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前夜の出来事を話し終えると、さすがに恵梨香も驚きを隠せなかった。あれこれ質問されたが、僕自身分からないことだらけだった。
「それって、絶対せいさんを罠に嵌めるためにしたことだよね」
恵梨香は難しい顔をして考え込んだ。
「声が違ってたってことは、相手はふたり以上いることは確かなんだよね。でも、どうして途中で電話の相手が変わったんだろう。普通に考えたら、そういうのはひとりでやるよね。ふたりで電話したら、仲間がいることが分かっちゃうもんね」
しばらくの間、恵梨香は無言で考えていた。
「ねえ、バイクの事故の時、ふたり組みって言ってたよね」
ああ、僕は事故の時のことを思い出そうとした。
「もうひとりの名前覚えてる?」
「う〜ん」
今度は僕が考え込んだ。
「僕らと接触して事故を起こしたのは小島って奴だけど、もうひとりの方は直接関係してなかったから・・、会ったのも事故現場で一度だけだし、あの日は暗かったから顔も良く見ていない」
「でも、一番可能性があるのは、その人じゃないかな」
恵梨香はマグカップを持ったまま、顔を寄せてきた。
「でも、何のために」
「何かトラブルがあって、ふたりが喧嘩して、小島って人を殺しちゃったんじゃないかな。それで、せいさんにその罪を被せようとして」
僕は苦笑した。
「それはないだろう。そいつが犯人だとして、僕を嵌めようとして接触して来たなら、殺されると分かっている小島が協力する訳がない」
「そうよねえ、最初からそういう計画があったとしたら、話が合わないものね」
事件の背景は分からないが、今の僕に出来ることといったら、小島から繋がる人間を探っていくしか思いつかなかった。
「でも、小島が亡くなってしまった今となっては、あいつから情報を得るしかなさそうだな」
「名前は分かるの」
さっきから名前を思い出そうとしているが、どうしても思い出せなかった。もしかしたら、初めから名前を知らない可能性もあった。事故の時に連絡先を交換したのは小島だけだった。
もうひとりの男の名前は、警察なら記録しているだろうが、警察に問い合わせることは出来ない。何か手がかりになるものは・・と考えたとき、健一のことを思い出した。
「そうだ、もうひとりの男は市内でスーパーマーケットを何軒か経営している親がいたはずだ。僕の友達が知っていて、商工会の青年部の集まりで会ったことがあると言っていた」
「じゃあ、その人に聞けば・・」
健一に聞けば、名前も連絡先も分かるかもしれない。
僕はポケットから携帯電話を取り出そうとした。その時、携帯が着信を知らせた。驚いて電話を開くと、知らない電話番号が表示されていた。
「どうしよう」
悪い予感がした。今まで会社関係や友達以外から電話がかかってくることはほとんどなかった。この電話は警察関係からの可能性が高い。会社や友人から聞き出せば、僕の電話番号くらい聞き出すのは容易なことだ。僕はボタンには触れず、留守番メッセージに変わるのを待った。
ピーという音の後、電話を耳に当てると、相手がメッセージを吹き込むのが聞こえた。
(河崎美野里警察署の橋田と申します。お尋ねしたいことがありますので、美野里署の方へご連絡ください)
電話が切れると、僕は思わず長い溜息をついた。
「警察?」
恵梨香も心配そうに覗き込んだ。僕は小さく頷いた。今は参考人扱いだから電話の対応も丁寧だったが、凶器の指紋が出れば僕は第一容疑者に昇格してしまう。
「この電話も、長くは使えなそうだ。僕が容疑者ということになれば、警察はGPSで簡単に僕の居場所を特定できる」
しばらくの間は電源を切っておいた方が良さそうだと思った。
「その前に健一に連絡しないと・・」
僕はアドレス帳ボタンを押し、健一の番号を選択した。携帯にかけたが、間もなく留守電に切り替わった。メッセージは入れず、店の電話番号にかけ直した。若い女性の声がしたので、店長をお願いしますと伝えた。
「はい、お電話代わりました。花田です」
「ケンイチ、俺だ。岡本」
「おい、セイジ。お前どこにいるんだよ」
声が大きくなったが、健一もそれに気付いたようで、回りをはばかるような小声になった。
「お前のところにも警察が行ったのか」
「来たよ。びっくりしたよ。お前、何したんだよ」
心配している健一には悪いが、くすっと笑ってしまった。
「何もするわけないだろう」
「そ、そうだよな。ちょっと待てよ」
しばらく音が途絶えて、普通の声に戻った。
「すまん。コードレスだから店の倉庫に入った。ここなら大丈夫だ。ところで、どういうことなんだ」
全部話すと長くなるので、電話で呼び出されて行ったら、そこで殺人があったということを手短に話した。
「そうか、お前は関係していないんだな。分かった。俺に任せろ。うちに来るか?」
「いや、お前のところは警察が目をつけているだろうから、今ばれなそうなところにかくまってもらっている」
「誰のところだよ」
恵梨香の名前をだすのはまずいと思い、言葉に詰まった。
「いや、お前の知らない人のところだよ」
「女か」
どうしてこいつはこういうところに感が働くんだろう。
「ああ」
健一の鼻から長い息が吹き出るのが、電話越しに伝わってきた。
「お前、いつの間に」
「そんなんじゃないよ、ちょっとかくまってもらっているだけだ」
「まあいい、俺にできることがあったら言ってくれ。なんでも力になる」
「ありがとう」ちょっと目頭が熱くなる言葉だった。
「聞きたいことがあって電話したんだ」
「なんだ」
「絵美の事故の時、相手側の一緒にバイクに乗っていた男のこと、お前知ってたよな」
「ああ、芳賀和樹のことだろう」
芳賀、そんな名前だったか。名前を聞いても僕にはなんの感慨もなかった。やはり覚えていなかったようだ。
「そいつの親父はスーパーやってたよな」
「ああ、不景気で最近店をひとつ閉めたけどな、それがどうした」
「連絡先は分からないかな、電話の」
「息子のか・・」健一はうーんと唸った。
「そうだ、前に青年会の集まりがあった時に名簿を配った記憶がある。あれに携帯の電話番号が載っていたはずだ。だけど、その名簿がどこにあるか、探してみないと分からない」
「わかった、じゃあ明日の朝にでも連絡する。俺の携帯は場所を特定されるとまずいから、電源を切っておくから、こっちから電話するよ」
僕は健一に礼をいって電話を切った。
「名前が分かったよ、芳賀って男だ」
恵梨香は電話を横で聞いていたので、大体のことは分かっていたようだ。電話番号が分かれば、電話をかけてみて声を確認することができる。
「ところで、せいさん。今日は泊まっていくんでしょ」
いきなりそう言われると面食らった。
「そこまで考えている余裕がなかったから、どうしようかな。漫画喫茶とかでも泊まれるみたいだし・・」
「だめよ、そんなところ。警察が一番に目をつけるわ。いいじゃん、お布団はひとつしかないけど、なんとかなるわ。一緒に寝る?」
僕は顔がかっと火照るのを感じた。恵梨香はそれを見て笑い出した。
「もう、せいさんたら、冗談よ。寝るところならなんとかなるわ。でも、顔が赤くなったわよ」
「ま、まさか」僕は顔を手で摩った。
「キムチ鍋のせいだよ」
その夜は恵梨香の部屋に泊めてもらうことになった。毛布と掛け布団が余分にあったので、下に毛布を敷いて寝た。僕はキッチンに寝ると主張したが、床が寒いからといって畳の部屋に一緒に寝ることになった。
小さな豆電球の灯りを見つめながら、しばらくは布団の中で話していた恵梨香だったが、仕事の疲れのせいか、間もなく小さな寝息をたて始めた。部屋にはバッハのピアノの音が微かに流れているだけだった。その音も三十分ほどすると消えてしまい、眠れないまま静寂の中で僕は恵梨香の寝息に耳をそばだてていた。




