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僕は駅から少し離れたバス乗り場のベンチに腰掛けていた。この駅は古くからの商店街に面しているため、駅前にターミナルがない。従って、バス停は駅前を通る道に沿って並ぶように点々と存在している。
九時過ぎに芳賀に電話をすると「蟹が沢」のバス操車場を指定してきた。駅前から「蟹が沢」行きバスに乗って行った終点である。車で傍を何度か通ったことはあるが、団地や住宅街を通った先にある小高い丘の上で、周囲にはあまり人家はなかった記憶があった。
芳賀の話では、終点でバスを降りると、隣接して芳賀の父親の会社の倉庫があるということだった。店舗を縮小してしまったため、蟹が沢の倉庫は半年前から使われていないとのことで、中には商品はなく、使えなくなって置き場所に困った陳列棚や冷蔵庫などがある程度だという。操車場の直ぐ横の道を入っていった一番手前の倉庫で待ち合わせということだった。芳賀が行けるのは遅くなりそうなので、終バスで来てくれればちょうど良い時間だと言っていた。
歩道にある時計の針が十時四十分を示していた。終バスの発車まで五分となった。僕が来た時には五人ほどしか居なかったのに、いつの間にか二十人以上が並んでいた。そこへ「蟹が沢」という行き先に赤いランプが点いた終バスがやって来た。ベンチに座っていた人々が一斉に立ち上がった。
行列に流されるようにバスに乗り込み、終点まで行くことを考えて最後列に座った。ネクタイを締めたサラリーマン風の人が多いことで思い出したが、今日は祭日ではなかった。僕は無断欠勤したことになる。初めてのことだったが、今は会社のことなどどうでも良かった。この状況では会社に行ったところで仕事になるはずがない。
恵梨香は最後まで一緒に行くと言い張ったが、必ず連絡を入れると言い含めた。心配をさせると何をするか心配だったので、『今バスに乗った』と短いメールを送った。
何を言っているのかわからない運転手の言葉の後にバスは動き出した。間もなく恵梨香から『了解、気をつけて』というメールが絵文字入りで届いた。
窓の外を眺めながら、バスに乗るのは久しぶりだなと思った。イブの夜は走っている車も少なく、バスはスムーズに進んで行った。ほぼ中間地点の「千歳」のバス停を出た時には、車内で立っている人は居なくなった。これから道は緩い上り坂が続き、終点へと向かう。小学校前のバス停で降りるお年寄りが運転手に向って「ありがとうございました」と大きな声を掛けた。運転手も「お気をつけてお降り下さい」と応えた。この辺まで来ると昔からの住宅街だから、百万人都市とはいえ人情は健在といったところか。
ポケットの中の携帯がブルブル震えた。一瞬ドキッとしたが、開いてみると恵梨香からのメールだった。『大丈夫? まだバスの中?』
隣に居た人も降りてしまったので、ゆったりとしてメールを打てた。『もう直ぐ終点に着く。心配要らないよ』
テープの音声で終点を告げる声が流れた後、運転手が篭った声で「終点、蟹が沢。終点、蟹が沢」と繰り返した。
操車場を兼ねたバス停には次のバスを待つ人の姿は無かった。既に駅へ向うバスは運行を終えていた。五、六人の人と共にバスを降りると、人々はバラバラの方向へ散って行った。操車場の中の外灯もほとんど消えてしまって暗かった。
バスが走ってきた道へ戻って駅とは反対方向へ歩いて行くと、芳賀が電話で言っていたように『スーパーマルハ第三ターミナル』という看板が道端に立っていた。探しながら歩かなければ、見過ごしてしまったかもしれない場所にあった。トラックが出入りするのであろう入り口にはチェーンが張られてあったが、歩いて行く分にはチェーンの外側を通れば問題なく中に入って行けた。
車が通らなくなって時間が経っているせいか砂利道の中央にも雑草が膝丈まで生えていた。電柱に付いている外灯があるため、見通しは悪くなかった。三十メートルほど入っていくと、芳賀が言っていた倉庫があった。芳賀はまだ来ていないようだった。
サッシで出来たドアには鍵は掛かっておらず、静かに開いた。中は真っ暗だった。寒いから先に着いたら中で待っていろと言っていたが、電気のスウィッチが直ぐには分からなかった。手探りでしばらく探したが分からず、携帯電話を開いて液晶の灯りでやっと見付けた。スウィッチを入れても点いたのはごく一部だけだった。ほとんどの蛍光灯は外してしまったらしい。使わなくなった倉庫だから、他へ回したということか。
そんなことを思いながら、事務所らしき部屋を右手に見ながら奥へと進んだ。隣の部屋はかなり広く、学校の教室二つ分くらいあったが、中にあるのは壊れた陳列棚数個と看板などのディスプレイに使ったと思われる材木や板切れだけだった。僕は中に入って部屋を見回した。床に積もった埃は最近人が訪れていないことを教えてくれた。芳賀も来ていないようだ。
その時、遠くから響くバイクの音が聞こえてきた。その音は次第に近づき、通り過ぎることなくこちらへ向かっているのが分かった。芳賀が来たようだ。灯りが点いているので僕が中に居ることは分かるだろう。
直ぐ近くに聞こえていたバイクのエンジン音が不意に止んだ。代わって、コツコツという靴音が響いてきた。部屋の入り口を注目しているとライダースーツにフルフェイスのヘルメットを被って芳賀が入って来た。その姿を見たとき、僕は言いようのない違和感を覚えた。それが何であるのかを考える前に芳賀がヘルメットを外して沈黙を破った。
「待たせたようだな、岡本さん。お巡りを巻くのに戸惑っちまって。俺がここに警察同伴で来たら、困るだろう」
芳賀はにやりと笑った。確かに重要参考人、いや今やほとんど容疑者になっていると思われる僕の姿を見つけたら、警察は即逮捕するだろう。
「俺は別にあんたの味方ってわけじゃないけど、俺のせいであんたが捕まったとなったら夢見が悪いからな」
「感謝するよ。ところで、僕はラジオでニュースを聞くくらいしか情報源がないんだけど、捜査の方はどうなっているのかな」
芳賀は手に持っていたヘルメットを陳列棚のひとつに乗せると、グローブも外し始めた。
「俺ん所に来た刑事の話じゃ、あいつらやっぱりあんたを疑っているようだよ。凶器に残っていた指紋があんたのものと一致したって言ってたから」
やはり既に指紋は調べられていたようだ。それは時間の問題だとは思っていたが、実際に知らされるとショックだった。肩の力が一遍に抜けた気がした。
「正直いって、俺ものこのここんな所に出て来たくは無かったんだぜ。小島をやったのがあんたなら、俺を狙う可能性も無いとはいえねえからな」
「違う、僕はやってない・・・。といっても信じてもらえないだろうけど」
「まあ、犯人見つけるのは警察の仕事だから、俺は自分の仕事をして、とっとと帰らせてもらうぜ」
芳賀は外したグローブをヘルメットの上に乗せた。
「僕に見せたい物っていうのは、一体何なんだ」
「ふむむ」
芳賀はもったいぶるように腕を胸の前で組んで僕を睨みつけた。
「映画ならここでぐっと盛り上がる音楽が流れる場面だぜ。主人公は終に真実に辿り着く・・・ってな」
それから芳賀はまたグローブを手に取り、はめ直した。なにか取り出すために脱いだと思っていたグローブをまた着けたということは、なにも出す気はないということだろうか。僕がそんなふうに考えているうちに芳賀はヘルメットも被りだした。
「なにをする気だ」
僕の問いには答えず、芳賀は床に落ちていた角材を手に取った。一瞬それで僕を殴るのかと警戒したが、同じ長さくらいの角材を二つ手に取ると、ひとつを僕に差し出した。
「取れよ」
僕が反応できずにいると、芳賀は更に角材を僕の体に触れるとこまで突き出した。訳が分からないまま僕はそれを右手に受け取ってヘルメットに隠れた芳賀の顔を窺った。スモークの掛かったヘルメットの中の表情は見えなかったが、笑っているように思えた。
僕が角材を手にすると芳賀は一歩後ずさり、刀を持つように角材を構えた。その時、僕の記憶の中に強く焼きついたシーンが再生された。
「そのヘルメット、お前のか?」
芳賀のヘルメットは赤い中に前から後ろまで黒いラインが入っていた。僕の記憶の中のシーンが今目の前に居る男の姿と重なり、しかしひとつにはならずにまた離れようとした。
「でも、あのバイクは確かに小島のバイクだと言われた」
その瞬間、芳賀が角材を振り下ろした。僕はかわそうとしたが、頭に直撃しそうな攻撃をわずかに逃れただけで、左肩に激痛が走った。
「なんで僕を・・」
芳賀はなにも言わずに次の攻撃を仕掛けてきた。さっきに比べると比較的緩い動きだった。僕は手にした角材で受け止めると、相手の体に向けて力一杯振り回した。芳賀は僕の力を試すようにそれを防御することなく体で受け止めた。痛みを感じたらしいことは体の動きにも感じられた。
「そうだよ、少しはやってくれないと、俺の話を信じてもらえないからな」
「・・・」
意味が分からないまま、芳賀の次の攻撃が続けざまに僕の体を打ち続けた。肩、腰、足へと角材が食い込み、少し遅れて強い痛みが襲ってくる。芳賀が手にした角材は折れてしまい、新たな物を物色していた。このままやられっ放しでは本当に殺されてもおかしくない。床に倒れたまま、芳賀の足に向けて角材を振り回したが、それほどダメージを与えることはできなかった。
「あれは、お前だったのか。絵美に怪我を負わせたのは、お前だったのか」
しゃべると口の中に塩辛い味が広がった。吐き出すとやはり血だった。
「思い出したようだな。もっと早くばれるかと思っていたが、あんたは女が怪我したことで、俺達のことは二の次だったからな」
芳賀は傍にあった菓子が入ってたような空き缶を引きずってくるとその上に腰掛けた。
「あの日、俺と小島は賭けをしていたんだ。先に坂を折りきった方が勝ちっていう賭けをな。ところが上に登っていざレースっていう時になって、小島が俺のバイクの方が性能が良いから勝って当たり前だと言いだしやがって。だったらバイクを交換してやろうってことになったわけだ。俺はあいつのバイクでも勝てる自信があった」
芳賀はそこまで話したところで、フェイスマスクの中に手を入れた。汗を拭っているようだった。
「ところが小島の野郎が慣れねえバイクのせいか、カーブでタイヤを滑らせやがって、外に膨らんだお陰で俺はスピンしちまった。
だから、あんたの大事な人に怪我をさせたのは、小島のバイクに乗った俺ってことさ。
最初は大した事故じゃねえからって思っていたが、そこで思い出した。あの時、おれはシャブで執行猶予中だったんだ。死亡事故じゃねえって言っても、執行猶予中じゃ次は実刑間違いなしだ。
そこで、あんた達が救急車を待って大騒ぎしている間に、おれは小島に身代わりを頼んだってわけさ。元々事故を起こしたバイクは小島の物だったから、後で調べた警察も俺達の話を不審には思わなかった。
それで全ては上手くいくはずだった。ところが、あんたの女が自殺しちまったおかげで、小島が欲を出しやがった。百万で手を打っていた話を五百まで上乗せしてきやがった。しかも俺の目の前で、あんたに見せたいものがあるって電話しやがった」
やはり最初の電話は小島だったわけだ。僕は芳賀の話を聞きながら起き上がり、壁に体を預けた。
「それで小島を殺したわけか」
「いや、俺はやってねえよ。あんたが団地の屋上で恋人を死に追いやった憎い男に復讐を果たしたんだろ。凶器に指紋を付けて現場に残してきたのはお粗末だったけどな」
「僕が行った時には、小島は既に殺されていた。お前があのスパナで殴って屋上から突き落としたんだろ」
「警察はそうは思わないぜ。俺の話しの方が筋が通っている。それに凶器にもあの団地の屋上にも俺の指紋はない。
そして、今夜俺はあんたに呼び出されてここにやって来た。小島を殺したあんたは次に俺を狙って襲ってきた。俺はあんたに殺されそうになって逆に正当防衛であんたと格闘しているうちに誤って殺しちまった・・・という筋書きさ。
どうだい、良くできているだろう」
芳賀はそこまで言うと、再び立ち上がった。
「さて、最後の仕上げと行くか。あんた、もう少し反撃してくれねえと後で警察が俺の話信じてくれねえよ。頑張ってくれよ」
芳賀はグローブを引っ張ってはめ直すと、陳列ケースのフレームから金属の柱を抜き取った。僕は痛む体に鞭打って立ち上がった。なんとか一撃目は受け止めたものの、続けざまの攻撃に手に持っていた角材は僕の手を離れた。慌てて拾い上げて、膝立ちのまま頭に向けて振り下ろされた攻撃を両手で受け止めた。二度、三度と繰り返されると腕の感覚は無くなり、痛みなのか痺れなのかも分からなくなった。手にした角材は既に折れる寸前だった。腕を持ち上げている力も次第に無くなり、次の攻撃は僕の頭を直撃しそうだった。もうこれまでかと思った時、ガラスが割れる音がした。
「そこまでよ」
聞き覚えのある声だったが、朦朧とする僕の意識の中では、とっさに誰のものかは分からなかった。床を大きな石が転がっているのが見えた。誰かが石を投げてガラス窓を割ったらしい。
床に伏したまま、窓の方へ視線を向けた。涙なのか血なのかは分からないが、視界もはっきりしなかった。割れた窓から外に居る人影が見える。その隙間から手を突き出し、何かを見せようとしていた。携帯電話のようだ。
「誰だ、お前は」
芳賀が僕の傍を離れ、警戒しながら窓へ寄って行った。
「それ以上、近づかないで。これを聞いて」
やっとその声が恵梨香のものであることが分かったが、どうして彼女がここに居るのかまで僕の思考回路は計算できなかった。
恵梨香が倉庫の中に突き出した携帯から何か音が聞こえている。静まり返った空間の中にその音が聞き取れてきた。芳賀の声だった。僕にも分かったくらいだから、もっと傍にいた芳賀にも聞こえたに違いない。芳賀が声を荒げたことが何よりの証拠だった。
「誰なんだよ、お前は」
「誰でもいいでしょ。あなたの話はこのとおり録音したわ。警察に聞かせれば、もうあなたの話は信じてもらえない」
そこへもうひとつ別の足音が響き、男が倉庫に飛び込んできた。
「セイジ、大丈夫か」
「・・ケンイチ」
血相を変えて飛び込んできたのは健一だった。倉庫に入ったところで、ヘルメットを被った芳賀の姿に一瞬たじろいだが、芳賀が呆然として手に持っていた金属片を落す姿を見て、ゆっくり僕の方へ近づいてきた。
「大丈夫か」
健一が僕を抱き起こし無事を確認すると、僕を支えたまま芳賀の方に向った言った。
「芳賀、もう諦めろ。さっき俺が警察に通報した。間もなくここに来る」
立ち尽くす芳賀を横目に見ながら、恵梨香も倉庫に入って来た。芳賀もそれに気付いた。
「お、おい。さっきの携帯はどこだ、携帯を出せ」
それでも恵梨香は臆することなく答えた。
「あんたに奪われたら、折角の録音を消去されるから、外の草むらに放り投げておいたわ。探してくれば。警察が来る前に見つかれば良いけど」
「ちくしょう」
芳賀はヘルメットの重さに耐え切れなくなったように、頭を垂れてその場にしゃがみ込んだ。
「せいさん、大丈夫? ごめんね、もう少し早く助けてあげたかったんだけど、健一さんに電話して警察に連絡してもらったりしてたから」
「どうして、ここに?」僕は一番の疑問を投げかけた。
「せいさんと一緒のバスで来たんだよ。気がつかなかったでしょ」
恵梨香はハンカチで僕の目の周囲を拭ってくれた。
静寂に包まれた夜の街にパトカーのサイレンが微かに聞こえ、それは次第に大きな音へと変わっていった。




