、もう二十歳」
「え、いつの間に」
「昨日が誕生日だったの」
「昨日?クリスマス・イブが? ごめん、知らなかった。何もお祝いしないで終わっちゃったね」
僕は立ち止まって恵梨香の表情を窺った。
「週末健一さんがお祝いしてくれるって」
「えっ、どういうこと」
「あれっ、健一さんが今週末飲む約束があるって言ってたよ。私にもおいでって言ってくれた」
「あいつー」
僕が取調べを受けている間に、そんな相談をしていたとは。
「嬉しいな、せいさんのお友達との飲み会に呼ばれるなんて」
それからしばらく僕らは無言で歩いた。いつの間にか恵梨香の手の震えは止まっていた。商店街の灯りで照らし出された空を見上げても、もう雪は降っていなかった。僕は遅ればせながらクリスマスの雪に願いをかけた。
(恵梨香がいつか素敵な恋をしますように・・・)
− 終 −




